月蝕の庭に哭く理と激情の狂瀾5
装置の奥に潜む黒い石の欠片が、脈打つように不気味な光を明滅させていた。その光を見ただけで、身体の内側がちりちりと焼け付く錯覚を覚える。浮遊庭園の足場はところどころ崩落し、あちこちに散り散りになった仲間たちの姿が一瞬ずつ闇間に見え隠れする。地響きが次第に大きくなってきた。
「――まずい、完全に暴走しかけてるわね」
ミオの声が震えている。先ほど魔力を爆発させたエランは、胸元を押さえてまともに立てそうもない。高熱に侵されたその顔に、セシリアが必死に冷やした布を当てていた。崩れかけた床の上に、危うい姿勢でバランスを取る彼女の手つきは妙に正確だ。
「セシリア、よくそんな状態で看護なんかできるわね。おまけに揺れる足場なのに……」
バンドー・リェルが驚き半分でそう洩らすと、セシリアは慌ててかぶりを振る。
「い、いえ、何も考えてません。飛び回ってるだけですよ」
「いや、あんた絶対わかってやってるだろ?」
グレゴリーが疑わしげに目を細める。彼は未だ部下たちを探して周囲を睨んでいるが、紙一重の危険をぎりぎりで回避するセシリアの動きに内心舌を巻いているようだ。だが、本人にまったく自覚はないらしく、真っ青な顔でひたすらエランの体温を測るばかり。どうにも、この場の緊迫とは別の次元で、有能さをさらしている。
一方、ミオはそんなやり取りを横耳に聞きながら、ゼオンの隣で浮遊庭園の様子を必死に見回していた。先ほど、装置は一度大きく沈黙しかけたはずなのに、フィリスの暴走と重なるように再度活性化している。庭園全体が闇色に染まり、裂け目から熱い風が吹き上がってきていた。
「どこだ、フィリスは……?」
瓦礫と煙の向こう、フィリスの声が断続的に聞こえる。彼女に近づこうにも、魔力の渦が凶暴化していて踏み込むのが怖い。けれど放っておけば、装置と結界が最悪の相乗効果を起こし、完全な崩壊へ一直線だ。
「走り回って疲れるわね…。ま、ここでへばれば、あいつらにざまぁされるだけだし」
ミオは言うや、どこか痛んでいる右腕を振って立ち上がる。怯んでいる暇などない。割れて飛び出した石片を蹴散らし、ぐらつく通路を猛ダッシュで駆ける。
ようやく姿を捉えたフィリスは、石柱の根元に崩れ落ちていた。結界の残滓がかすかに揺らめき、彼女の周囲を取り囲んでいる。意識はあるのかないのか、虚ろな瞳で亀裂の向こうを見つめていた。彼女が心許なく口を動かすと、庭園の空気がいちいち引き攣れる。
「フィリス、しっかりして! あんたが崩れたら、皆吹っ飛ぶっての!」
呼びかけるミオに応えるように、フィリスの細い声がかすれた。
「やめたい……苦しい。もう、これ以上王家の力なんて」
泣き言を言う彼女を叱咤しようとしたそのとき、突然、真上から黒いマントがひらりと舞い降りる。スペイラが薄く歪んだ笑みを浮かべ、鋭くミオを睨んでいた。
「いい子ね、フィリス。あとはあなたをさらって、満月の夜の供物にするだけ」
「ふざけんな、誰がお前の好きにさせるか!」
応戦しようと矢継ぎ早に魔術を組みかけるも、装置の波動がミオを邪魔する。足元が再び激震に襲われ、平衡を崩す。思わず息を呑むと、スペイラは軽蔑の眼差しでミオを見下ろした。
「この庭園ごと沈めてやってもいいのよ? どのみち、あなたたちは闇に飲まれる運命」
――その嗤いが最後まで届く前に、火花のような光が断続的に迸った。ゼオンの牽制魔術だ。隙を突き、ミオはフィリスを抱え込むように引っ張り出す。
「フィリス、あんたが折れたら終わりなんだからね。ほら、息して!」
混濁する意識の中でも、フィリスはミオの声を頼りに必死で呼吸を整えていた。すると、結界から漏れていた闇もわずかに収まる。それでもスペイラは逃がす気配がなく、石柱を回り込んではにやりと笑う。いっそ彼女を倒してしまいたいが、この状況では簡単に踏み込めない。
「グレゴリー! こっちの援護頼む!」
「わかってる! おい、皆、セシリアを中心にまとまれ! 離れるなよ!」
彼が指示を飛ばすと、騎士たちは満身創痍ながら懸命に散り散りの仲間を集め始めた。セシリアはまだエランを看ているが、その冷静な手順がやたら鮮やかだ。辺りに崩れ落ちた木片や石屑を最小限に避け、スムーズに負傷者を引き込んでいる。誰もが彼女の指示を自然に聞き入れていて、結果的に強固な防御態勢が整いつつあった。
「くっ……ほんと、使える子ね」
ミオは小さく呟く。セシリアが勝手に場を仕切っているように見えるのに、誰も文句を言わないどころか、感謝すらしているのだから恐ろしい。グレゴリーもゼオンもその有能ぶりを内心で認めているのが見て取れる。
一方、荒れ狂っていたフィリスは、ミオに抱えられながら息を吹き返したようだ。仄かな光が胸のあたりで瞬き、かろうじて結界の輪郭を保ち始めている。でも、彼女一人では押さえきれないのは明白だった。再度、バンドー・リェルが差し出した鍵が、ミオの手にずしりと重みを伝える。
(ここでやらなきゃ、もう後がない)
背後ではスペイラの狂笑がこだまする。庭園の大裂け目から上がる黒い気配がさらに濃く、石の欠片の鼓動も高まる一方だ。
「エラン、少しでも動ける? ごめん、あと一度だけ力を貸して」
セシリアが問うと、うなされつつ倒れていたエランが浅く頷き、腕輪をきつく握りしめる。その瞳に決死の炎が宿るのを感じ、ミオはためらいを振りほどくように叫んだ。
「装置を停止させる! 皆はフィリスとエランを守れ! スペイラは……私が止める!」
その瞬間、庭園を包む闇色の月光が毒蛾の翅のように揺らめいた。割れた大地から吹き上がる瘴気を振り払いながら、ミオは鍵を奥へ差し込む。ゼオンがサポートの魔術を放ち、グレゴリーたちが周囲を死守する。エランが苦しみに耐えつつ強大な魔力を注ぎ、フィリスもわずかながら王家の力を合わせた。
「ざまあ、って言いたいのはこっちよ…。消えなさい!」
最後の呪文が轟いたと同時に、装置の内部で明るい閃光が走った。その衝撃でスペイラが一瞬ひるみ、闇装束の部下たちが悲鳴を上げる。
そして――どおん、と天地を振り裂くような爆音が重なり、園内を満たしていた黒い光が一時的に吹き飛んだ。装置は崩れに崩れ落ち、黒い石は亀裂の中へ沈んでいく。けれど、そのまま終わるはずがなかった。石の声のような低い震動が、まだ底の底で蠢いている。
周囲を見回せば、騎士や魔術師たちは瓦礫の山で辛うじて踏みとどまり、スペイラの姿はまたしても消えている。あちこちにひどい傷を負った人影が倒れたまま。
「……完全には止めきれなかったか。でも、少しだけ鎮まった。まだやれるわね」
ミオが膝に手をついて息をつくと、フィリスもエランも限界スレスレながら生き延びていた。セシリアはどこかしら埃まみれになりながら、必要な薬を配っている。彼女の周りだけは奇跡のように落ち着いて見えた。
「これで闇が本格的に消えたわけじゃない。満月の夜が来れば、さらに何かが起こるはず」
ゼオンが苦渋の色を浮かべて言うと、ミオも同じ思いに胸を苛まれる。黒幕の影は不気味に長く、黒い石はまだ完全に沈黙していない。スペイラも消えては再来するやっかいな亡霊だ。
それでも、確かに一筋の光は射し始めている。セシリアの的確すぎる処置で、仲間たちが次々に回復へ向かい、フィリスやエランも死線には落ちていない。呼吸を整えているだけで、まだ先を目指せるという感覚が湧いてくる。
「よし……みんな、ここからが本番よ。こんな闇くらい、蹴散らしてやりましょ」
足元で揺れる浮遊庭園を睨みつけながら、ミオは熱い息を吐きだす。月蝕の夜まで、もうほとんど時間がない。その先で何を得て、何を失うのか。わからないが、とりあえず今は生き延びた。灰となるのも、ざまぁされるのもまっぴら御免だ。
轟音が静まった廃墟の只中で、セシリアの何気ない一声が聞こえる。
「皆さん、無理はしないでください。まだ、できることはありますから」
その明るい声に、全員の士気がわずかに上昇したように見えた。まったく、セシリアには自覚がないらしい。それでも、その無自覚な有能ぶりに救われる未来が、今まさに動き始めている――そう信じたい。今のところは。
やがて森閑とした闇が再び庭園を包む。黒い石の欠片は微かに鼓動し続け、次なる破局を待ち構えているように感じられた。
だが、どんな予感があろうと構わない。ミオはこぼれる血を拭って立ち上がる。
「次は私たちが笑う番。あのスペイラも黒幕も、まとめて泣かせてやるわ」
そう吐き捨てるように言い放ち、崩れかけた庭園の奥へ視線を据える。足元が震え、月の光が乱舞する。今はただ、この不穏を突破するために走り抜けるしかない。
――残り時間はわずか。満月の夜は、すぐそこだ。




