双月に宿る背徳の方程式3
薄雲に覆われた夜、離宮の一室でフィリスがうめき声を上げた。新月だというのに、彼女の血がわずかに輝いている。まるで体内に潜む魔力が、肌を焦がすように疼いているらしい。身を小さく丸め、必死に声を押し殺しているフィリスを見て、ミオは歯噛みした。
「無理しなくていい。あんたの血、ただでさえ厄介なんだから」
「ごめんなさい。でも……痛くなるたび、何かに呼ばれてるような気がして」
彼女の頬に浮かぶ汗が、冷気も相まって恐ろしげに光る。この夜の静寂は嫌な予感だらけだ。同時に、深夜の離宮では何者かが動き回り、騎士団を翻弄しているという話も聞こえてくる。スペイラとロップの暗躍がますます露骨になっている証拠だろう。
「なあ、みんなして落ち着かない顔をしてるのは、俺の幻覚じゃないよな」
その傍らでエランが腕輪を握りしめ、苦しげに息を整えている。呪印の活性がまた始まったらしい。にもかかわらず、彼はやたら尖った視線をミオに投げてきた。
「当たり前でしょ。あんたこそ、どこまで我慢するつもり? ぶっ倒れる前にいっそ座って泣いたほうが可愛いかもよ」
「泣くのはお前の専売特許だろ」
相変わらずの毒舌合戦だが、どちらも真剣そのもの。飲み込まれる寸前の人間ほど、皮肉に頼りたくなるらしい。ミオは心のなかでそう苦笑しつつ、フィリスの瞳の奥にわずかでも警告の光がないかを探る。だが彼女は視線をそらすばかりだ。
廊下を見下ろす大窓に駆け寄れば、騎士団が配置に散る様子が見える。先ほどまでは静かだったが、今は署名簿や地図を抱えたセシリアの姿が際立っていた。どこかの騎士が慌ただしく「こちらの守りが手薄です!」と声をかけると、彼女は即座に新しい案を口にする。
「一部隊を回して互い違いに見張りを配置すれば、暗殺者が入ってきてもすぐに気づけるはずです。道具庫の鍵は分散して、記録係を別につけてください」
割り振りと連係を一瞬で考えつくとは、なかなかの切れ者だ。しかも本人は気づいていないようで、「ふ、不手際があったらすみません」とおどおどしている。近くの騎士が「いや、むしろ助かります」と感服しているのだから、なんとも不思議な光景だ。
「セシリアって意外と仕事できるのね。いや、この状況で『意外』はないか」
ミオがぽつりと漏らすと、エランは鼻で笑った。
「お前、なにもかも見抜いてる顔して、そのくせ人の有能さには鈍いよな」
「うるさいわね。私の推理がまだ足りないだけよ」
またそんな調子で突き放すが、セシリアがいなければこの離宮の混乱は手に負えなかったに違いない。彼女に救われているのは事実だろう。
その頃、廊下の角ではグレゴリーが心底苛立った様子で剣を握っていた。騎士の一人が、騎士団内に闇組織の協力者がいるという噂を耳打ちしたからだ。
「まさか仲間割れが起きるとはな。疑心暗鬼で手が足りなくなる」
そう呟いた一瞬後、床に倒れ込む騎士の姿が目に入る。鎧を黒く染めて。まさか、とグレゴリーが駆け寄ると、床には怪しい刻印を刻んだ暗器が落ちていた。
「闇組織がまた動いたか……!」
血の気が増した雰囲気の中、離宮の奥ではスペイラとロップが嗤い声を漏らしているという情報が走る。エドワードはそれを聞くなり真顔でひと言。
「今こそ“黒い石”の手がかりを──地下蔵書庫を、もう一度洗い直す!」
彼の言葉を聞きつけたゼオンが、やれやれと肩をすくめつつも興味津々らしく、薄い笑みを浮かべる。どうやら古代結界の裂け目が、その“黒い石”と深く関係しているらしいのだ。
「僕も同行しようかな。歪んだ扉を確認しないと、研究者の血が騒いで堪らないんだよね」
「研究じゃなくて命懸けだってこと、忘れないでちょうだい」
ミオが鋭く釘を刺すと、ゼオンはかえって楽しそうに目を細めた。その横で、とうとうエランが立ち上がる。腕輪を強く握りしめ、多少荒い呼吸をしながらも、目に宿る決意は揺らがない。彼はフィリスに手を差し伸べる。
「お前も限界だろう。だが、一緒に来い。お前の血の問題が鍵になるはずだ」
「でも私、歩けるかどうか……」
心細そうなフィリスを、エランは護るように腕を支える。ミオはそれを横目に見つつ、つい小声で皮肉を飛ばした。
「ずいぶん優しいのね。呪印のおかげで怖さ倍増してるのに、世の中わからないものだわ」
「余計なお世話だ」
ピリピリする空気の中で、時間が足早に過ぎていく。このまま祭壇の噂通り、地下へ向かわないことには何も進まない。あちこちで騎士たちが警戒を強め、セシリアが的確な調整を指示し、グレゴリーが先導する体制が整えられた。なんだかんだで動きがまとまり始めたのは、彼女の有能さのおかげだろう。
やがて、深夜の鐘が低く鳴り渡る。まるで闇の扉を叩き開く合図のように。ミオはごくりと息を飲み、つい握り締めた拳に力がこもる。
「このまま探るしかないわね、みんな。二つの月の正体を突き止めるのも、闇組織を殲滅するのも、一網打尽ってやつよ」
「そう言ってる間に、地下が騒がしい。早く行こうぜ」
エランのせっつく声に、ミオは足を踏み出す。熱い胸の奥で、焦りと高揚が入り混じる。フィリスの血が照らすヒント、歪んだ扉、黒い石──すべてが繋がった先に何が待っているのかは、まだ誰にもわからない。
だが、進まなければもっと悲惨な未来が待っている予感がする。
「行くわよ、セシリア。あなたの助けがなければ詰むから」
「は、はい! 何かお力になれたら嬉しいです」
恐縮しつつ、的確な配置図を握りしめる彼女の姿が頼もしい。騎士たちが周囲を警戒する中、スペイラとロップの不気味な笑い声が遠くから響いてくる。恐怖で足が竦みかけるが、その胸中には歪みかけた決意が逆に燃え上がる。
扉の向こうで待つものは、絶望か、それとも新たな脅威か。
怖いなら、振り返らずに突き進むだけだ。
――こうして月影が濃く染まる離宮の夜、全員が地下へと続く闇に足を踏み入れる。次に見える光景は、誰が生き残り、そして誰が醜く笑うか。そこでようやく真の運命が決まるとでも言わんばかりに、血と呪印と魔術が融け合う音が聞こえた。