双月に宿る背徳の方程式1
離宮に到着した途端、頭上に浮かぶ二つの月を見て、ミオは思わず足を止めた。北方の白銀地獄から解放されたはずなのに、まるで世界そのものが歪んでいるかのようだ。夜空はしんと澄んでいるのに、月が二つ同時に並ぶなど常識では考えられない。
「ちょっと、これは幻覚とかじゃないわよね?」
冷静を装いつつも、喉がひきつりそうになる。エランは傍らで苦い顔を浮かべ、呪印の刻まれた腕輪を押さえていた。先ほどから小刻みに震える手元が、本人の辛さを物語っている。それでも彼は無理を重ね、どこか意地っ張りに言い放つ。
「今さら幻覚だろうが三つの月だろうが、驚きゃしないさ。ただ離宮に戻ってまでこんな珍妙な歓迎を受けるとは思わなかったが」
「歓迎っていうより禍々しさにしか見えないけど?」
ミオが毒を含んだ目で夜空を睨むと、彼の唇がかすかに苦笑を刻んだ。
そんな二人の横を、慌ただしい足音でフィリスが通り過ぎる。王女として鍛えた気丈さを保ちながらも、その表情は不安に揺れていた。手に触れた古文書を胸に抱え、彼女は真っ直ぐ離宮の図書室へ向かうつもりらしい。何か手掛かりを得たいのだろう。その姿を見たエドワードも「俺も行く!」と声を張り上げたが、王子としての焦りもにじんでいる。黒い石と王家の狭間でもがく彼が、この異常事態を次の好機に変えようと躍起なのは想像に難くない。
「平穏な夜が来るとでも思ってた? 残念でしたって感じね。月が二つなんて、余計に縁起が悪いわ」
自虐混じりに呟いたミオの耳元で、ゼオンが楽しげに鼻風を鳴らす。
「ふふ、古代結界がいまだに動いている証拠かもしれないね。もしそうなら、この現象だけじゃ終わらないよ」
「そんな薄気味悪いこと、涼しい顔で言わないで」
ゼオンは飄々と肩をすくめた。彼にとっては、こういう不可解な魔術現象は研究意欲を刺激する蜜の味なのだろう。人騒がせな探究心もほどほどにしてほしいものだ。
一方、グレゴリー騎士団長は「離宮内に余計な噂が飛ばんよう厳戒態勢を敷くぞ!」と、少数精鋭の部下を手短に指示していた。大規模な騎兵を繰り出すわけにもいかないが、こういう時こそ地道な警備がものを言う。
「団長、狙撃班の配置、少しずらしたほうがやりやすいかもしれません」
そこにすっと姿を見せたセシリアが、地図を指で示しながら控えめに提案する。彼女はいつものように「たいした意見じゃないのにごめんなさい…」と小声で付け足しかけたが、グレゴリーはすぐにうなずいた。
「いや、いい案だ。そっちの方が死角を狭められる。皆、セシリアの言葉どおりに配置を変えろ!」
周囲の騎士たちは即座に動き出し、まるで一瞬にして戦況が変わったように見える。ミオは、その光景を見ながら内心でとんでもない子だな…と感心する。セシリア自身は「えっ、そんな大層なことを…」と戸惑っているのが可笑しい。どうやら本人だけが自分の有能さにまったく気付いていないらしい。
そんな離宮の廊下を、妙に馴れ馴れしい足取りで横切る影があった。スペイラの姿だ。彼女は今回も得体の知れない笑みを浮かべつつ、傍らに新顔の傭兵ロップを伴っている。ロップはそっけなく周囲を眺め、獲物を狙う猛獣のように唇を吊り上げていた。
「さて、暗躍するなら今がチャンスですこと。王家の血も、呪印も、二つの月が照らす闇に沈めてしまいましょうか」
その言葉を耳にしたエランが、わずかに瞳を細めてスペイラを睨む。しかし、“皇帝の試金石”と呼ばれる彼の力は今、呪印の発作で安易には振るえない。彼女はそれをわかっていて挑発したのだろう。ロップとの連携が嫌にスムーズなところから見ても、何か仕掛けてくる気配が濃厚だ。
「くそっ、あっちが仕掛ける前にこちらが制圧しないと、あとが厄介になる」
エランが唇を噛んだのを横目に、ミオはフィリスが調べている古文書に思いを馳せる。王家が伝える“天冥の調律”なる儀式が、どうやらこの二つの月と深く関わっているらしい。しかも、フィリスの血が暴走しかねないタイミングでこんな現象が起これば、スペイラにとっては絶好のカオスだ。下手をすれば、離宮の地下深く眠る黒い石に新たな魔力を与えてしまうかもしれない。
「やるなら早いほうがいいわね。次の満月まで待たれるなんて御免だもの」
そうこぼすと、エランが肩をすくめる。
「当然だ。俺もさっさとケリをつけたい。……ただし、俺の呪印が爆発する前に頼むぞ」
「はいはい、痛いのと怖いのは自分でなんとかしてよね」
どこか打ち解けたような、でも素直にはなれない二人のやり取りに、ゼオンが耳打ちする。
「仲がいいんだか悪いんだか、まあ面白いねぇ」
「余計な横槍はやめてよ」
ミオが冷たい目で制するが、ゼオンはどこ吹く風。その一連の会話を小馬鹿にするように見ていたロップがくつくつと喉を鳴らした悪趣味な笑顔を見せた。やはりただの傭兵ではない。スペイラも秘術の匂いをちらつかせ、離宮の奥に視線をやる。
そんな澱んだ空気の合間を、セシリアの指示を受けた騎士たちがきびきび行き交い、周囲の緊張を和らげる。ミオはふと彼女を見やり、心の中で(ほんと助かるわね…)と思う。その控えめな肩越しに、二つの月が淡々と世界を見下ろしているのが不気味で仕方ない。
「さて、騒がしくなる前に、できる限り情報を集めましょうか」
ミオは自分に言い聞かせるように呟くと、少し離れた廊下の先へ目を向ける。そこには、フィリスの背中を追うエドワードの姿があった。今は一挙手一投足を見逃さず、黒い石の謎に迫るつもりらしい。グレゴリーはセシリアとともに警備体制を再整備し、ゼオンは古代結界の調査に入りたくてうずうずしている。エランは呪印の痛みに耐えながら、常に誰かの動向を探っているようだ。
それぞれが交錯する思惑の先に、どれほどの恐怖と破滅が潜んでいるのか――想像するだけで頭が痛い。だが、その中にこそ解明の快感があるのも事実。つい先刻まで「ゆっくり休みたいわ」とぼやいていたミオなのに、いざとなればやはり燃えるのだから仕方ない。
「心臓に悪いわね、でもやるしかない。ページをめくる手を止める時間なんてなさそう」
独りごちて、ミオは歩き出した。二つの月が映し出す帰還の影は、まだ始まったばかり。果たしてどこまで闇が伸びているのか、今は誰にもわからない。
――それでも、この疑問や不安が一気に崩れる瞬間は必ず来るはずだ。そのときどう笑うかは、自分たち次第に違いない。さあ、先へ進もう。そして滑稽なほど複雑な夜へ、存分に飛び込んでやる。誰一人、途中で投げ出させはしない。もう一話、もう一歩――進まなければ終わらないから。