廻り狂う逆月の残照5
思わず足元をすくわれそうな轟音が、地下通路を震わせた。
排気の隙間から流れ込む黒い瘴気の流れが先ほどより格段に増している。いやな圧迫感が広がり、入口付近で待機していた騎士たちが一斉に身構えた。
「どうやら本格的に始まったようね」
ミオが唇を引き結ぶと、すぐ横でセシリアが焦りを押し殺した表情で地図を確認している。彼女はやや青ざめながらも、騎士団に伝える指示をまとめる手を決して止めない。あれほど混雑する連絡系統を一人で取り仕切っているのだから、さすがとしか言いようがない。
直後、通路の奥から響いたのはフィリスの叫びに似た声だった。王女を巡る不穏な気配が空気を歪ませ、奇妙な波紋を作り出す。エランがその場を飛び出そうとしたが、不意に胸を押さえて膝をつく。
「わりぃ…呪印が勝手に暴れる」
激痛が走るらしく、エランの顔に玉のような汗が浮かんだ。呪印とやらは扉の瘴気に呼応するかのように、彼の身体を蝕もうとしている。だが、彼は逃げるどころか意地を張るように笑みを作った。
「ここで倒れたら、お前に逆恨みされそうだからな」
冷たい口調で返される前に、ミオはエランの肩をつかみ、鋭く言った。
「変にカッコつけないで。ほら、深呼吸して焦りを鎮めなさい。あんたが本気で倒れたら面倒なのよ」
半ば呆れた様子ながらも、その声には確かに優しさが滲む。そうしている間にも地下奥深くでは異様な魔力がうねり、何かを呼び込むように揺らめいている。
「ミオ様、こちらに!」
セシリアが鋭く手を振って呼びかける。地図を指し示す先では、複雑に入り組んだ通路の中央あたりにスペイラの部下らしき複数の人影が確認された。しかも、あろうことかフィリスが彼らの立てた灰色の結界内に囚われているように見える。
「遠隔操作の気配がします。スペイラが王家の血を利用する気なら、急ぎ阻止しないと…!」
セシリアの言うとおり、フィリスの瞳は焦点を失いかけている。頬が青ざめ、かろうじてエドワードにすがるようなそぶりを見せているが、状況は最悪に近い。グレゴリー率いる騎士団も必死に道を開けようとするが、スペイラが放つ闇の術が壁のように立ちはだかる。
「嫌な感触ね。闇の魔術だけじゃないわ」
ミオが眉をひそめ、合図を送るようにゼオンを見やる。するとゼオンは壁画の解析結果を思い出すように口の中で呪文を唱えた。ぼうっと薄紫の光が彼とミオの腕から広がり、それがフィリスを覆う結界に向かって伸びていく。
スペイラは舌打ち混じりに結界を強化しようとするが、突然そこへ新たな影が割って入り、空気を斬るように鋭い光を放った。リヴラ・バリリスクだ。
「あなた方がいくら手を伸ばしても、ここまでは踏み込ませないわよ」
薄い契約書らしきものを掲げ、淡々と呪文を唱えるリヴラ。その光はスペイラの灰色の結界を浸食するように拡散した。重く軋む音が辺りに響き、わずかな隙を突いてミオたちが突撃する。
「フィリス、しっかりしろ!」
「無謀なことはやめなさいよ!」
エドワードがフィリスに駆け寄り、同時にエランが呪印を抑えながら扉へと視線を投げる。黒い亀裂がさらに広がり、まるで人を食らおうとする巨口のように大きく開きかけている。柱がきしむほどの圧がこちらを襲った瞬間――
「やらせるかよっ!」
エランが振り絞った声を合図に、ゼオンが水晶玉を掲げ、臨時の封印術を放つ。と同時にミオが鋭い呪文を詠唱。フィリスは最後の力を振り絞るように胸に手を当て、王家の血を制御しようと試みた。その結末は激しい爆風となって地下空間を包み込む。
光と闇がせめぎ合い、耳鳴りがするほどの衝撃が走る。その余波で結界が砕け散り、スペイラは後方へと弾き飛ばされる。彼女は苦しげに吐息を漏らすも、闇組織の部下がすぐに駆け寄って彼女を抱え込んだ。間を置かず、彼らは慣れた手つきで煙幕をまき散らし、退路を確保する。
「くっ…待て!」
グレゴリーたち騎士団が追いすがろうとするが、事前に仕込まれたらしい細工が通路を遮断し、あと一歩のところでスペイラを取り逃がす。深追いすれば被害が増えるだけだ。指示を仰ぐ視線が、一斉にミオとゼオン、そしてエドワードを見やる。
「焦るのはよして。扉を暴走させない方が先よ!」
ミオが声を張り上げ、ゼオンもうなずいて壁画に張りついた亀裂を慌てて修復しようとする。エランが最後の力をふりしぼるように扉に手をかざし、ぎりぎりの抵抗を続ける。フィリスは膝をつきながらも、まっすぐ顔を上げ、王家の血を奉じるように更なる制御を試みていた。
そしてリヴラは、その光景をまるで俯瞰するように眺め、無表情のまま櫛を手に髪をかきあげる。
「完全な封印には程遠いけれど、今日はこれで十分でしょう」
「あなた、いったい何者なの?」
ミオが怒気を含んだ声で問いかけると、リヴラは微笑とも嘲笑ともつかない表情を浮かべた。
「あなたたちなら、いずれ気づくわ」
意味深な言葉を残し、リヴラはまるで霧のように暗闇へ消える。疑問だけが空気中に取り残され、辺りには荒れ果てた遺跡の残骸と、息も絶え絶えの兵たちが佇むばかりだった。
やがて、どうにか扉の暴走を鎮めたミオとエラン、フィリス、ゼオンがその場にへたり込む。視線を交わしながらも、言葉が出ない。苦しいのに、奇妙な達成感が混ざり合う不可思議な瞬間。
「くっ…まだまだ終わらねえのか」
エランが顔を歪めて吐き捨てると、エドワードは決意を固めたように目を閉じた。
「王家が乱れていては話にならない。王位継承を急ごう。もうこの混乱を放置はできない」
その言葉を受け、フィリスは小さくうなずく。深まる闇を前に、王家の誇りと責務がさらに重みを増そうとしているのがわかる。
一方、セシリアは残骸をよけながら騎士たちを手際よく誘導し、怪我人をまとめ役に引き渡していた。周囲から「セシリア殿がいたから混乱が少なかった」という声が次々に飛び出すが、本人は「いえ、私は何も」と首を傾げるばかり。どうやら自分の有能さには、本当に無自覚らしい。
「さて、先は長そうね」
ミオは汗ばんだ前髪をかき上げ、深呼吸する。でも不思議と胸の奥底に灯る熱が消えない。スペイラたちが再び仕掛けてくるのも時間の問題だし、チェルバ・ファロットなる魔物じみた貴族も動いている気配がある。リヴラの真意も皆目見当がつかない。危険が次々襲ってきそうでも、なぜかワクワクするような昂揚感が湧いてくる。
「大混乱だけれど…悪くない。ここから先、もっと突き止めましょう」
その声に、エランは苦笑しつつも満足げに頷いた。フィリスは疲れた呼吸を整えながら決意を秘めた瞳を向ける。周囲を見回すと、セシリアは既に別の隊員に声を掛けて指示を出している最中。彼女が指揮をとると、混乱の中でも不思議と統率がとれていくのが目に見えてわかる。
こうして離宮の地下での動乱はひとまず落ち着きを取り戻した――が、それは次なる波乱の序章に過ぎない。王家の継承と闇の組織の陰謀、そして扉の封印が不完全なままである限り、危険は絶えず付きまとう。だが今は、ひと息ついた分の余力と、一層燃え上がる闘志を携えて、まだ見ぬ深淵の底へと歩を進めるしかない。
この先に待ち構える夜はきっと長く、そしてどこまでも暗い。けれど私たちは進むのをやめられない。生き残るため、すべてを解決するため――そして、奇妙な高揚感に突き動かされながら。
「ここからが本番ってことね」
ミオのその台詞を合図に、互いに肩を貸し合いながらも、全員が次の一手を考え始める。蠢く闇の気配に抗う再戦が、もう目と鼻の先で待っているのだから。