深夜の血誓と仮面の狂詩曲5
夜更けの離宮は掃討戦後の静けさに包まれ、吹き荒れていた凶気だけが嘘のように消えている。けれど、照明の落ちた廊下を歩くと、さっきまでの騒ぎが幻ではないとわかる。壁に奔ったひび、焼け焦げた床、ばらばらに散らばる破片。宴はとうに終わったはずなのに、肌の奥にまで焼きついた熱気がまだ消えない。
「あーあ、すっかり真っ暗。こっちは打ち上げどころか大掃除ね」
苦笑まじりにつぶやきながら、私は扉の封印を確認する。簡易的な術式にすぎないが、今のところ破れそうにない。なんとか繋いだ勝利の代償は大きく、フィリスはまだ一歩も動けずにいる。だが、血の流出は止まったし、意識もしっかり保ててる。これは大きな一歩だ――と自分に言い聞かせる。
「ミオ、そちらは大丈夫か?」
声をかけてきたのはグレゴリーだ。あちこちの負傷者の把握に追われているらしく、せわしなく部下と話をしていた。使える戦力が限られている状況で、見事な指揮っぷりを見せている。そもそも、あの仮面舞踏会の狂乱がこの程度で済んだのは、彼と――そしてある人の迅速な手腕によるところが大きい。
「セシリアは? 大広間の被害報告をまとめてたはずだけど」
念のため聞くと、グレゴリーは「あっちだ」と指先で示した。見ると、まるで舞台裏を切り盛りする要領で、セシリアがてきぱきと指示を下している。騎士たちや侍女らが鋭い動きで応え、負傷者の順番づけから扉の周辺警戒まで、抜かりなくこなしていた。どこでそんな段取りを覚えたのか、本人は平然たるものだ。まったく、どうして自覚がないんだろう。あれだけ完璧に回せる人材は滅多にいないのに。
「緊急対応は彼女に任せとけ、だとさ」
グレゴリーがささやくように言った後、「余計な気遣いは要らんぞ」とばかりに去っていく。私が彼の背中を見送っていると、視界に揺れる銀の槍が飛び込んだ。エドワードが地面に突き立てたものらしい。急ぎ駆け寄ると、彼は悔しそうに唇を噛んでいた。
「仮面の奴ら、追撃はできなかった。扉に満ちていた魔力があれほどまでとは…次こそは逃がさない」
彼の目には今までにない決意が宿っている。王家の威信を守る……それもあるだろうが、どうやら個人的な感情の火も相当燃え上がってるようだ。敵に一杯食わされた事実が、彼を奮い立たせているらしい。
「次があるなら、あたしたちも遠慮なく叩きのめすわ。いや、ぜひ叩かせてほしい。こっちも相当イラついてるの」
そう言い返す私に、エドワードは苦く笑った。そこへ、フィリスを支えていたエランが近づいてくる。腕輪を握りしめる姿は痛ましいが、少しだけ呼吸が整ったらしい。彼は軽口を叩くのも忘れず、「こんなに身体がきしむのは初めてだ。やれやれ、貴族の夜会ってのは怖いもんだな」と呟く。人騒がせな試金石にはぴったりの台詞かもしれない。
フィリスはまだ顔色が白いが、かすかに口を開き、「みんなが無事で…本当によかった」と弱々しく言う。そのまま彼女は気が抜けたようにうつむいた。心配性の私は思わず彼女の肩に触れ、
「ゆっくり休みなさい。ここから先はあたしやセシリア、ゼオンとか、ほかの人間が何とかする。無理して倒れたら、仮面連中が喜ぶだけでしょ?」
そう軽く言い放つと、フィリスは目を伏せながらほんのり笑った。仕掛けてくる外敵への怒りは相当だが、今は彼女が笑ってくれるだけで救われる。やがて耳をふさぐような静寂が降りてくると、どこからかゼオンが姿を現し、私の脇に立った。
「ミオ、扉に仕掛けた術式はあとどのくらい保つ?」
「実験台じゃないんだから、変な聞き方しないで。……まあ、徹夜で持つかどうかってところかしら」
正直、当てにならない。でも、「急造」にしては上出来だ。それだけ今夜の皆の連携が噛み合っていた証拠とも言える。特にセシリアの合理的な段取り……いや、彼女を誉めすぎると本人が首を傾げてしまうのは目に見えているから、内心で拍手しておくに留めておこう。
「これじゃあ終わらない。チェルバやスペイラを消し去るまで、しつこく追いかけ回すしかない。ま、ストーカーみたいになったってかまわないわ」
思い切り言い放つと、横でエランが嫌味っぽく笑う。
「そいつらも、きっとミオのしつこさに辟易するだろうね。こっちは何度敗北を味わっても、欠片もくじける様子がないわけだし」
「いちいち皮肉言わないで。……あんたの腕輪も大概しぶといじゃない」
言い返すと、エランは目を細めてこちらを見つめる。変な沈黙が流れかけたので、私は踵を返してそそくさと離れる。エドワードとフィリスは騎士たちに連れられ、被害確認のため別室へ向かっていった。ゼオンは大広間の端で新たな結界の調整を始める。
――結局、激戦の後始末はまだまだ続く。破損した調度品を片付け、扉を封じ」、残り香のように漂う邪気を拭い去らねばならない。
「休む暇もないわね。まあ、退屈しないのはありがたいけど」
そうつぶやくと、ちょうどセシリアが列を見回りながら前を横切った。行き違いざま、彼女は驚くほど穏やかな顔つきで、「進捗は順調です、ミオ様。ちゃんとお休みも取ってください」とさらりと言ってくる。とりあえず助言には素直に首を縦に振るけれど、彼女の多忙ぶりこそ相当だ。自分の有能さにこれっぽっちも気づいていない女官って、ある意味最強だと痛感する。
ドタバタの夜はほぼ終わった。だが、チェルバの不敵な言葉、スペイラの退却時の不気味な笑み、そして扉の封印が持つホンのわずかな猶予──どれもが次の災いを約束しているのは明白だ。ならば徹底的な対抗策を用意して、笑顔で返り討ちにすればいい。今ここにいる仲間たちと組めば、それも決して不可能じゃないはず。
熱が冷め切らない身体を抱えつつ、大広間の奥を振り返る。数時間前、あそこでは死闘が繰り広げられていた。けれど今となっては崩れ落ちた装飾がひどい惨状を物語るのみだ。妙な失望感と同時に、燃えるような高揚がこみ上げてくる。犠牲と怒り、痛みと策謀。すべてひっくるめて、この先も見える嵐に立ち向かってやろうと。
「やるなら容赦しないわよ。どっちが先に泣きを入れるか、思い知らせてやる」
ポツリと呟いて、意識が誇張するような疲労を噛み殺す。廊下の向こう、夜明けが近づいている。廟々と光る月の下で、私たちの次なる戦いがじりじりと待ちかまえているのだ。もう休む暇なんてない。心臓は高鳴りっぱなしだし、ページをめくる手を止める気にもなれない。狂想曲の幕は、まだ上がったばかりだから。