燃え上がる黄昏の調律5
凍てつく湖面に吹き荒れる吹雪は、夜を徹してなお勢いを増していた。白一色の世界が視界を奪い、激闘の場をむしろ閉じ込めるようだ。そんな中、黒い鏡の欠片を封じるべく進軍するミオたちは一瞬も気を抜けない。
呪印の痛みで顔を歪めるエランがよろめくと、フィリスが慌てて肩を支える。けれど彼女もまた、王家の“血”が疼き始めたせいで、両膝が今にも崩れそうだった。
「無理しないで。あなたが倒れたら、次は私が看病するはめになるのよ」
ミオが皮肉っぽく言いながら杖を構えると、エランは冷たい息を吐きつつ片眉を上げる。
「へぇ、優しいじゃないか。……まぁ半死半生の俺を介抱したい性格には見えないけど」
「あら、そこは言わなくてよろしい」
ヒリつく寒さの中で交わされるひときわ毒のある冗談が、唇を凍りつかせるように響いた。だが、それくらいのスパイスがなければ、この絶望的な戦況に飲み込まれそうでもある。
パシッと音を立てて氷の床を踏みしめたのはバルバロイ。魔術隷属兵の隊長という肩書にふさわしく、吹雪などものともせず踏破してくる。血走った目がエランを捉えるたび、痛々しいほどの敵意が渦巻いていた。
「“試金石”を誇る貴様の力、ここで見せてもらおうじゃないか。もっとも、呪印が爆ぜてすべてが吹っ飛ぶなら、それはそれで笑えるがな」
吐き捨てるような挑発に、エランはあからさまに顔をしかめる。フィリスが「敵に乗せられないで」と諫めようとしても、バルバロイの言葉はまるで棘のように刺さり続けた。
一方、スペイラは黒い鏡の欠片を引き上げるため、幾人もの手下を湖面下に潜り込ませている。あちこちで氷が割れる不吉な音が鳴り、真冬の水底がさらに闇を孕むようだった。その気配にゼオンが微かに興奮を含んだ笑みを浮かべる。
「いやはや、あの欠片を本格的に起動されたら嫌な予感しかしないね。さっさと手を打とうか」
彼が魔術道具を取り出す仕草を見つけた瞬間、周囲の魔力の流れが怪しくうねる。湖面を覆う結界と古代の儀式痕跡が交錯し、いつ暴走してもおかしくない。焦りが募るミオの目に、戦況を分析して動き回る一人の少女が映った。
セシリアだった。少し離れた地点で騎士団の部隊を誘導しており、視線一つで狙撃班を動かしている。その判断が的確すぎて、わずかな誤差もない。グレゴリー団長ですら「よし、彼女の指示に合わせろ!」と声を上げるほど。セシリア本人は「え、わたし言いすぎましたか?」と戸惑っているようだが、彼女がいなければここまで状況を押し返せなかっただろう。
「ほんと助かるわ、あの娘……本人にその自覚がないのがまた面白いけど」
ミオの呟きに、ゼオンが「そういう素材は研究対象にしたい」と面倒くさい独白を漏らす。フィリスとエランの額には汗がにじみ、震える指先で武器や魔術式を支え続ける。全員の限界が迫っているのは明らかだった。
その空気を裂くように、湖の中央でスペイラが声をあげる。
「黒幕のもとへ、わたくしは必ず戻るわ。あなたたちの狙いなど、すべて踏みにじってあげる!」
凍結湖を大きく振動させる魔術陣が闇色に染まる。まるで地の底から唸るような音が響き、フィリスが息を詰まらせた。血の力が強制的に共鳴し始め、身体を痺れが支配する。エランの呪印も呼応するかのように赤黒い靄を放ち、彼の視界を奪おうとしていた。
「Bad displayだな……ド派手に散らせたいところだけど、まだくたばるわけにはいかない。」
苦しい息の合間にエランが強がりを呟く。しかし、今にも倒れ込みそうだ。いよいよ危機が迫るとわかった瞬間――
「今! 一斉射撃、お願いできますかっ!」
セシリアの声が鋭く通る。グレゴリーの部下たちは間髪入れず弓を引き絞り、魔術隷属兵の何人かを正確に仕留めた。バルバロイが「くっ……!」と歯噛みすると同時に、ゼオンは素早く魔術陣の上に別の刻印を上書きし始める。ミオはフィリスの肩を押して一歩前へ出し、彼女の“王家の血”を封じる代わりに制御に転じる術式を施す。
「フィリス、深呼吸して。あなたの力を止めるんじゃなく、もっと肯定する方向に転換して」
「で、できるの……?」
「そういう理屈を作るのがこっちの仕事。エラン、あんたも余計なこと考えずに踏ん張って!」
ぞわり、と氷の床下から黒い気配があふれかける。それを断ち切るかのように、ミオが魔術式の幾重もの輪を展開する。一瞬、光が爆ぜた。
「あぁ……ざまぁないわね、吹雪ごと蹴散らしてあげる!」
フィリスが恐怖を振り切るかのように声を振り絞ると、彼女の手のひらを中心に黄金色の光が広がった。黒い鏡の欠片が反応して不穏に唸るが、ゼオンの補助結界がそれを抑え込む。
「バルバロイ、後退しますよ! ここで死にたいのならご勝手にどうぞ!」
スペイラが短い警告だけ残して闇へ溶けていく。撤退を悟ったバルバロイは悔しげに睨みながらも、魔術隷属兵とともに湖面を離れ始める。騎士団が追撃体勢に入ろうとするが、グレゴリーは「深追いはするな、優先すべきは黒い欠片の確保だ!」と号令をかけた。
周囲の雪風が徐々に落ち着きを取り戻すと、異様なまでの静寂が広がった。湖の中心でうずくまったエランをミオが抱き起こし、フィリスはかすかに残る結界の波動に耐えながら立ち尽くす。ゼオンはさっそく黒い欠片の封印策を検討し始め、騎士たちが補強の結界を張ろうと動く。
「……助かった……のかな?」
マントごと雪まみれになったまま、エランが弱々しくつぶやく。ミオは大きく息をついた。死ぬ思いで鏡の暴走を止めたのだ、まだ油断はできないにせよ、一息くらいつかないとやってられない。
何より、この戦況を的確にコントロールできたのはセシリアの妙な指揮力――自分じゃわかってなさそうだが、彼女の気配りがなければ間違いなく崩壊していた。周りの騎士たちが彼女を見つめる目に、まるで救いの女神に対する敬意がこもっている。
「休んでる暇もなさそうだけど……次は、どうする?」
エランが呟くと、その言葉に答えるようにミオの胸に小さな確信が生まれる。黒い鏡の欠片はまだ終わりではない。闇組織の黒幕、そして古代から続く王家の“調律”の謎はますます深まるばかり。
倒れ込んだフィリスが重いまぶたを持ち上げ、呟いた。
「ごめんなさい……やっぱり、私の力は……怖い」
その震えを隠すように、ミオは彼女の手をそっと握る。自分もどれほど冷や汗を流したかわからないのだ。恐怖を抱えるのは当たり前。でも、それでも前に進まなければ、より大きな破滅を呼び寄せるだけだろう。
「ここからが本番ってわけね。続きが気になるでしょう? ……ふふ、最後までついてきなさいよ」
息を呑むほど研ぎ澄まされた寒風の中で、ミオは自分の耳に届く心臓の鼓動を確かめながら、そう宣言した。
最悪の一夜を経て、今、彼らの戦いは新たな終幕へと滑り込みつつある。それは次の夜明けの序章――果たして、この先になにが待ち受けるのか。
ページをめくる手を止める暇など、どこにもありはしない。どうせなら、このまま白銀の嵐の果てまで駆け抜けるのみだ。