宵闇に揺れる幻惑と囚われの真実 3
深夜の離宮は、ざわめく空気が全身を撫で回すように重苦しい。兵士たちが松明を掲げて廊下を駆け抜ける音。高順らしき誰かの指示が飛び交う声。私はフィリスの寝顔を見やりながら、低い息をつく。
「こっちが一瞬でも気を抜いたら、今ごろ全部終わってそうね」
ぼそりとつぶやくと、傍らで呪文の道具を並べていたゼオンが肩をすくめる。
「それは言いすぎ。まあ、あれだけ騒がしかったら敵も慎重に動くしかないんじゃないか?」
「あいつらが慎重に動くくらいなら、最初からこんなまどろっこしい幻術なんて仕掛けてこないと思うわ」
幻術が渦巻くように眠ったままのフィリス。彼女の呼吸は浅く、時折かすかなうめき声をあげる。寝返りもうてない姿は見ていて胸が痛む。だというのに、私の内心には謎を解き明かす昂揚がぐつぐつ煮えたぎっていた。誰かに咎められたら「研究熱心で結構なこと」とでも言い逃れるつもりだけど。
「さて。そろそろ準備OKよ。団長が用意してくれた手下、何人来るんだっけ?」
「五人。皆優秀だよ。まさか君が直々に“作業”の補助を頼むなんて、彼らも内心びくびくしてたよ。『彼女には近づくな』ってエランが言いふらしてるらしいし」
ゼオンの言葉に思わず鼻で笑う。あの嫉妬深い美形はどこまで私を自分の所有物扱いしたいわけ? そんな上下関係、結んだ覚えはないっての。まあ、その独占欲のおかげで警備が強化されるなら結構なことだけど。
廊下の先から、甲冑をまとった騎士たちが小走りでやってくる。先頭を切ってくるのはグレゴリー団長。相変わらず顔の彫りが深すぎて、闇の中だとまるで彫像みたいだ。
「準備は整った。案内を頼む。まさか本当に地下書庫の隠し通路へ向かうつもりか?」
「もちろん、行くつもり。フィリスのことで得たヒントは全部あそこに通じてるみたいだから」
「わかった。兵に命じて後方支援を固めさせる。だが、私の目の前で無茶はするなよ」
「はいはい。そんな心配ばかりされると落ち着かないわ」
団長の後ろにいる騎士たちは、私とゼオンの荷物をちらちらうかがっている。魔導書や奇妙な道具がごちゃ混ぜだから仕方ないけど、あまり長々説明している余裕はない。どのみち“見たくないもの”を見てもらう羽目になるんだし。
「では行きましょうか。フィリスのためにも、ここで足踏みしてる時間はないし」
私はゼオンと共に兵士を引き連れ、離宮の裏手へ向かう。小走りになると、心臓は嫌でも早鐘を打つ。緊張と昂揚の狭間で、息が上ずるのを必死に抑える。
夜風は冷たいというのに、私の体はやたら熱い。血が騒ぐ。あのスペイラがどこで待ち構えているか分からない。けれど怖気づく暇などない。むしろ立ち向かえる喜びに背中を押されている。
裏庭の茂みをかき分け、壁の溝を探す。団長の部下が見つけてくれた隠し扉は思ったより狭い。屈んで進まなきゃいけなくて、ドレス裾をぐいっとまくり上げる。騎士たちがそわそわ視線を外すのがおかしい。今さら色気アピールするつもりなんてないので、どんどん進む。
「あーあ、本当にこういう道があったんだね。こりゃあ地下どころか、地獄みたいな場所かもよ?」
ゼオンが胸ポケットから小さな水晶玉を取り出し、煌めきの呪文を唱える。暗闇が一瞬にして照らされ、不気味に湿った通路が浮かび上がる。天井によく分からない苔がびっしりと生えていて、気味が悪い。
でも私は足を止めない。奥へと続く長い階段を下るたびに、胃のあたりがぞくぞくする。遠くから、かすかなすすり泣きのような音が聞こえた気がした。
「わりとマジでここ、冥界観光スポットとかにできそう」
「あまり気楽に構えないほうがいいよ。逆に油断を誘われるかもしれない」
ゼオンの言い回しは冷たいが、声にはわずかな震えも混じっていて頼りになる。どんな状況でも興味をそそられて首を突っ込む変態研究者なところは否定できないけど、私にとっても心強いのは確かだ。
いくつもの階段を下り、錆びれた鉄扉をこじ開ける。そのたびにごうっという風圧が襲い、まるで私たちを追い払おうとしているように感じる。騎士たちが恐る恐る剣を抜き、周囲を警戒する。
「……なに? 壁から声が聞こえるような……」
一人の騎士がつぶやき、ぎょっとして立ち止まる。きっと幻術の残滓だろう。あちこちに仕掛けが張り巡らされている。
「落ち着いて。深呼吸して、目を閉じて。余計なことは考えない。空気は生ぬるいけど、ちゃんと息はできるから」
短くそう指示すると、騎士はいっとき顔をしかめていたが、すぐさま深呼吸してうなずいた。まだ大丈夫。その手助けをしながら、私は頭の中で術式の構造をシミュレートする。ここは単なる通路じゃない。きっとスペイラが前から動線を張った拠点かもしれない。ひとつ油断すれば命のやりとりだ。
やがて通路の突き当たりに分厚い木扉が現れた。そこから、じわりと嫌な気配がにじみ出てくる。心臓がバクバクいって、口の中が少し苦い。だけど私は扉に手を添え、一気に押し開いた。
すると次の瞬間、赤黒い光に包まれた、石造りの部屋が姿を現す。中心には粗末な祭壇。見慣れない文様が描かれ、周囲には所狭しと積まれた本や薬瓶。それらを見て、騎士たちは息を呑む。それも当然だ。まるで悪趣味な実験室だし、空気が妖気を含んでいる。
そして部屋の奥。黒い布をまとった影がゆらりと動いたかと思うと、こちらを嘲るような声が響いた。
「いらっしゃいませ。まあ、こんなに直行してくるなんて、随分と大胆なお客様ね」
低く響く女の声。スペイラ。間違いない。暗がりからのぞいた横顔は、あの離宮で見せたときよりもさらに狂気じみている。頭の上から下まで何かの液体を振りかけたらしく、髪からぽたぽた滴が落ちている。気味悪いことこの上ない。
「フィリスに仕掛けた幻術はあなたね? ずいぶん手の込んだことをしてくれたじゃない」
「ええ。王の血は特別だから。それに、あの子の恐怖が何よりのスパイスなのよ。私も研究の成果を早く確かめたくって、多少乱暴になっちゃったわ。ごめんあそばせ」
何がごめんだよ。私は内心吐き気を覚えながら、ゼオンと顔を見合わせる。本や書類が山ほど放置されたままだ。この場所そのものが実験台なのだろう。幻術の根幹をここで組み上げていたというわけだ。
騎士が一斉にスペイラを取り囲む。だが、彼女はまったく動じずに微笑んでいる。
「何をそんなに焦っているのかしら? そんなに王家の子が大事? ふふ、ならご覧にいれましょうか。もっと美しく、もっと強くなるための術式を」
それを合図に、空気が一瞬にして歪んだ。視界がぐにゃりと揺れ、私たちを取り巻く空間そのものが変化していく。下手をすると、立っているかどうかも分からなくなりそうな感覚。でも私は歯を食いしばって踏みとどまる。
「痛みや恐怖で支配したいなら……残念だけど、私は慣れっこなのよ!」
声を張り上げ、すかさずゼオンが用意してくれた護符を握る。手のひらから熱が走り、幻術の圧力をはじき返すイメージを放つ。それだけでは防ぎきれない。だけど、時を稼ぐには十分だ。
「やってくれるじゃない。ならばあなたも生贄にしてしまおうかしら?」
スペイラが祭壇の脇に手をかけると、血塗られた短剣らしきものが笑みを浮かべているように見える。冗談じゃない。私はどうにか脚を踏み込んで前へ出る。すぐ横では、騎士たちが苦しそうに呻き声をあげている。幻覚攻撃をまともに食らってる証拠だ。
ゼオンが一瞬で呪文を唱え、そこから生まれた風が部屋を吹き荒れた。祭壇付近の資料や赤黒い瓶が床に散乱する。スペイラが目を細め、短く舌打ちした。
「余計な邪魔を。魔術師風情がしゃしゃり出るなんて……でもいいわ、ここでまとめて灰にしてあげる!」
その言葉とともに、空気がまるで熱を伴って焼けるようにうねる。火炎でも出すつもり? 私は恐怖を振り払い、意識を集中させる。脱出? ダメだ、ここで退けばフィリスやこれまでの被害者の苦しみが全部無駄になる。だから、突き進むしかない。
祭壇を蹴散らすように、私は護符を高く掲げる。ゼオンが後方で補助の術式を紡ぎ、騎士が必死に耐える。視界はまだ歪んでいるけど、それでも焦点を外さずに、床に描かれた文様を把握する。
“術式の核”を狙えば、攻撃を一時的にでも封じ込めるはず。私はその一点を射貫くイメージを描き、集中力を高める。頭がちぎれそうに痛い。でも、こんなところで負けるわけにいかない。
「散れっ!」
叫ぶと同時に、叩きつけるように護符を地面に打ち付ける。瞬間、びりびりと大地が震え、空間を侵していた赤黒い光がわずかに後退する。スペイラの目が鋭くひきつる。負担で体が軋む音がするけれど、私はさらに声を張る。
「フィリスの痛みをもてあそんだ報い、きっちり受けてもらうわよ。二度と人の尊厳を踏みにじらないように、ね!」
血反吐を吐くくらいの気迫で呪文の言葉を紡ぎ、四方に張り巡らされた見えない鎖をひきはがす。ゼオンは脇から援護の氷の魔法をぶつけ、団長たちも再度突撃の合図をかける。その一斉攻撃に、さすがのスペイラもバランスを崩した。
「くっ……! ふざけた真似を!」
彼女が短剣を振りかざしかけたその瞬間、扉の奥から強い光が差し込んだ。エランが飛び込んできたのだ。腕輪が妙に輝いていて、まるで彼自身が光源みたいになっている。いつのまにこんな演出を仕込んだのか、驚くより先に目が眩む。
「遅くなった。もう勝手に無茶するから」
その呆れた声は多少怒り混じりだが、私を心配してるのが伝わってくる。不覚にも胸が高鳴る。だけど今はそんな余韻に浸っている場合じゃない。
スペイラが怯んだ隙に、私は護符を叩きつけて祭壇の足場を破壊する。儀式用の台が瓦礫と化し、血染めの短剣も床に落ちた。騎士の一人が飛び込んで、それを弾き飛ばす。赤黒い光が散って、室内を覆っていた幻術がいっきにしぼむように消えていった。
「やっと少しは静かになったわね」
「嘘……こんな……!」
スペイラはぼろ布のように崩れ落ち、苦しげに息を荒げる。だけど、その口の端にうっすら笑みが浮かんでいるのが気になる。一抹の不気味さが残って、私は身構えた。
案の定、彼女は最後の力を振り絞って手を振る。すると背後の壁が崩れ、隣の通路に通じる穴が開いた。まさか逃げ道を仕込んでいたのか。グレゴリー団長と騎士たちが追おうとするが、スペイラは黒い残像を引きずりながらその抜け道へと消えていく。
「厄介なやつ。追いかける?」
ゼオンが息を切らして尋ねる。私は周囲を見回す。ここにある機材や書類を押収すれば、フィリスを苦しめる幻術の大元は解明できるかもしれない。あらゆる証拠がそろっているのだから。今すぐスペイラを追いたい気持ちはあるが、仲間への被害も想定しなきゃならない。下手に散り散りになって罠にはまるのは勘弁だ。
「一旦回収が先。フィリスの治療に役立つものが絶対あるはず。団長、ここを押さえられますか?」
「ああ。やってみる。お前も気をつけろ」
団長たちが部屋中の書類に飛びつく。割れた瓶から異様な匂いが漂うのに、嫌な顔ひとつせず声をかけ合って動き回る。頼もしい。私はそれを横目に、崩れかけた祭壇を蹴り飛ばして一息つく。
「やれやれ。でも、助かったわ。さすがに一人じゃきつかった」
私は額の汗を拭いながら、エランをねぎらうように横目で見る。彼は腕輪を見つめて、少し複雑そうに苦笑する。
「最初から呼んでくれたらよかったのに。独り占めしたいわけじゃないけど、勝手に君が危険を背負うのは嫌なんだよ」
「あら、ごめんね。あなたの迷惑になりたくはないんだけど、ついつい。……それとも私が別の誰かに助けられたら拗ねちゃう?」
「拗ねるに決まってるだろ。僕がどれほど……いや、なんでもない」
最後のほうが聞こえなかったけど、感情丸出しじゃないか。可愛い奴め。私だって素直に謝るつもりはないけど、助けがあったおかげで大事に至らず済んだのは確かだ。
こうして無事に部屋を制圧したものの、スペイラは逃げ、謎は深まるばかり。フィリスの意識が戻ったとしても、後遺症の治療には時間がかかるに違いない。だけど、ここまで来たらもう後戻りはしない。必ずスペイラを捕まえて、この馬鹿げた研究を根こそぎ断ち切ってみせる。
「じゃあ次の手はこの資料を読み解くこと。そしてフィリスの幻術を解く方法を探す。あとはスペイラの狙いを解明しないと」
私は荒れ果てた実験室を見回しながら、改めて息を引き締める。こんな血生臭い場所、さすがに長居する気にはなれない。みんなが撤収準備を急ぐ中、奥の壁にかかった古びた布がちらりと目に入った。何やら不気味な紋章が描かれているが、ここまでくれば驚きはしない。むしろ意欲がわくくらいだ。
「ちょっと、そこの布も回収しておきましょ。何かの手掛かりになるかもしれない」
そう言ってゼオンに合図すると、彼は「せっかちだなあ」と笑いながら布を引き剥がす。その瞬間、あのスペイラのヒステリックな笑い声がまた遠くで木霊した気がした。背筋がぞわりと震える。まだ終わりじゃない、っていうメッセージかもしれない。
けれど私は怖気づかない。この身を焼くような興奮と使命感は一度火がついたら止められない。フィリスのためにも、ここにいる皆のためにも、そして私自身の好奇心を満たすためにも。
闇が深いほど、私はその裂け目をこじ開けたい欲望に駆られる。師匠からは「ほどほどにしろ」って何度も言われてきたけど、今はそれどころじゃない。
「行くわよ、ゼオン。そしてエラン。やられっぱなしじゃ気が済まないわ。スペイラがどんなに逃げても、黒幕が背後で糸を引いていようが、全部暴いてやる。こんな安っぽい幻術に振り回されて終わるのは、まっぴらごめんだからね」
最後にもう一度、赤黒く汚れた床を踏み締める。勝ち取った小さな勝利と、これから続く長い戦い。その両方が私の胸を、痛いほどドキドキさせる。暗い地下の空気が、なぜか甘く感じられた。
それはきっと、私がこの危機に酔いしれている証拠。悪趣味かもしれない。でも何とも言えない、この絶頂感。必ず勝ち抜くと決めているからこそ、私は笑みを浮かべて先を急ぐのだ。