闇に蝕まれし王宮での秘術 5
部屋の壁際に立っていた王宮の看護師が、小さく悲鳴を上げた。その先には、半ば意識を失いかけたリュシアが痛みに耐えるように息を詰めている。肌は透けるように白い。そこに淡い光が浮き沈みしていて、まるで何かの魔力が脈打っているみたいだった。
「この子、また魔力が暴走しそうだわ」
私はそう呟きながら、彼女を診ていた若い医師に声をかけた。すると医師はぶるぶると首を振る。
「原因不明です。解呪の準備は整っているのですが、患者の身体が保つか…」
かといって放置もできない。心臓がドキドキする。危なっかしい手術を続けるしかないのに、支える人手があまりにも少ない。
「まあ、やるしかないでしょうね」
やれやれと腰に手を当てたら、いきなり背後から肩をトントンされた。振り返ると、エランが隙間からじっとこちらを見下ろしている。相変わらずの生意気な美貌だが、何か言いたげに唇が曲がっている。
「何よ、私に文句つけてくるんじゃないでしょうね?」
「あー、文句っていうか…先に一言。君、また何か企んでるでしょ」
「言いがかりはやめてよ。こっちは人助けに必死なんです」
彼の目は不機嫌そうに細められている。最近、何かにつけて私に執着する態度がエスカレートしている気がする。まさか本気で、私が王宮の魔術師連中に知識を与えることすら嫉妬しているわけ? 彼の性格の子どもっぽさには毎度ながら仰天だ。
リュシアから少し離れた場所では、ほかの医師たちが薬湯や道具を用意している。だけど、もしこのまま魔力が爆発したら、また面倒な事態になるのは確実だ。思い返せば、あの夜の治療のあと私が味わった胃痛は尋常じゃなかった。
「それより、スペイラはまだ見つかってないのよね?」
彼女を問いかけると、エランは視線を伏せる。どうやら彼も裏で懸命に情報収集しているらしいが、成果は薄いらしい。
「魔力の痕跡は少しあった。けど、どこへ向かったかは掴めてない。誰かが隠してるのか、彼女自身が姿を変えてるのか…」
スペイラめ。看護役の仮面をかぶってたと思ったら、突然の変化術で襲いかかってきたくせに、さらりと雲隠れとは上手いことやってくれる。しかもそのせいで、リュシアの身体には謎の魔力が残留してしまっている。考えれば考えるほどイライラが募る。
「手がかり無し、か。やれやれ。自分で追うしかないわね」
ぼそりと呟くと、エランの眉がピクリと動いた。
「君だけで動く気? 勝手な行動はやめてよ。今だって結構危険なんだから」
「ふーん。でもね、私が黙っててもスペイラは戻ってこない。それに、闇雲に動いたら怪しい連中は更に逃げる。だったらこっちから仕掛ける方がいいと思わない?」
「そ…それは、まあ、そうだけど」
珍しく素直に認めてくれるかと思ったら、彼はいきなり憮然とした顔をした。戸惑いとか嫉妬が混ざったように見えるから、思わず喉がくすぐったい。正直、彼の拗ね顔を見てると少し気分が晴れるから困ったものだ。
「私を一人で行かせるのが嫌なら、エラン自身が付き合えばいいじゃない。まあ、その腕輪の力とやらで怪しい人間をビシッと見抜いてくれるんでしょう? 助かるわね」
「…まさか、それをあてにしてるわけじゃないよね?」
「さあ、どうかしら」
はっきり言えば頼りになる存在だ。けれど同時に、彼がいつ何を考えているのか分からなくなる瞬間が多すぎる。そこが厄介でもあり、面白くもある。
肩をすくめ、私はいったんリュシアのそばへ戻る。看護師が私にすがるような目を向けてきて、申し訳なさそうに声を震わせた。
「先程、少しだけ宝珠らしきものが室内に漂っていたんです。気のせいかもしれませんが…」
「宝珠?」
風の噂で耳にしていた“魂の回廊”とやらが脳裏をよぎる。もしそれがこの離宮にまで放たれているとしたら、ややこしいことこの上ない。古い文献には、人の魔力を乱す危険な魔術具として記されていたはず。
「厄介だわね。そんな代物まで転がってるんだとしたら、リュシアの病状にも関わってくるかも」
困ったなと溜め息をついた瞬間、リュシアの身体がびくんと揺れた。吐息が途切れそうになるほど痛々しい。明らかに外部からの魔力刺激を受けている気配だ。部屋の空気までピリピリしてきた。
「医師たちに魔力抑制の陣を敷いてもらって。私は少し周辺を調べてくる。宝珠の──その噂が気になるの」
「は、はい、わかりました…!」
看護師らを残して部屋を後にすると、またすぐにエランが後ろをついてくる。振り返ると、やけに不満そうな顔を私に向けている。
「君、僕を避けてるわけじゃないんだよね?」
「なによその質問。そう見える?」
「うん、少し」
なんでそんな可愛い口調。拗ねモードが全開で笑いそうになる。
「いやいや、ちゃんと一緒に動こうって言ったばかりじゃない。大丈夫、エランの腕輪も心強いし、私だって危ない真似はしたくないわ。協力するんだから、そんな暗い顔しないで」
私が苦笑まじりに言うと、彼はふいっと視線を逸らして「わかったよ、じゃあとりあえず、今回だけは…」なんて何やら渋々と納得している。まったく付き合いづらいお方。私はくすりと笑って先へ進む。
離宮の廊下には、奇妙な空気が漂っていた。夕闇が近づくにつれ、灯りの陰にちらつく影が揺らめく。その一つひとつが、スペイラの変化術で隠れた敵なのかもしれないと疑心暗鬼になる。足音が不自然に響いて、背中がぞわっとした。
「あー、嫌だ嫌だ。いっそ魔術で一網打尽にしたいわ」
呟くと、エランが耳元で「無茶言わないの」と窘めてくる。
「下手に魔力をぶっぱなしたら、王女様にも影響が出るかもしれないよ」
「わかってる。でもスカッとやっつけたいじゃない。あーあ、カタルシス欲しい」
そのとき、不意に視界の片隅に人影がよぎった。廊下の突き当たりに佇む小柄な兵士のように見えたが、瞬きしたらもういない。しかも床にほんの微量だけど、不自然に消え残る魔力の斑点を発見。どう考えても怪しさ満点だ。
「エラン、見た? 今の」
「うん。行こう」
私たちは気配を追うようにして廊下を駆け出す。古の石畳が足音を増幅させるから、隠密行動には向いてない。でも少しでも早く追いかけなきゃ、また見失う。それにしても、嫌な予感が背筋を這い登ってくる。宮廷内に危険な魔術具が現れ、スペイラまでもが潜んでいる可能性。なんだか最悪の未来ばかりが頭にちらつく。
そんな焦りを一刻でも振り払おうと角を曲がった瞬間、前方で鋭い視線を放つ騎士団長グレゴリーが腕を組んで立っていた。
「フィオーレ嬢にエラン殿。どこへ行くつもりですか? 今、離宮で走り回るのは騒ぎを引き起こしかねませんよ」
「こっちも緊急なんです。妙な影を見かけて」
言いかけたところで、彼は一瞬険しい表情になった。
「…怪しい人物か。実は私も今、見慣れない足跡を追っていたところだ」
どうやら団長も同じものを嗅ぎつけているらしい。手がかりが繋がるかもしれない。けれど、やたらと厳格な彼に付き合っていると融通が利かないことも多そう。私はこっそりとエランと視線を交わす。彼も同じ考えなのか、苦笑いしていた。
「団長には悪いんですが、できれば私たち二人で先を急ぎたいんです。この騒ぎの根に、かなり手強い魔術が絡んでると思うので」
私がそう申し出たら、団長は少しだけ眉をひそめて黙り込んだ。何か言いたげだが、エランが軽く会釈して話に割り込む。
「僕が彼女をうかつには動かさないよう監督します。どうかご安心を」
監督って何それ。あなたが取り仕切る気満々なのがモロ見えなんですけど? ただ、団長はエランに一定の信頼を置いているみたいで、しぶしぶ道を譲ってくれた。
再び走り出して、私は一瞬エランを横目で睨む。
「どうせまた“まず僕に全部教えて”とか言うんでしょう? あなた、本当に構ってちゃんが過ぎるわね」
「…いいじゃないか。君が一番大事だし」
ボソッとつぶやくエランの声に、思わずドキリとする。暗い廊下だから表情はよく見えないけど、それでも真摯さが伝わってくると心が揺れる。
「…あー、はいはい。とりあえず、今は仕事に集中してよ」
少し取り乱しかけて、わざとぶっきらぼうに返事をする。そんな私の態度に気付いてか気付かずか、エランはクスッと笑った。くそう、ただの嫌味だったら軽く流せたのに、不意打ちでまっすぐな言葉を投げてくるなんて。
とにもかくにも、まずは怪しい人影を追い払わなくちゃ。リュシアをこんな状態のまま放置はできない。あの子が完全に回復するには時間が必要だし、エランや他の魔術師の協力を得ながら、この離宮を覆う闇を突き止めなくては。
スペイラを探し出し、呪詛の根源を断ち切って、それから“魂の回廊”の所在まで確認する。やることが多すぎて嫌になる。でも、不思議とワクワク感も止まらない。命がけの局面でこそ味わえるスリルや快感──危険と背中合わせだからこそ、見えるものがあるんだと思う。
そして何より、この世界の裏側を暴くのは、前世の記憶を持つ私にとって最高の遊び場みたいなもの。悪趣味だと言われても、止められない性分だ。
「ふふ、面白くなってきたわ」
心の奥で新たな闘志が燃え上がる。エランと一緒に危機を駆け抜けて、誰もが震えるような謎と陰謀を解決してみせよう。そうして自由を謳歌するのが、私の選んだ道なのだから。
先を急ぎながらも、ふと背後に視線をやる。闇夜の通路の向こうに、さっきの怪しい人影がまた見えた気がした。でも、瞬きした次の瞬間にはもういない。まるで私たちをからかうように、闇の中で揺らめいて消えていく。
その不気味でいて誘うような気配に、心臓がまたドキリと大きく跳ねる。きっとこれが序章にすぎないのだろう。深い深い闇が絡み合う王宮で、私はもっと危険で、もっと刺激的な真実にぶち当たるに違いない。
「怖いけど──やっぱりゾクゾクする」
私は思わず口元を歪めて笑う。すぐ横を走るエランが、何か言おうとしてやめた様子だ。どうせまた、余計なことを言うのをこらえてるに決まってる。
いいのよ、拗ねてても。どうせ最終的にはお互いが組まないと、この不可解な事件は解決しないんだから。
そう確信を抱いて、私は一歩足を踏み出した。宮廷の奥へ、闇の更に奥へ。その先には、私が求めてやまない鋭い緊張と破壊的なカタルシスが待っているはず。怪しげな足音が遠ざかり、どこからか満たされるような期待が込み上げる。
何もかも吐き出して破壊してしまったら、その先には清々しい光が射し込むかもしれない。リュシアの病も、呪詛も、そしてこの王宮を覆うすべての暗い誤魔化しも。
私は闇の狭間で走りながら、確かな決意を噛みしめる。もう逃げたりしない。素直に怖がりもしない。徹底的に翻弄してやる──王宮の深部に巣食う“何か”を丸ごと引っ張り出して、懲らしめるんだから。
この夜は長くなりそう。だけど、常識外れのひねくれ者にとっては、むしろ都合がいいのかもしれない。私は高揚感を胸に抱きながら、再び廊下を駆け抜けた。