月蝕の庭に哭く理と激情の狂瀾4
空気がびりびりと震え、浮遊庭園を覆う結界が不可解な波動を発し始めた。破裂寸前の予感に、全身の皮膚が粟立つ。あちこちに走る罅から淡い紫の光が微かに漏れ、庭園の各所を怪しく照らす。それを合図にしたかのように、黒装束の集団が突如として群れをなして押し寄せた。
「ちょっと、あいつら出迎えが派手すぎるんじゃない?」
ミオが軽口を叩きながら、ENC(剣を抜く、または準備をする等)――と言いたいところだが、彼女は素早く魔力を回す構えを取る。エランは傷めた腕を押さえつつ、相手の出方を窺う顔をしかめた。彼の身体のどこかで呪印が暴れそうなのが見て取れる。
「スペイラめ、また下っ端をけしかけてきたわけか。生ぬるい手は通用しないって、まだ学習しないのかな」
ミオが嘲るように言うと、闇の手下たちは一斉に矢を番える。その矢先に、奥から鋭い声が飛んだ。
「下がって! 散開して戦いにくい陣形に持ち込むわよ!」
グレゴリーが騎士らに命じ、騎士団は素早く左右に分かれて矢の雨を回避する。そこへゼオンの魔術光が閃き、敵の先端を焼き払った。息をつく暇もなく、砕けた石床が崩落し、庭園の縁がぐらりと傾く。フィリスが薄く声を上げた。
「……もう耐えられないの? このままじゃ結界が……」
彼女は王家の力でどうにか結界の綻びを繕おうとしているのだろう。しかし、その頬は青ざめ、立っているのが精一杯に見えた。すぐそばでエランが低く呻く。
「ぐっ……っ、呪印が暴れだした。早く何か手を打たないと、俺まで暴走しそうだ」
エランが痛みに突っ伏す姿に、セシリアがさっと駆け寄る。片手で彼の腕を掴むと、もう片手でフィリスの肩を支えた。見事な同時対応に、思わずグレゴリーが唸る。
「セシリア、あんた……ほんと肝が据わってるな。そっちの専門職でも目指せるんじゃないのか?」
「そ、そんなことありません。だって私、大したことしてないですし」
口では謙遜しながら、慌ただしく止血薬を取り出し、同時にフィリスにも短く声をかけて励ましている。彼女の周囲だけ不思議な落ち着きが漂い、まるで崩れゆく天空の片隅に安息の一角を築いたかのようだ。誰もがセシリアの有能さに舌を巻きつつ、今はそれどころではないと気合を入れ直す。
「ミオ、その“禁断の魔術装置”ってやつが、さらに騒ぎ始めてる。どうする?」
ゼオンが視線を送る先、庭園中央に据えられた台座がゴウンと低く鳴動を発していた。刃のように尖ったパーツがわずかに姿を変え、紫の火花を散らしている。それは自我を持った怪物のように、今にも大暴れしそうだった。
「ヘタにちょっかい出せば庭園もろとも吹っ飛びかねない。でも何もしないで放置すれば、あいつらが起動させて好き勝手使うでしょ? だったら、やるしかないわね」
ミオが歯を食いしばる。だが、装置の制御を試みようにも、フィリスの魔力干渉とエランの呪印の乱れが重なり、正確な術式が組みにくい。打開策を探るうち、スペイラ本人が姿を現した。黒いマントを揺らし、病的な笑みを浮かべている。
「月蝕の夜までもう時間がないの。ここで散ってちょうだい。邪魔者は全部消し炭にしてやるわ」
言うや否や、彼女の部下たちが一斉に突撃を仕掛ける。生き残っていた兵士たちも、ここが正念場だとばかりに応戦に移る。グレゴリーの号令に合わせて剣が火花を散らし、ゼオンは連続で魔術を放ち、怒涛のアクションが展開された。
「この部分……外して!」
セシリアが追いすがる敵を蹴り払いながら、ミオに向けて叫ぶ。いつの間にかバンドー・リェルから託された“鍵”を手に、装置の基部を示していた。まるで最初から仕組みを知っていたかのように、要点を的確に指摘するのだから恐れ入る。
「……あんた、何者よ?」
ミオが目を丸くしながらも指示通りに魔術を流し込み、焦げついた配線をむしり取る。まとわりつく閃光とともに、装置全体がガクンと揺れた。だが、同時にフィリスが悲鳴をあげ、その魔力が暴走しかける。結界と装置と両方の干渉が絡み合って、庭園全体が縦に裂けそうなほど震えた。
「フィリス、踏ん張って! 今止めないと、大惨事よ!」
必死に呼びかけるミオの声すら、轟音にかき消される。グレゴリーやゼオンも必死に耐えているが、いたるところで亀裂が走り、石畳がいまにも深い闇へ崩落しそうだった。
「ああ、もう! ざまぁされるのはお前らの方だっての!」
スペイラが得意げに叫ぶ瞬間、エランが膝をつきながら腕輪に手を当てる。彼の瞳に宿ったのは、暴走寸前の覚悟。
「悪いが、一瞬だけ威力を解放する。皆、吹き飛ばされたくなけりゃ踏ん張れ!」
荒ぶる電撃がエランの体表を奔り、周囲の闇装束を容赦なく撃ち据えた。絶叫とともに賊たちが倒れ、スペイラすら怯んだ刹那、ミオとセシリアが装置の中央に手を伸ばす。裂け目から紫の光が一気に迸った――。
白い閃光が視界を焼く。ごう、と強烈な風圧が渦巻き、一同は吹き飛ばされかけた。ドクン、と嫌な鼓動音に似た振動を最後に、装置はがくりと鎮まる。月光がぐらつく庭園全体を照らす中、スペイラの姿はいつの間にかかき消えていた。黒装束たちも影のように散り、一瞬の静けさが戻る。
「勝った…の?」
そうつぶやいたのはフィリスか。だが、すぐに倒れ込み、エランも半ば意識を失って高熱を帯びている。目の前には大きく裂けた地割れが走り、庭園が部分的に崩落しそうだ。
「まだ……終わってない。見て、あの石!」
ゼオンが震える指を向ける先――破損した装置の奥から“黒い石の欠片”が脈動を始めていた。見るだけで背筋が凍るほど不気味な光を明滅させ、嫌な予感を煽る。
わずかに息を整えたミオは、崩れてできた段差を越えてエランのもとへ。セシリアが必死で彼の体温を下げようと薬箱を探していた。女性らしき優しい手つきだが、考えなしの行動では決してない。妙に的確で、傍から見れば医師紛いの働きぶりだ。
「セシリア、あんた……やっぱ有能すぎるんじゃない?」
「え? そ、そんな、私は何もわかってませんよ」
虚ろな笑みを浮かべながら、セシリアは素材を取り出して湿布をこしらえる。彼女の大胆な支援に救われたのは一度や二度じゃない。グレゴリーがムッとしながら「うちでも引き取りたいぐらいだ」と零すのを、ミオは横目で見て苦笑する。だが、今は感謝を言ってる場合でもない。
「庭園の綻び、放っておくと全壊するかも。あの黒い石の動きも嫌だし、スペイラがまた出てくる可能性が高い」
ミオはバンドーから預かった最後の“鍵”を握りしめ、どうにか策を考える。だが、肝心のフィリスとエランが限界寸前では、大掛かりな魔術陣を張ることすら困難だ。心臓がドクドクと痛いほど高鳴る。ここを踏んばらなければ、王国全土が闇組織の養分にされかねない。
しかし勇気は残っている。セシリアが懸命に二人を看病する様は、確かに希望の光だ。それを見ていると、まだやれる、そう思えてくる。ミオは唇をきつく噛むと、ぐらぐらと揺れる石段の奥を睨んだ。
「月蝕本番まで、時間がもうない。お望み通りにざまぁってやるわよ。誰が先に土下座するか、見ものじゃない」
自分の声が震えているのを知りつつ、あえて強がる。広がり続ける亀裂へ、一歩、また一歩と足を進めたその先には、待ち構えるさらなる試練があるのだろう。次々と襲い来る恐怖を振り払うように、どこか胸の奥が熱く昂る。
今はただ、この終わりなき闇を振り払うために。スペイラも黒幕もまとめて出し抜き、徹底的に痛い目を見せてやる――そう心に決め、ミオは冷たい月光の下を進む。
浮遊庭園は崩落寸前、黒い石は脈動を増し、スペイラも姿を隠したまま。本当の戦いはここからだ。
まだ終わりじゃない。あと少しで月蝕が始まる。果たして誰が笑い、誰が泣くのか――その答えは、もはや一瞬先の闇の中に潜んでいた。