深夜の血誓と仮面の狂詩曲3
大広間の扉が開かれた瞬間、まるで夢の中へ踏み込んだかと思わせるほど、濃密な香と揺らめく灯りが一斉に踊りだした。闇夜に浮かぶ仮面の群れは華やかでいながら不気味で、まるで狂気を孕んだ祝祭だ。主催者であるチェルバ・ファロットは、黒ずくめの衣装に妖しい銀色の仮面をつけて悠然と客を迎えている。男女の区別すら曖昧な声で「ようこそ、仮面舞踏会へ」と告げられ、私は一瞬鳥肌が立った。
天井近くには色とりどりの仮面を模した飾りがぶら下がり、時折かすかに響く甲高い笑い声は何とも不安を煽る。けれど私たちは怯んでいられない。むしろこの緊張を刺激に変え、隙あらば敵を炙り出すのが今宵の目的だ。
ゼオンが軽く踵を鳴らして私に耳打ちする。
「大広間の奥…扉の方から何か嫌な気配がするな。ほら、あそこ」
彼が視線で示す先には重厚な古代の扉が鎮座し、かすかに軋むような音が聞こえる。複雑な模様が刻まれた扉は、ぎこちなく呼吸しているかのごとく震えているように見えた。胸の奥がざわつく。
「まるで人食い口に通じてるみたいね。後で近づいてみる価値はありそう」
私は仮面越しに挑戦的な笑みを浮かべ、さりげなく扉を横目で測る。ゼオンはただ楽しそうに肩をすくめるだけだ。その気配をこちらも感じ取っているらしく、仮面舞踏会の客たちもなんとなくあちらへ視線を向けている。だが、誰も軽々しく近寄ろうとはしない。そもそも、迂闊に踏み込もうものなら、チェルバの怪しい視線が突き刺さりそうだ。
そんな中、エランが汗をにじませて額を押さえていた。腕輪の呪印が脈打っているのを感じてなのだろう、少し顔色が悪い。それでも頑なに妙な微笑を張りつかせ、周りに悟られまいとしているのが痛々しい。私がそっと近づくと、彼は声を潜めて謝るように言った。
「悪い…ちょっと頭が割れるみたいだ。けど大丈夫、まだ動ける」
「唇が若干紫色なんだけど? ま、いいわ。倒れるなら見えないところでお願いね」
言いながら、彼の肩を支える。正直ひやひやするが、エランの“試金石”という役割には私も興味がある。彼がここで倒れてしまったら、せっかく舞踏会に潜り込んだ意味が薄れる。本人には皮肉をぶつけつつ、なんとか踏ん張ってもらうしかない。
そこへ、フィリスが意外と物々しい純白の衣装で登場してきた。仮面の下からのぞく瞳には、不安と決意が入り混じる光が宿っている。彼女も薄々感じているのだろう。王家の“血”がこの扉と共鳴を始めていることを。実際、扉に近づこうとするたびに、フィリスの体が軽く震えているように見えた。
「ごめんなさい、挨拶代わりに踊りを誘う余裕もないわ。でも、あの扉が気になって…」
「いいんじゃない? 華麗にステップ踏むより、血生臭い真実のほうが私たち好みでしょ」
私が肩をすくめると、フィリスは可笑しそうに笑い、それから短く息をのんだ。まるで身体の奥底が熱を帯びているかのようだ。離宮での事件を繰り返さないためにも、彼女は自分の力と向き合わなければならない。何とも酷な話だけれど、逃げ道はもうない。
その時、会場後方でピリッと空気が張り詰めた。スペイラの姿だ。黒装束に紛れて誤魔化すつもりらしいが、その鋭い印象的な瞳は見間違えようがない。彼女が抱えている小さな鞄が光をはじき、一瞬どぎつい光彩が漂った。あれが闇組織の道具か?
「やれやれ、あいつまで来てんのか。こっちが探す手間が省けたわ」
ゼオンがにやけながらも警戒を強める。スペイラは私たちがいる方向をじろりと見やり、すぐに仮面の群れへ溶け込んでいってしまった。ああいう逃げ足だけは速そうだ。不審な道具を使ってまた何か企んでいるのだろう。そう思った瞬間、大広間の中央にあるシャンデリアがわずかに揺れ、耳鳴りのような低い音が響いた。
「おいおい、何が起きてる? 風も吹かないのに振動が…?」
グレゴリーが即座に騎士たちに目配せして動かす。いつものように、その傍らでセシリアが周囲を観察し、騎士の配置を一瞬で把握していく姿が見えた。指示の書かれた小さな紙切れを何枚も作っては、それぞれに渡している。まったく、誰よりも早く裏方をさばくあの有能ぶりには脱帽だ。彼女、気づいてるのかしら、自分がいなけりゃグレゴリーだって右往左往するってことを。
「セシリア、念のため大広間両脇の通路も巡回を増やしてくれ。客に悟られないようにな」
グレゴリーが密かに耳打ちすると、彼女は「かしこまりました」と柔らかな笑みを返す。全く躊躇なく的確に動く姿を見ると、こっちの肝が冷えるほどだ。彼女自身は自分の実力を当たり前と思ってるっぽいけど、少なくとも私からすれば驚異的な手際の早さ。仮面舞踏会が終わったら表彰状のひとつでも叩きつけたいぐらいだ。
その間にも、チェルバは客を誘導するふりで私たちを扉へ近づけないようにしている。妖艶な笑みをたたえ、会場のあちこちで気まぐれに踊りを煽る姿は奇怪そのもの。グラスを掲げ、それに合わせて仮面の客たちがくるくると円を描き始める。しかし、その中心にあるのはあの古代の扉。まるで扉を取り囲むように怪しい円舞が展開され、不用意に進めば袋の鼠だ。
「いやーな舞台ね。まるで私たちをおびき寄せようとしてる感じがする」
私がつぶやくと、ゼオンは肩を揺らして皮肉げに笑う。
「暇つぶしにはちょうどいい。さあ、どう出るか見ものだな」
「どっちかっていうと私たちが仕掛け側だと思ってたが…」
そう言いかけた矢先、エランが「待て!」と小声で制する。フィリスが扉側に足を踏み出そうとしたのだ。その動きに合わせるようにして、扉からまた軋むような音が鳴り、生々しい振動が一気に会場に広がった。シャンデリアの飾りが激しく揺れ、仮面客が悲鳴をあげる。もう派手にバレバレだ。
「結局、こうなるわけね。なら遠慮なく暴れさせてもらうわよ」
私は思わず口元をゆがめて笑う。客席が悲鳴を上げようが、今さら止まるつもりはない。あちこちで動揺が走り、スペイラの影はすでに扉近くへ移動しつつある。彼女の鞄の中で何が唸っているのかはわからないが、少なくともただの花束じゃないのは確かだ。
「グレゴリー、あんたの部下、出番だよ。セシリアの指示をちゃんと聞くんだね?」
私が目をやると、すでにセシリアがさっさと式次第をまとめあげ、複数の騎士をそれぞれ配置に走らせていた。ほんの数秒しか経っていないのに、この完璧な裏回し。やっぱり恐ろしい天才だわ。あの人が敵だったらと思うと冷汗が止まらないが、今は心強い限り。
「扉の向こうには何があるのかしらね。大いに期待させてくれるじゃない」
ゼオンが薄く笑みを浮かべ、フィリスは震えながらも意を決したようにエランと目を合わせる。腕輪が焼け付くほど痛むらしいが、エランもここで膝を折るつもりはないようだ。みんなが一気に盛り上がる高揚感。刺激的で危険な匂いが、喉を焼くように広がっていく。
仮面の夜はすでに狂乱の淵でざわめき始めている。暗い力がうごめくその磁場に、私たちの体がじわりと吸い寄せられるのを感じた。今すぐにでも飛び込んで真相を引きずり出したい衝動に駆られるが、スペイラやチェルバの思惑を潰すには的確に動かねばならない。そしてその影には、まだ見ぬ“血誓”の秘密が待ち構えている。
「よし、舞踏会なんて言ってる場合じゃないわね。地獄のステップを踊る羽目になりそう」
私は高鳴る鼓動を抑えきれず、深い呼吸をしながら扉へ意識を集中させる。まるで吸い込まれそうな脈動が、こちらを誘っているようだ。
さあ、いよいよ幕が上がる。熱狂と絶望が入り混じるジェットコースターのような夜を、これっぽっちも遠慮せず楽しんでやる。どう転がろうとも、最後に笑うのは私たちであるべきだから。ここで手を緩めるなんて選択肢はない。結末が来るまでひたすら突き進むだけだ――次の瞬間、扉が鈍い音を響かせて、わずかに開きかける気配を見せた。まさに今、闇の奥底から新たな惨劇と謎が顔をのぞかせようとしている。もはや引き返す手段など存在しない。私と仲間たちは、得体の知れない闇へと大胆不敵に足を踏み出した。