宵闇に揺れる幻惑と囚われの真実 4
私たちが地上に戻ったとき、あの地下で漂っていた赤黒い光の残滓がまだ脳裏を刺激していた。全身にしぶとく貼りついた嫌な違和感が消えない。
スペイラは姿を消してしまった。まるで闇に溶けるように。あれだけの騒ぎを起こしておきながら、最後には指先一つ捕まえられないなんて、相当狡猾だ。剥ぎ取れたのは、あの実験室に散らばっていた資料や薬瓶の数々。
でも喜んでいる場合じゃない。これで一部の証拠は手に入ったけれど、やつの姿は消えた。まだ何かを企んでいる気配がひしひし感じられる。妙な不安が胸に広がる。
「躰が熱っぽいというか、まだ幻影に引っ張られてるみたいだわ」
呟いた私に、ゼオンが希釈された薬水を差し出す。口元に当てると、すうっと冷たい刺激が喉を通った。少しは気が紛れる。
「無理しすぎ。君の肩、震えてるよ」
「………気のせいじゃない? こんなにおいしいスリル、めったに味わえないもの」
ちょっと意地を張ってみたけど、ゼオンの目はまるで子供を見るように半笑いだ。ああもう、こういうときに先輩風ふかさないでほしい。
グレゴリー団長は部下たちを手早く動かし、資料の仕分けを進めている。彼らからは分厚い報告書のような束が次々と上がってくるものの、そこに書かれているのは専門用語の羅列ばかり。どうやら古代の術式と王家の血に関するものらしい。かすかにちらつく「命の延長」という文字列が嫌でも目を引く。
フィリスへの幻術も、そこから派生した研究の一端なのだろう。単なる脅しでなく、もっと深い陰謀が隠れているに違いない。
「一体、何を狙ってるのか……まさか不老不死なんて冗談じゃないわよね」
囁くように私が言うと、ゼオンが深刻そうにうなずく。
「途中まで目を通したけど、やつらは結界のエネルギーに王族の血を取り込む実験をしてた形跡がある。しかも、未完成のまま途中で途切れてる。彼女たちはもっと精度の高い術式を求めてるんじゃないかな」
「なるほどね。フィリスをわざわざ狙ったわけが、これで少しわかったかも」
夜気に当たると、さっきまでの熱狂が嘘みたいにクールダウンしてくる。私はふと、すぐそばに立っているエランへ目を向けた。彼は腕輪をいじりながら、どこか浮かない表情をしている。
「どうしたの? さっきまでのヒーロー然とした登場はどこいった?」
「ヒーローって言い方、ひどいな。僕だって手探りだったんだから」
エランはそう言って少し拗ねたように顔を背ける。その仕草が滑稽なくらい子供っぽい。けれど、彼の瞳には焦燥が見えていた。何か言いたいんだろうけど、うまく言葉にできない感じ。
「まあ助かったから感謝はしてるわ。ありがと。……あと、勝手に突っ込んでごめんね?」
気まずくて小さくつぶやくと、エランは息をつめたあと、視線を落としながら黙り込んだ。せっかく素直にお礼言ったのに、そっちが黙るのはずるくない?
だけど、それどころじゃない。フィリスは部屋で休んでいるものの、どうやら意識がはっきりしないことが多いらしい。おどろおどろしい幻影を見ては夜毎に悲鳴をあげると報告があった。
「まるで、幻術の“後遺症”が抜けきらないってことかしら」
そう問う私に、ゼオンも同じ見解を示す。どうやらスペイラの仕掛けは地下施設ごと破壊しても、消しきれるほど生易しいものじゃないようだ。
「あれだけ強力な結界だ。切り離しても一部が残留している可能性があるね。フィリスの精神に寄生する形で、力を保とうとしてるのかも」
寄生。最悪の響き。私は自分の腕をさすって鳥肌をなだめた。フィリス本人の身体は救出できたけど、心のほうはまだ解放しきれていない。これは抜本的な対策をしないと同じ悲劇の繰り返しだ。
「……焦る必要なんてないって言いたいけど、実際あんまり時間はなさそうね」
いつスペイラが戻ってくるやもしれないし、あるいは第三者が彼女を支援しているかもしれない。とにかく嫌な予感が尽きない。
団長からは「兵を増強する」と正式に伝えられたが、問題なのは敵の正体がはっきりしないこと。捕まえたと思ったら闇へ逃げるし、まだ内通者がいる可能性もある。どれだけ守りを固めたところで、不安を拭うには足りない空気だ。
そんな重苦しい雰囲気のなか、エランがやっと声を出した。
「僕は皇帝に調査を報告しなくちゃいけない。……だけど、ミオ。君のやりたいことに協力する。君がゼオンやあの団長と組むのは自由だ。僕は外野なのかもしれない。でも……」
そこで言葉を切る。彼の指先がかすかに震えているのが目に入った。
「いいけど? 私は誰とだって自由にやるわよ。あなたと組むのも悪くないけど、別に円満な関係目指してないし」
軽い冗談まじりに返してみたが、エランはますます難しい顔をする。子供みたいに拗ねていると思ったら、寂しそうにも見えるからややこしい。正直、そのギャップに少しだけ胸がくすぐったい。
と、そのとき。ゼオンが抱えていた書類が、突然ぼんやりと光を放ち始めた。まるで遠くから共鳴するみたいに、ぴかぴか点滅している。
「……なに、これ?」
私が覗き込むと、紙の端に書かれた古代恐らく文字の印がうっすら輝いている。嫌な予感が背中を掠めた。ゼオンは眉をひそめて書類をバサバサとめくる。
「さっき確かめたときは反応しなかったのに。誰かが結界か術式を再活性化させたのかも。これ、まさかフライングで動きが始まってるってことじゃ?」
「冗談でしょ? いま破壊したばかりよ? こんなの早すぎるわ」
だが、冗談じゃないだろう。スペイラは逃げのびると同時に、何か仕掛けを放置していった可能性がある。二度手間どころか、さらなる地獄を呼び込むかもしれない。
私は半ば呆然としたまま、書類の輝きが増していく様子を見つめた。光は寒々しいのに、胸の奥が熱くざわつく。また厄介な事態になってきた。さっきの戦いで消耗しきってるってのに、休ませる気ゼロなんでしょうか。
「とにかく、資料の分析を急ぐしかない。団長、こっちは強化結界でも張っておいてください。変な気配を感じたらすぐ報告を」
混乱を隠さずにそう告げると、グレゴリー団長は苦い顔を浮かべてうなずいた。兵士たちも疲労の色濃いが、もう一踏ん張りしてもらわないといけない。
フィリスは幻覚の残党に苛まれ、スペイラは闇のどこかで息を潜め、新たな結界がちらついている。最悪の組み合わせが揃っている気がする。
けれど、私はひそかに唇を引き結ぶ。今さら逃げるつもりはない。この冒涜的な実験を終わらせ、フィリスの後遺症を癒さなきゃ意味がない。
エランはまだ何か言いたそうだったが、私と目が合うと「やれやれ」とでも言うように首を振った。
「わかった。早めに皇帝に報告を挙げて、手を打つよう働きかける。だけど……僕のいないところであんまり無茶するなよ。そっちを闇討ちしてやるから」
「やる気ね。ま、楽しみにしてるわ。こっちこそ甘い顔見せたら、底なしの嫉妬心をぶつけられそうだからね」
当のエランは真顔で拗ねる。どうやら冗談じゃなく本気らしい。そんなに独り占めしたいなら、もう少し素直に態度を示してほしいものだ。
夜空を見上げると、どんよりとした雲が月を隠している。風が吹くたび、頬が冷えてひりつく。その痛みが不思議と心を奮い立たせる。
私は抱え込んだ資料にそっと触れた。この闇を断ち切る方法を探さなくちゃ。また地下深くへ潜ることになるかもしれないけど、それでもやる価値はある。
スペイラの目的が何であれ、私は必ず止める。フィリスも、これ以上苦しませない。どんな罠が待っていても立ち向かうしかない。恐怖を突き抜けた先に、きっとはっきりとした答えがあるはずだから。
「行きましょう。まだ眠るには早いわ」
意を決して踏み出すと、ゼオンが苦笑いをこぼす。エランは顔をしかめながらも、私の隣に並ぶ。その背後ではグレゴリー団長が騎士に声をかけ、さらに厳戒態勢を敷いてくれている。
不穏な予感は山ほどある。でもこのざわめきこそが私を突き動かすエネルギーみたいだ。激しく心が踊る。ビリビリする恐怖と興奮が同居する、なんとも言えない感覚。
止められない。突き進むしかない。私はもう一度、深く息をついてから皆を振り返る。視線が交差した瞬間、まるで火花でも散ったように胸が高鳴った。闇の中の戦いはまだ終わりそうもないけれど、かえって燃えるじゃないか。
「じゃあ、次の一手にいくわよ。今度こそスペイラの逃げ道を完全に塞ぐんだから」
迷いなんてない。恐怖を抱きしめ、走り抜ける。それが私の流儀だ。