凍土を破る鏡の幻影3
風が絶え間なく吹きつけ、雪を巻き上げる砦の外壁。到着した瞬間から、肌を刺す冷気が心まで冷えこませそうだった。それでも、一行は足を止めない。砦内部に漂う奇妙な魔力の響きが、あたかも誘うように薄闇の奥へ伸びている。
「足が凍りそうなんだけど? さっさと火でも焚いてくれない?」
わざとらしく震えを誇張したミオに、エランが鼻で笑う。
「文句ばかり言うくらいなら、俺のそばに来りゃいいのに。熱く抱きしめてやるよ」
「余計に寒気が増すわね。それより自分の呪印の暴走でも抑えてなさい」
バチバチと火花が散りそうな二人のやり取りに、フィリスは苦笑いを浮かべつつ周囲を見回す。外にはほとんど兵の気配がない。荘厳だったはずの砦はすっかり荒れ、門番も姿を見せない。そう遠くない場所にいるはずのスペイラの一味を思うと、胸の奥に嫌な震えが広がった。
「ここ、なかなか魅力的だなあ。古代の魔術がいっぱい詰まってる予感がする」
飄々とした調子でゼオンは魔術探知器の針を覗き込んでいる。またしても数値が乱れているらしく、妙にうれしそうだ。
「わかりやすい研究バカだね。自分が砕け散るかもしれないのに」
エランが呆れ顔で絡むと、彼はまるで殊勲でも得たように胸を張る。
「知的好奇心に犠牲は付き物だ。生きて帰れる確率は……まあ、五分五分かな?」
「その計算間違ってるわよ」
そんな軽口を交わす横で、セシリアは黙々と進軍ルートを地図上で指示し、騎士団長グレゴリーと素早く打ち合わせていた。より安全な通路を見抜く目が鋭いうえ、撤退経路まで先に用意しているらしい。周囲の兵が「助かる!」と安堵の息を漏らすと、当の本人は「いえ、私なんて…」と恐縮しきり。だが、その的確な采配がなければ皆、とっくに砦の吹雪をかいくぐることすら難しかったはずだ。
「では、中央広間を目指しましょう。そこに鏡があるっていうんだから、ほっとく方が危険だ」
ミオの声に呼応するように、先遣隊が動く。
奥へ進むほど空気が冷たく感じるのは雪と氷のせいだけではない。壁の隙間から漏れるうなり声のような風の響き、真下から伝わる低い振動。すべてが一瞬にして呑み込もうとする闇を予兆させる。
「こりゃ、楽しい肝試しになりそうだな」
エランが嘲るように言い放つが、表情は冴えない。呪印が微妙に疼いているのだろう。それでも隣にいるミオをちらりと見つめ、そのまま先頭を切って歩き出した。
広い扉を抜けると、いきなり視界が開ける。中央広間だ。床に斑な氷が張りつき、天井の梁からは結露した氷柱が垂れ下がっている。冷たい空気が肌にまとわりつくたび、背後に震えが走る。
そして目の前には、巨大な鏡が鎮座していた。微妙に曇った鏡面が時折、淡い閃光を放ち、周囲の結界を蝕むように見える。ゼオンが囁いた。
「間違いない。この鏡には扉と同種の干渉力が混じってる。しかも封印が崩れてるようだね」
フィリスが唇を噛む。王家の血が反応し始めたようで、微かな痛みがこめかみを刺している。
「なんかもう、今にもぶっ壊れそうな音がしてるわよ」
ミオが結界のひび割れを指すと、エランが片眉を上げる。
「ぶっ壊すなら先に手を貸せ。大暴れは俺の得意分野だ」
「それで周りに被害が出たらどうするの?」
「そのときはセシリア嬢が全部フォローしてくれるさ、な? 有能なお方ってのは羨ましいぜ」
いきなり無茶ぶりを向けられたセシリアは面食らったように目を丸くするが、すかさずグレゴリーとの連携で隊を配置転換。何かあったときの対応も手配してしまう。周囲の兵が感嘆の声を漏らすのを聞いて、彼女は「ど、どうしよう…これ普通のことですよね?」と戸惑うばかりだ。
地を揺るがすような重低音が響き、鏡の面が波を打った。雪壁の裂け目から冷気が吹き荒れ、一陣の白い嵐が床を覆い尽くす。瞬く間に視界が白濁し、兵たちが悲鳴を上げる。グレゴリーが盾を前に構えて声を張り上げた。
「下がれ、巻き込まれるな! セシリア、後方の状況を見てくれ!」
「承知しました!」
一方でミオは前列に突っ込み、懐に忍ばせていた小瓶を取り出す。まるで液体が蒸発するかのように魔力が纏いはじめ、鏡との干渉を試みる気だ。だが、闇雲に放つのは危険すぎる。すると横合いからエランの声。
「余計な雑魚は俺が抑える。ミオ、好きにしていいぞ」
言葉こそ偉そうだが、呪印の痛みで汗が浮かんでいるのをミオは見逃さない。それでも黙って頷いた。背後でフィリスも王家の力を呼び起こす支度をしている。
さらにザッと足音が響き、雪道をかきわけて姿を現したのはスペイラの手下たち。地下で暗躍していたはずなのに、広間まで侵入してきたのだ。どうやら鏡の力を手中に収めるために行動を起こしたらしい。
「おお、敵さん勢ぞろいってわけか。嫌いじゃないね、こういう一網打尽の展開は」
エランの皮肉じみた挑発に手下が刀を構え、鋭い視線を送る。
一触即発の中、鏡がギリギリと音を立てて振動し、結界が焼け焦げたように崩れ出す。灰色の霧が渦巻き、どろりと重い冷気が喉を塞ぎかける。ゼオンの顔が高揚で染まる。
「ヤバいな、全力で抑え込まないと、扉の二の舞どころか何倍も厄介になるぞ!」
「誰が引くもんですか。さっさと、始末するしかないでしょう」
ミオは微かに笑って、手にした瓶を放り投げる。ぐるりと空中で回転した瓶が閃光を帯び、鏡へ急接近。そのタイミングに合わせるようにエランは呪印の力を制御し、兵たちも一斉に陣形を組む。冷たい殺気と熱い決意が、ぶつかり合う空間を満たしていく。
そのとき、セシリアの指示を受けた兵が砦奥から援護に飛び込んできた。混乱の中心でありながら、彼女は複数のルートを瞬時に描いていたのだ。まさに電光石火の采配に、彼女自身だけが気づかない才能が輝く。
だが、得体の知れない力が鏡の奥底で胎動していることも事実。スペイラの真意を探る間もなく、白い光が再び弾けそうな予感がした。
鋭い冷風が吹きすさぶなか、見えざる境界線を越えてしまった者が誰か一人でもいれば、全体が終わるかもしれない。膨れ上がる危機感に、心臓がひりつくように痛む。だが、恐怖と興奮は表裏一体。絶体絶命の局面ほど、何かが弾ける感覚にも似た高揚がこみ上げてくる。
「行くわよ、絶対に負けられない!」
砕け散らんとする鏡の結界、吹雪に包まれた砦の中央広間。この絶望的な舞台で、ミオたちは拳を握りしめる。呪印と王家の血と、そして歪みきった鏡がどう絡み合うかは、まだ誰にもわからない。
だが、一瞬でも目をそらせば飲まれる。ならば立ち向かうしかない。嵐の只中へ飛び込む意志は、すでに全員の瞳に宿っていた。
やがて光が収束する直前、砦を包む風が低く唸り、空気が一瞬固まったように感じられた。そして――裂けるような轟音が霧を切り裂き、次なる動乱の幕を開ける。続きは、恐らく誰もが予測不可能な地獄絵図だろう。それでも、誰一人逃げるつもりはなかった。ここまで来たら、前に進むしかないのだから。