燃え上がる黄昏の調律4
凍結湖に渦巻く吹雪は一夜にしてさらに激化していた。視界を奪う白銀の世界が、まるで周囲を容赦なく押し潰そうとしているかのようだ。
だが、ミオたちは立ち止まるわけにはいかない。湖岸に並ぶ古代の石碑は、地面の下に隠された魔術陣と呼応しているらしく、不吉な光を弱く脈打たせていた。ここで退けば、黒い鏡の欠片を狙うスペイラの下僕どもに先を越される。
「やれやれ……こうも吹雪が凶悪だと、暖炉でぬくぬくしてる方がずっと素敵に思えるね」
ゼオンが肩に積もった雪を払いつつ、面倒くさそうに笑う。もっとも、その瞳には好奇心の炎がしっかり燃えているのが見え見えだ。彼は結界の中和や儀式の謎解きといった“学問のロマン”に目がないらしい。
「そんなこと言って……本当はこの状況が楽しくて仕方ないんでしょ?」
ミオが半ば呆れながらも皮肉をぶつけると、ゼオンは唇の端を上げて「ご想像にお任せ」と返した。
その対岸では、バルバロイが魔術隷属兵を引き連れ、エランたちを睨みつけている。敵の大将が声を張り上げるたび、吹雪の合間に剣戟と怒号が響き渡った。
「エラン、貴様の“試金石”の力、ここで証明してみせろ。もっとも、呪印が暴発するならそれはそれで見物だがな」
「はぁ、相変わらずご親切な挑発ありがとう。けど、そっちこそ凍死が先じゃない?」
冷ややかなエランの返答に、バルバロイは血走った眼をさらに細める。まるで獲物を貪ろうとする獣だ。しかし、その直後、天下晴れて真っ白な雪面に足を滑らせた部下の男が盛大に転倒するのを見て、噴き出しそうな失笑が湖岸に広がった。
「まぁ、ざまぁとまでは言わないけど……この悪天候、こっちにも悪くない流れかもね」
フィリスが珍しく、苦笑混じりに呟く。彼女も“王家の血”が誘う奇妙な感覚をこらえながら、なんとか立ち続けている。指先がこわばり痛むのがわかるが、今は耐えるしかない。
一方、凍結湖の南側では、セシリアが騎士団をスムーズに誘導していた。彼女の動きは控えめながら妙に的確で、わずかな乱れも見逃してはいない。敵の配置や足場の状況、周辺の遮蔽物まで瞬時に把握し、グレゴリー団長より先に指示を出す場面すらあった。それも、「これで合ってますか?」と当人は戸惑い気味なのだから、周囲からの敬愛が高まるのも無理はない。
「……相変わらず有能よね、セシリア。あの子がいなかったら、こちらは無駄に動き回って手詰まりになってたかもしれない」
ミオがぼそりと漏らすと、フィリスもうんうんと頷く。エランでさえ、苦しげに呪印を押さえながらも「セシリアの読みがなきゃ、この混乱は収拾つかないだろうな」と声を絞り出した。そんな視線に気づかない彼女が、赤面しつつ「な、何かおかしかったですか?」などと聞いてくるのが、さらにじれったい。
そうこうしているうちに、スペイラの手下が湖面に巨大な穴を開けて得体の知れない塊を引き上げようとしているのが見える。あれが黒い鏡の欠片なのは間違いなさそうだ。
「急ぎましょう。あれを本格的に起動されたら厄介だわ」
ミオが駆け出そうとした瞬間、結界の反応なのか石碑が淡く揺らめき始めた。そして吹雪にも似たごう音が湖底から響き、フィリスの呼吸が一瞬で止まる。
「……強い波が来る。私の血が勝手に反応してる」
蒼白になるフィリスを、エランが支える。だが、彼自身も呪印の疼きと寒さのせいで視界にちらつく影が増えているようだ。
「ちょっと、頼むわよ。ここで二人一気にダウンなんて冗談じゃないんだから」
「言うじゃない……でも、立ってられるさ。俺は“爆ぜてほしい”って言われるのが死ぬほど癪だからね」
エランは肩で息をしながら軽口を叩き、ミオは半ば呆れたように苦笑。ぬるい掛け合いに見えるかもしれないが、実際は緊迫感が喉を締め付けている。
そこへゼオンが走り寄り、手にした魔術道具で地面へ短く刻印を打ち込む。周辺の魔力の流れがすうっと整い始め、フィリスも息を吐きやすそうにする。
「ふぅ……あなたのそういうところだけは助かるわ、ゼオン」
「全然褒めてない口ぶりだね。まぁいい、僕もあの欠片が気になって仕方ない。さっさと確保して研究したいものだ」
同時に、セシリアの合図を受けて狙撃班が慎重に動き、スペイラの手下たちへ牽制射撃を始める。甲高い矢音が空を裂き、湖面に火花が散った。
「上手い……セシリアさん、予測射撃まで指示してるの?」
グレゴリーの部下が小声で驚嘆する。本人は「私が言ったことなんて大したことじゃ――え? もう当たったんですか?」と慌てているようだが、むしろその素早い分析が味方を圧倒的に優位にしている。セシリアは自覚がないまま、戦局へ有無を言わさぬ影響力を及ぼしていた。
やがて隙を突いたミオとエラン、フィリス、ゼオンが一斉に湖面へと繰り出す。敵兵が阻もうとするも、吹雪で足場が凍りつき追撃の速度が出せない。さらに、騎士団が周囲を囲むように押し寄せ、“黒い鏡の欠片”へ迫る道筋がぐっと開けた。
「ここだ……! あの塊を叩きつぶすか、それとも封じ込めるかは状況次第ね」
ミオは素早く考えを巡らせる。黒い欠片を下手に破壊すれば、さらに災いを広げる恐れがある。一方でスペイラが手にしたまま持ち逃げされるわけにもいかない。ギリギリの綱渡りだ。
「だったら、僕が鎮圧用の結界を展開してみようか? 成功確率は……五分ってとこかな」
ゼオンが笑う。同時に、フィリスは震えながらも「やるしかないわ」と頷いた。その時、背後にいたバルバロイが怒声を上げ、魔術隷属兵が一気に襲いかかる。
「ふん、まとめてなぎ倒してやる! 逃げ遅れたこと、後悔させてくれるわ!」
湖面にヒビが走り、吹雪が視界を乱す中、激しい混戦へと突入する。鋭い剣閃と咆哮、そして派手な魔力の奔流が入り乱れる。敵味方の陣形が崩れかけ、焦りが広がりかけたが――
「今です! そこを押さえてください!」
遠くからセシリアの声が飛んだ。普通なら届かないはずなのに、はっきり聞こえた気がして、ミオは咄嗟にその指示通りに動く。すると鋭いタイミングで狙撃が飛び、バルバロイの部下の脚を正確に射抜いた。
「ざまぁ……! いや、わりと助かったわね。この一瞬は大きい!」
ミオは負担のかかる魔術式を構築し始め、ゼオンもそれに呼応する。フィリスは決死の覚悟で血の力を制御し、エランは呪印の疼きに耐えながら剣を構えた。
もはや疑問に浸る余裕などない。ここで勝つか負けるか、それ次第で黒い鏡の欠片も、結界の謎も、すべてが支配される。吹雪がさらに勢いを増しながら、戦場を覆い尽くしていく――。
寒気と興奮で心が燃えるような苦しさが混ざり合い、読者の胸を掻きむしるような衝動が沸き起こる。次の展開は、目を背けたら負けだ。怒りと悲鳴、そして破滅を招くかもしれない儀式跡が、深い闇の底で待ち構えているのだから。
果たして“天冥の調律”の正体は何なのか。呪印が暴走しかねないエランはこの嵐を乗り切れるのか。そして自覚なき有能さで戦局を動かすセシリアの指示は、いかなる結末を生むのか。
――吹雪がもたらす最終盤の幕開け。彼らの行く先には、いったいどんなカタルシスが隠されているのだろう。ページをめくる手は、もう誰にも止められやしない。