月蝕の庭に哭く理と激情の狂瀾3
ぎしり、と嫌な音を立てる崩れかけの通路を抜け出すと、風に混じって湿った土の匂いが鼻をついた。まばらな月光に照らされた先に、石造りの館が不気味にそびえている。そこが目的地だと誰もが直感するほど、異様な気配が漂っていた。
「ちょっと、これ以上崩れる前に駆け抜けないと、骨まで折られるんじゃない?」
ミオが苦い顔でぼそり。言葉と同時に、突如として周囲の陰から奇怪な叫び声が上がった。ぞろり、と湧く闇の人影。スペイラの手下と見分けがつかないほど各々が黒装束に紛れている。
「やっぱりか。あいつら、しつこい。いいわよ、迎え撃つ!」
グレゴリーの号令で騎士たちが盾を構えるが、その間隙を縫うように影の刃が閃く。ざっ、と視界が揺れたかと思うと、後方の若い兵士が血を流してうずくまった。
「犠牲か…最悪。けど、ここで足止めされたらもっとひどいことになる」
周囲が一瞬凍りつくなか、エランが呪印の痛みに唸りつつ前へ出る。腕輪をぎりぎりと握りこむと稲妻めいた魔力が走り、影の一団を一掃しにかかる。容赦ない衝撃に、複数の刺客が悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「さすがエランさん、ちょっとは頼りになるのね」
ミオが茶化すと、彼は額の汗を拭いながら悪態をつく。
「すまんが痛みが倍増した。おまえで癒されると思うか?」
「いーや、ざまぁ見ろって感じ。さっさと立てるなら立つのよ。フィリスが待ってるんだから」
辛うじて身を起こした兵士をセシリアが支え、しゅるりと手際よく止血の布を巻く。騎士たちに負けず劣らず落ち着いた手さばきだ。グレゴリーが唸る。
「また助けられたな。セシリア、あんたは驚くほど頼りになる。正直、まるで医官だ」
そう軽口を叩かれても、セシリアは「別に…私、こっちが本職じゃないし…」と恥ずかしそうに目を伏せる。彼女は有能だと周りが思っているが、当の本人だけはまるで自覚がなさそうだ。まるごと一段落したところで、ミオはさらに通路の奥を見据える。
「じっとしてる余裕なんかないわ。留まっていれば、あの女官が次を仕掛けてくる」
「おれらもせいぜい急がんとな。今度はスペイラ本人が出てくるかもしれん」
エランが肩を回しながら笑う。痛みに顔を歪めても、その視線には戦意がこもっている。再び警戒態勢を整え、一行は館の扉をこじ開けるようにして中へ潜り込んだ。
石壁の廊下はひんやりと冷たい。床には黒い線のように禍々しい魔術の痕が走っている。その先に、色とりどりの奇妙な紋様が刻まれた扉が半開きになっていた。ドキリ、と心音が早まる。中からは不穏な振動が伝わってくるのだ。
「……やっぱり隠してやがったのか」
恐る恐る扉を開くと、広間の奥に円形の台座があった。その中央に鈍い光を放つ巨大な装置が据え付けられ、管のようなものが絡み合っている。バンドー・リェルがそこで待ち構えていた。彼が痩せた頬をひくつかせながら、低く呟く。
「まさか、こんなに早くここに来られるとは…。だが手遅れだ。これは秘された“禁断の魔術装置”だぞ。下手に触れば全員を巻き添えにする」
部屋の空気が張り詰める。ゼオンは奥歯を噛み、グレゴリーも騎士たちに「不用意に近づくな」と合図を送る。だが、ミオの瞳は装置を凝視したまま燃えるような好奇心を宿していた。まるでその仕組みを一つ残らず解体してみせようとでも言いたげだ。
(この回路と水晶の配置…。絡んでいる呪術が厄介すぎる。だけど……いけるかもしれない)
彼女が無言のまま、そっと手のひらをかざすと、装置の基点が青く脈打った。その様子にゼオンがたまらず声を荒らげる。
「待て、危険だ! そんなに直近で魔力を注いだら――」
ぴしり、と嫌な音が響く。周囲を張り巡らす魔術的な回路が一瞬揺らぎ、火花を散らすように閃いた。横合いからフィリスがか細い声で止めに入る。
「平気……ミオなら、きっと何とかするわ」
「けど、あなたこそ限界じゃない? 顔色がひどい!」
ミオが振り返って言いかけた瞬間、フィリスは膝をつきかける。そして、王家の力を見えない形で発動させているのか、室内の気流がぐにゃりと歪んだ。身体を支えようとしたエランがまた唸る。互いに傷を抱えた状態で、どうにか結界を維持しようとしているのだ。
「……何かあれば私が何とかする!」
セシリアが一歩前に出るなり、エランの手を取り、倒れ込みそうなフィリスにも肩を差し出す。二人を同時に支えながら、慎重な目つきでバンドーを睨む。まるで「観念して協力しなさい」と言わんばかりの鋭さだ。そんな彼女に気圧されてか、バンドーは弱々しくうつむく。
「仕方ない…巻き込む気はなかったんだが、もう後戻りできん。この装置は…闇組織に渡れば、取り返しのつかない惨事を引き起こす可能性がある」
一瞬の沈黙。グレゴリーが低く嘆息する。
「いったいどう止めりゃいい?」
「おそらく、ここに収められた“核”を押さえる必要があるんだろ」
ミオは台座の下部に通電紋様を発見し、そこを指さす。巧妙に配線のような魔術回路が隠してあり、それを取り外さない限り暴走を止められないらしい。しかし、手を出した瞬間に装置が大爆発を起こせば全滅である。
「背水の陣ね。誰かが引きはがしを担当して、残りは襲撃に備える。ファーストアタックが失敗したら知らないわよ」
ミオの言葉に、エランは皮肉げに口端を曲げる。
「本当にやる気か。呪印の苦痛と爆発、どっちが先に俺を殺すか楽しみな話だな」
「縁起でもないこと言わないで。あんた、しぶといんだから大丈夫でしょ」
まったく悪びれない調子に、エランは苦笑しながら軽く肩をすくめる。だが、志願したのはセシリアだった。
「わたし、あそこの補修用具があれば回路の板を一枚ずつ外せるかも。誰かが妨害してきたら、止めてください…」
「セシリア、無茶しないで」
「いえ、無茶なんて…私、ほかにできることありませんから」
申し訳なさそうに首を傾げる姿にはまるで覚悟の影すら見えないが、周囲が気づかないうちに準備道具を整えている。彼女がいるだけで、じわりと状況が切り拓かれていくようだ。ミオも息をのみ、こくりと頷いた。
「わかった。なら、あたしたちが周囲を抑える」
グレゴリーは剣先をきりりと上げ、ゼオンは魔術の構えをとる。そしてフィリスとエランは、互いの体を支え合いながら端で見守る。嵐のように胸が高鳴って止まらない。いつスペイラがとどめを刺しにくるかもわからない。けれど、今を逃せば装置が闇の手に渡ってしまう。
粘りつくような沈黙。セシリアが装置の端にしゃがみ込み、工具を使って板を外しにかかった瞬間、魔力の震えが館全体にぞわりと走った。大地がきしみ、天井に亀裂が走る。外の月光が微かに差し込んだところで、誰かの冷笑が広間に響く。視線を向けると、闇色のマントが翻った――。
状況は最悪かもしれない。けれど、一歩も退かない。ここでもう逃げたら“月蝕の儀”は連中の思うつぼだ。そして、セシリアの縁の下の奮闘を無駄にするわけにはいかない。
心臓が激しく鼓動し、先の見えない不安は最高潮へと達する。だがそのぶん、昂揚感も倍増だ。ミオは唇に鋭い笑みを浮かべて、叫んだ。
「これ以上、勝手にはさせない! いっちょ盛大にざまぁを見せてあげるわ!」
最後通告さながらの言葉に、仲間たちの士気が高まる。広間を包む緊張は、まるでいつ破裂してもおかしくないほど熱を帯びていく。次の瞬間に何が起きるのか――誰も確信はない。だからこそ凄まじい興奮を呼び起こすのだ。
その波乱の先へ足を踏み出し、闇に挑む決意だけが、今の彼らを突き動かしていた。