双月に宿る背徳の方程式2
薄闇の廊下を踏みしめるたび、どことなく空気がざわついているのがわかる。疑心や焦燥が満ちた空気が肌を刺し、落ち着かない。
「今夜は嫌にしんと静かね。警鐘が鳴る前って、こういう雰囲気になるのかしら」
ミオは誰にともなく呟き、胸の奥に燻る不安を押さえた。離宮の天井からは何かが降ってきそうなほどの圧迫感があり、上を見上げる気にさえならない。エランはいつもの皮肉げな笑みを張りつけているが、その唇はわずかに青い。呪印の痛みが増しているのは見え透いているのに、彼はいつもの強がりで隠しとおそうとしているらしい。
「理屈っぽいお前が黙り込むなんて、珍しいな」
「そりゃね、こんな場違いな気配が漂ってたら誰だって黙るわ。もちろんあなたのうめき声を聞かされるのも御免だけど」
軽く皮肉を交わす合間にも、背後では甲冑のきしみと足音が交錯する。グレゴリー騎士団長が指揮をとり、セシリアが地図を示しながら配置を的確に指示し、一同がてきぱき動いている。その手際の良さに、ミオは心の中で「有能ねえ…」と素直に舌を巻いた。もちろんご本人は「こんなの大したことありません」と小声を漏らしているが。周囲の騎士たちが即取り入れるほどの策を提案できるのに、どうして自覚がないのか不思議でならない。
「助かるわ、セシリア。あなたがいてくれると安心よ」
「えっ…? そんな、私なんて…」
慌てる声を横目に、ミオは思わず笑いそうになる。エランも苦しそうにしながら「お前、なかなか狡猾だな」と小さく呟いた。どうせ「おっとり娘を装って、実は切れ者か?」とか思っているのだろう。事実、当人はまったく気づいていないかわいさだから余計タチが悪い。
「それより、地下蔵書庫の様子は?」
グレゴリーの問いにセシリアはそっと眉を曇らせた。
「残念ですが、怪しい影が何度も往来していると報告がありました。騎士を増やしてほしいと申請が…」
「そうか。仕方ない、ここも人手は割けない状況だが、可能な限り調整するしかないな」
グレゴリーは苦渋の表情で部下に新たな配置替えを命じる。そのやりとりを遠巻きに見ていたゼオンが、やんわりと口を挟んだ。
「闇組織の人間が“天冥の調律”の手がかりを狙ってるのかな。黒い石と二つの月がいかにも胡散臭いし、研究者としてはわくわくするが、こうも死線を踏まされるとご免被りたいねぇ」
「あっちの連中としちゃ、ちょうどいいお祭り騒ぎなんでしょうね。フィリスの血とエランの呪印が不安定な今、好き勝手やり放題! ってわけ」
ミオが吐き捨てた瞬間、廊下の先からスペイラとロップの姿が見えた。相変わらず挑発するような目つきでこちらを見据え、唇の端を弧にする。ロップは膝に小刀を遊ばせていたが、その不気味な笑みに寒気が走る。まるで暗殺が趣味とでも言わんばかりの雰囲気だ。
「不穏すぎるわね。どうせ陰で何か仕掛けてるんでしょう? 勝手にやってくれるわ」
そう言ったミオに、エランがひそりと耳打ちする。
「お前、似た者同士みたいな口調になるから止めてくれ。俺まで陰険に見られたら困る」
「なによ、私と一緒にしたくないわけ?」
「当然だろう。お前の意地悪っぷりは俺以上だ」
互いに揶揄し合う暇すら惜しいほど、状況は差し迫っている。フィリスが必死に古文書を紐解いている姿を想像すると、手助けしないわけにはいかない。ただ、エドワードとともに調査を進めている彼女には、まだ何かが足りないような嫌な予感がするのだ。まるで核心の一歩手前で罠が待っているかのように。
「ゼオン、あなたは引き続き古代魔術の結界を調べて。私たちは地下に踏み込んででも、怪しい連中を引きずり出すわ。あなたのお楽しみは、彼らが暴れたあとでいいんじゃない?」
「怖いこと言うね。ま、それでもいいさ」
ゼオンはすっと肩をすくめ、呪印で苦しむエランを一瞥したあと、自分の調査道具を抱えて廊下を曲がっていく。入れ替わりに、後方からグレゴリーとセシリアが駆け寄ってきた。
「地下蔵書庫へは私も行く。ここらで隊を二手に分けるしかあるまい。セシリア、すまないがもう少しだけ案を出してもらえるか?」
「わ、私でよければ…」
またしても彼女の控えめな肩がちょこんとすくんだ。よく見ると紙や地図だけでなく、兵や道具の管理リストまで頭に入れているらしい。正直、参謀にしては十分すぎる対応力だ。本人は「当然」とも「自慢」とも思っていないからこそ、隊の士気を下げることなく素早い指示ができている。
(あの流れるような采配、私よりよっぽど頭いいんじゃないの?)
ミオはそんなことをこっそり考えるが、セシリアの前で言うつもりはない。褒めたら逆に萎縮しそうだし、居場所を失わせかねない。それよりも今は皆で混乱の原因を抑え込むのが先決だ。
そのとき、ちらりと視界にロップの刃先が映った。どう含みを持った微笑みか、まるでいつでもこちらを襲えますよとでも言わんばかり。スペイラはわざとらしくグレゴリーの動きを観察し、何かの合図をうかがっているようだった。
「先制するなら今しかないわね。あれ? あなた、腕輪ちゃんと抑えときなさいよ」
「わかってる。……こっちが早く動けば、呪印の暴走なんか悠長にやってられないだろうさ」
エランは渇いた息を吐き、腕輪を握りしめた。その指先が微かに震えているのを隠そうともせず、彼は扉の方へ向かってゆっくり歩を進める。剥き出しの危機感に満ちた空気が、一緒に動き出したかのようだ。
ぐるりと見渡せば、騎士たちはセシリアの指示で配置を固めている。一方、あの闇組織の面々は好き勝手に離宮を徘徊中。フィリスとエドワードは地下文書の真相を探り、ゼオンは結界の痕跡を嗅ぎ回る。役者は十分そろった。
「やるなら一気に決着をつけましょう。今さらコソコソしても仕方ないわ」
ミオは顔に浮かぶ緊張を振り払うように口角を上げた。ざまあみろ、このまま陰謀に飲み込まれてたまるもんですか──そう胸中で毒づきながら、扉を押して先へ足を踏み出す。
足元には冷え切った石畳と、凍りついたような静寂。それでも後ろを振り返るわけにはいかない。二つの月が上空で見下ろす夜が、どれほど長く辛い戦いになるかはわからないが、だからこそ奮い立つしかないのだ。
ページをめくるように、真相を一枚一枚剥がしてみせる。思いもよらない結末が待ち受けているなら、それすら喜んでお膳立てしてやろう。胸の奥が熱く煮えたぎるのを感じながら、ミオはただ前へと歩を進める。
――この夜の行き着く先に、どんな歓声と悲鳴が待ち受けているとしても。やるべきことをやらない限り、誰も報われはしないのだから。