狂い咲く魔術の迷宮と血の系譜 1
地下の書庫って、もう少し静寂と埃の香りが支配する場所だと思っていたわ。ところが実際のところは、ざわつく足音やひそひそ声、それから鼻先を刺激する生々しい魔力の残滓などが入り混じって、あちこちの気配がピリピリと尖っている。おまけに灯火の灯りがやけに揺らぐものだから、まるでいつ闇がとびかかってきてもおかしくないような、不穏極まりない舞台になっているじゃないの。
「風通しが悪いわね。ここ、本当に書庫?」
小声で洩らせば、隣でゼオンがそっと苦笑する。どうやら王宮の裏側って、何もかもが胡散臭い要素でできているみたい。監視のはずの魔術師たちも、いつからか警戒より内輪の揉め事に気を取られているようだし。わたしは肩をすくめながら、薄暗い通路を奥へ奥へと進んでいく。それから、うしろを振り向いてちょっとだけ視線を投げた先では、エランが妙に不機嫌そうな顔をしているのを見てしまう。ああもう、あの子どもっぽい視線は「勝手に一人で行くなよ」って言いたいんでしょうけど、そんなこと言われてもねえ。
「だって、あなたがどこかの偉い方に報告しに行くから置いてっただけなんですけど? 遅刻は嫌いよ」と、心の中で悪態をつきつつ、わざとそっぽを向いてやる。彼がわずかに眉をひそめたのを見逃さなかったわ。はいはい、そのうちきちんと構ってあげるから、今は仕事を優先させてよ。
その先で、ようやく雰囲気の変わる区画に差しかかった。石造りの壁がほんのり暖かいのは、地下とは思えない奇妙さ。まるで誰かが魔力を燃やしているかのように、壁面の結界がかすかに波立っているのが目に見える。わたしは思わず息を呑んだ。恥ずかしながら、こんなに露骨に“動いて”いる結界は初めてかもしれない。
「……どこかに破れがあるわね。ひび割れって噂は本当だったのかも」
かがみ込んで壁面に触れると、皮膚の奥にビリっとした違和感が走る。ゼオンがすぐそばで眉を寄せている。わたしの隣にいたはずのエランも、いつの間にかぴたりと背後に来ていた。
「勝手に触るな。危険かもしれないだろう」
「ふふ、いいのよ、わたしは平気。こういうのにはちょっと慣れてて」
わざと挑発的に振り返れば、エランがいやに真顔でわたしの指先を引きはがした。むきになるなんて可愛いわね。まるで犬みたいに「余計な傷を負わせたくない」って吠えてるようで、ちょっと愛おしい。でも、なるほどこれは冗談じゃなくまずい状況か。指先に残る“誰かの魔力”は、じわじわと奥に広がっている気配を伝えてくる。
「ゼオン、フィリスの方は大丈夫?」
「今はエドワードたちが守っている。他の出入り口は騎士団長のグレゴリーが厳重に警戒中だ。おそらくは――」
そこまで言ったところで、突如として背後の廊下から騒がしい声が聞こえた。「侵入者だ!」「急げ、結界が破られる!」だの、やけに血走った叫び声だ。この明らかな非常事態に、わたしは表情を引き締める。誰が仕掛けてきているのか、もはや推測するまでもない。スペイラが動き出した可能性が濃厚だ。まったく、懲りない連中よね。
「またあの闇組織が悪さをしてるのかしら。わたし、ほんと好きになれないタイプ」
「好きじゃないやつに付きまとわれるの、いつものことだろ?」
エランがどこか嘲るように口を開く。思わず反論しかけるけど、グッとこらえる。確かに、平穏という言葉はわたしから最も遠いところにあるわ。
ゼオンが何やら術式の準備を始めたらしい。静かに両手を組んだかと思うと、周囲の空気がひゅうっと冷え込んでくる。これは結界を強化するための魔術だろう。ちらりと見れば、わたしに“好きに探りなさい”とでも言いたげな視線をよこしてくる。どうやら、先に進むのはわたしとエランの役目みたいね。
「じゃあ行くわよ、エラン」
軽く合図すると、彼は嫌そうな顔をしながらもしっかりついてきてくれる。こっちが言わなくたって心配で仕方ないんでしょう? この無愛想さんは。
深く続く石段を下りていけば、書庫の色合いはさらに重苦しく変化していく。明度が低いランタンの光が、黒い染みのような跡を天井や柱に浮かび上がらせる。その異様な雰囲気に胸がざわつく。わたし、本来こういう陰気な場所は苦手なんだけど、今は怖がる暇なんてない。
「見て、ドアが半分壊されてる」
奥の木製扉が酷く焼け焦げていて、そこには思い切り穴が空いている。この強引なやり口、スペイラの配下にちがいないわ。奴らはいったい何を狙っているのか。もしかして、王家の血を利用するための術式の素材を探しに来たのか、それともフィリスを再び暴走させる術をここで完成させようとでも?
慎重に扉の穴から覗くと、そこには数名の魔術師がうずくまっている。気絶しているみたいだ。生きてはいるようだけど、間に合わなかったか……。結界に歪みが生じたのも、連中が内側から破壊したからに違いない。なんて強引で迷惑な話なの。
わたしは背後から迫ってきたエランに目配せする。彼もわずかに顎を引いて、静かに扉に足をかけた。そして、そこから先に広がる空間をじっと睨む。その姿はいつになく獣じみていて、侵入者を仕留めようとする猛禽類を連想させる。いつもは嫌味なくらいの美貌を振りかざすくせに、こういうときだけ頼もしいんだから、ほんとズルいわ。
「行くぞ」
彼の低い声が静寂を切り裂いた。わたしは素早く扉の隙間から勢いよく滑り込み、その後ろにエランが続く。するとそこは、天井高くまで古代文献の詰まった巨大な書棚が迷路のように並ぶエリアだった。昼間でも薄暗いという話は聞いていたけれど、この凄惨な雰囲気は噂以上。床には割れた魔術具の破片や、見るからに怪しい黒い石の欠片が落ちている。それがぴくりと動くのを見て、わたしは背筋が凍る。
(これ、フィリスの赤い痕と呼応する可能性があるんじゃないの…?)
「ドキドキしてるなら、後ろに隠れるか?」
不意にエランが小声で囁く。おや、意外に気が利くじゃない。そのくせ声には明らかな焦りが滲んでるけど。まるで「俺だけを頼れ」って言いたそうで、一瞬笑いたくなった。それでもここは真面目に返事を返す。
「あとでしっかり頼るかもしれないから、ちゃんと護ってよね」
すると、彼はほんの少し唇の端を上げた。少年みたいな笑みがなんだか懐かしい。いいわ、わたしだってあなたを当てにしなきゃやってられないんだから。
そんなふうに心を落ち着かせかけた矢先、大きな物音が書棚の向こうから轟いた。木材が粉砕される嫌な音と、断末魔のようなうめき声。そこにスペイラがいるのか、それとも別の闇組織の手先なのか、とにかく事態は限界まで来ている。
わたしは思い切り息を吸い込み、エランと目を合わせる。彼の瞳は鋭く光っていた。大丈夫、怖がってる場合じゃない。理詰めだろうが何だろうが、乗り越えてみせるわ。前回の大惨事を乗り越えてきたんだから、今回だってきっと。
「いざ、突撃しましょ。こんなところで止まる気はないから」
わたしが駆け出した瞬間、その奥から途方もなく嫌な気配が迫ってくるのを感じる。鋭い爪のような魔力にゾクリとした痺れが走るけど、ここで止まっちゃダメだ。闇を暴いて、欠片を取り戻す。その先にフィリスの未来も、わたしの好奇心も繋がっているんだから。
――これから先、どんな惨劇が待とうとも、もう逃げ場なんかない。次には何が起こるかさえ想像したくないけれど、わたしは自分の足を立ち止まらせたりしない。だってこれは、わたし自身が選んだ道。エランも、ゼオンも、みんな同じでしょ?
「さあ、バカげた闇組織の企みを暴いてやろうじゃないの。わたしの目の前で、好き勝手やってくれるんだから楽しませてちょうだい。どうせなら、最後まで徹底的につき合ってあげるわ」
そう宣言したわたしの声が、煤煙にまみれた地下書庫に響く。読んでいるあなたもしっかり見届けてよ? 本当にやばい展開が好きでしょう? ――なら、とことんドキドキの限界を更新してあげるんだから。終わりなんて、まだまだ先の話。むしろ始まりは今ここから。心の準備をしておいてよね。わたしがつれないそぶりをしても、絶対に置いていかないから。ほら、遠慮なく手を伸ばして。まだまだ乱舞は続くのよ。