暁を乱す契約と朽ちし王冠 3
式当日、大広間に集まった貴族たちの華やかな衣装と装飾品のきらめきが、まるで絵に描いたような祝福ムードを醸し出していた。……はずなのに、その空気にはなんとも言えない重たさが漂う。いっそ笑っちゃうくらいにギスギスした空気。正直、わたしは懲りずにドレスの裾を蹴飛ばしてでも外へ逃げ出したい気分だったが、さすがに主役をほったらかしては逃げられない。というか、もう逃げ腰になっている余裕はない。なにしろ、あの赤い痕が、フィリスの首筋から手首にかけてじわじわと浮き上がってきているのだ。
「……いよいよ来たわね」
わたしはフィリスの横で小さくつぶやく。彼女は歯を食いしばりながらなんとか笑顔をつくろうとしているけど、正面の祭壇に進む足取りが明らかに不自然だ。しかも、場違いにざわざわしてる貴族どもは、そんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、はたまた興味がないのか、ひそひそ話をしながら我が身を守る距離を確保している。
「大丈夫…大丈夫だから」
フィリスが震える声で唱える。わたしは「ウソ言っちゃダメ」とあえて冷たく返した。こういうときはむしろ強がりを剝がしてやったほうが、「耐えてる感」が保てる。おかしな話だけれど。
儀式が始まり、一斉に奏でられる弦楽器の調べが大広間に響く。貴族の誰もが息を呑む華麗な音色――のはずが、なんとなくノイズ混じりに聞こえる。交わされる視線や硬さを失いかけている司祭の表情が、どこかで待ち構えている破滅を暗示しているみたいで、背筋が寒い。
「フィリス」
隣で小声で呼びかけると、彼女ははっとしてわたしを振り向いた。その瞬間、耐えきれなくなったのか頬を涙が伝う。
「ああもう、こんな重要な場で泣くなら、よりによってこんな場面じゃなくてよかったのに。周りの連中、動揺するどころか面白がるかもしれないわよ」
わざと毒舌を混ぜてみせると、フィリスは少しだけ唇をゆがめて笑おうとする。痛みで顔色が白いままなのが気になるけど、絶望でふさぎこんでいるわけじゃない。それだけは感じ取れて、わたしもひとまず胸をなでおろす。
司祭が儀式の文言を読み上げる中、視界の端にエランが見えた。列席者の最前列付近、好き勝手に立ち居振る舞う貴族とは違い、彼は常に石像のように落ち着いて見える。……はずが、今日ばかりは彼のまなざしから余裕が消えているのがわかる。指先が、腕輪にそっと触れている。あれには秘密があるとは知っていたが、彼自身どこまであれを使う覚悟があるんだか。
「あれ、気になりますか?」
隣にするりと滑り込んできたゼオンの声が、わたしの耳元をくすぐる。相変わらずどこから現れるのか、このスパイまがいの王宮魔術師め。わたしが小声で応じた。
「あれを本気で解放したら、大広間ごと吹っ飛ぶなんてオチにならないでしょうね?」
「さあ、どうだろうね。僕も詳しくは知らない。ただ、使い手の命を削ると噂される“皇帝の力”だとかなんとか。よくそんな危険物と契約したと思うよ」
ゼオンが小さく鼻で笑う。あのイケメン天使然としたエランが、みんなを護るために存在する“試金石”らしいけど、やり過ぎて自滅でもしたら笑えない。まあ、それで守られたらわたしたちとしてはありがたいけど。
そんなやりとりをしている最中、司祭の声が震え始めた。一拍遅れて、フィリスがかすかな悲鳴を漏らす。赤い痕がさらに濃くなり、彼女がその腕を押さえた瞬間――周囲の空気がバチッと音を立てて、まるでどこかが破れたように激しく揺らいだ。次の瞬間、大広間にいた貴族たちが一斉に悲鳴を上げる。
「なんだ、これはっ!」
「痛い! 熱い!」
「きゃあああっ!」
悲鳴と恐慌が一気に膨れ上がり、優美であったはずの宴席が、一転して地獄絵図に変わる。思わず「派手ね」と口から出そうになったが、わたしはギリギリで飲み込んだ。フィリスの右腕の痕から噴き出すように真紅色の粒子が広がり、大広間のあちこちを舐め回すように駆け抜けていく。あれは魔力の暴走、しかも封印術を逆手に取った、かなりエグい仕掛けが混ざっている。
「うわ、最悪……っ」
わたしはドレスの裾をまくし上げ、フィリスの肩を必死で支える。すでに彼女の目は焦点が定まっておらず、体温がおかしいほど上昇している。呼吸も乱れ、痛みをこらえようと必死に啼く声が聞こえる。
「くっ……!」
それと同時に、エランの方向から眩い閃光が見えた。まるで稲妻の網がばちばちと張り巡らされるように、大広間を覆う結界が形づくられる。あれが彼の“皇帝の力”か。理屈はともかく、結界の外側へフィリスの暴走魔力が広がるのを遮断しているらしい。必死に耐えている彼の顔が青ざめているのを見て、わたしは思わず心の中で声援を送る。
「わたしは奥へ行く。祭壇の下に封印の要があるはず。突き止めて、ぶっ壊すわ」
わたしがそう宣言すると、ゼオンは一瞬だけ目を見開き、それから苦笑いを浮かべる。
「世話のかかる弟子だね、まったく」
「もう弟子でもいいけど、感謝は後回しにして。フィリスは頼んだわよ」
「ああ、任せろ。グレゴリーたちは、そっちの安全確保に回るはずだ」
そう言ってゼオンは手袋をはめ直し、宙に輝く魔術文字を乱舞させる。暴走の余波から居並ぶ貴族たちを守るために手を打っているようだ。助かる。
わたしは宙を走る赤い痕をかいくぐりながら、祭壇の奥へ飛び込んだ。誰かが式の進行に使うために準備していたらしい花嫁道具の中に、見慣れない黒い装飾品が見え隠れしている。これは……スペイラめ、しっかり仕掛けてくれてる。呪具独特の殺気がじっとりとまとわりついて気色悪いったらない。
「なるほどね。あんたの仕業ってわけか」
皮肉たっぷりにつぶやいてから、わたしは思い切りその黒い装飾品を蹴り飛ばす。どす黒い輝きが弾け、まるでヒビが走るように大広間の空気がざわりと震えた。遠くからフィリスの苦悶の声が聞こえる。体感的には心臓が凍りつくような感覚だが、わたしは意識して脳をクールダウン。ここからが論理の出番だ。
「呪具と、フィリスの血脈、結界の干渉…全部ひっくるめて解体すればいい」
わたしはその装飾品の作りをざっと観察し、紋様の光の流れに重点を置く。ハサミで糸をぷつりと切るように、魔力の流れを寸断できればフィリスへの侵食も弱まるはず。ここでの失敗は大惨事確定だけど、怖気づく理由なんか見当たらない。
「えいっ――ちょっとは大人しくなりなさい!」
短く叫び、わたしは魔力の流れが交差する一点を目掛けて手を伸ばす。指先に小さな魔術式を込め、ピンポイントで打ち込むと、呪具がひび割れを起こして黒い液体を噴き上げた。生臭い衝撃が鼻をつく中、頭の芯が焼けるような感覚に襲われる。
「ぐっ…でも、こんなの…っ」
かろうじて踏みとどまると、呪具から立ちのぼる暗いオーラが急にしぼむ。わたしはたまらず大きく息を吐いた。フィリスの悲鳴が少しだけ弱まったように聞こえるのは気のせいじゃない。
「ミオ、うまくやったか?」
エランの声が、光の壁の向こうから聞こえる。結界がまだ解けていない証拠だが、さっきよりも負荷が減った様子に見える。彼自身も汗だくだけれど、なんとか踏ん張っているみたい。
「たぶん。でも、あと一押し」
そう答えた瞬間、殺気にも似た視線を感じた。大広間の入り口近くで、黒いローブに身を包んだ細身の――間違いなくスペイラだろう人影が、わたしたちを睨んでいる。すぐにでも逃げ出そうとする下一秒と迷っているのか。それとも、起死回生の妨害を仕掛けてくるのか。わたしは駆け寄ってやろうとしたが、その人影はサッと煙のように掻き消えてしまった。
「あーあ、逃げ足だけは一流ってわけね。余計腹が立つ」
心底忌々しく思いながら、わたしは祭壇奥の呪具をさらに蹴散らし、契約の形跡をズタズタに引き裂く。あとはフィリスが、自分の意志でこの暴走を抑え込めるかどうか。それこそが勝負の分かれ目だ。
「フィリス! 聞こえるなら、あんた自身を信じて。あんたの力が、あんたを殺すわけない。殺すのはいつだって他人の悪意よ!」
わたしは叫んだ。すると、結界の向こうでうずくまっていたフィリスが、わずかに顔を上げた。その腕の痕は赤黒く腫れ上がっているが、彼女の瞳にはかすかな光が差している。隣でゼオンが必死に治癒魔術をこめているのも見えた。
「私……まだ…」
かすれ声が大広間に響く。周囲は混乱しているのに、誰もその声を遮れない。フィリスがゆっくりと腕を伸ばし、自分の胸元に手をあてがう。そして、次の瞬間――ぶわりと弾けるように赤い光がまぶしく立ち上った。
一瞬みんなが息を止める。わたしも思わず「やばっ」と身構えたが、先ほどまでの攻撃的な魔力とは違う。どことなく凛とした、力強い光だ。フィリス自身が自分の血脈をねじ伏せ、自分のものにしようとしている感じ。凄まじい痛みを伴っているのは明らかだが、既に悲鳴を上げるよりも先に踏み止まっている。
「大丈夫。わたしが保証する。あんたはもう負けない」
そう確信めいた言葉が口から飛び出した瞬間、赤い光がスッと収束していき、大広間に降りかかった悲劇の嵐が一気に弱まる。エランが張り巡らせていた結界が消え、騎士団や貴族が倒れこんだまま、息を呑む静寂が訪れた。
わたしは息も絶え絶えにドレスの裾を直しながら、フィリスのそばへ駆け寄る。彼女は肩で息をし、全身が汗まみれになっていたものの、その瞳には確かな意思が宿っていた。
「終わった……の?」
か細い声で問う彼女に、わたしはにやりと笑ってから答える。
「ううん、まだまだ。スペイラだって健在だし、王家の血の秘密はまったく解決してない。でも、ここはまず勝利でしょ。あんたが自分の力を、ほんのちょっとだけでも受け止められたんだから」
フィリスは泣きそうな笑顔を浮かべて、小さくうなずく。エランは結界のダメージなのか、その場でへたり込んでいたが、とっさにわたしと視線が合うと目をそらすようにそっぽを向いた。……なんだか不機嫌そうだが、まあ今回の大立ち回りで命を削ったのかもしれないし、拗ねてるだけなら何より。
「ああもう、みんなボロボロ。でもむしろ良かったじゃない、華やかな宴席が血みどろの儀式になりかけたわりには、誰も死んでないし。あなたたち、やればできる子ね!」
そう言ってわたしは、呆然とする騎士団や貴族が立ち尽くす中で、一人だけ軽口を叩く。だって仕方ないじゃない、とんでもない惨状だもの。最後にテンション高く褒めでもしなきゃ、みんな気が抜けて倒れちゃいそうだ。
「この先、もっと大変なことが起こるかもしれないけど、今はこれで充分。わたしたちは生き延びたし、フィリスが自分の意思でここに立ってる。それだけで、ここにいる誰一人として文句はないでしょ?」
そこには倒れこんだ兵を介抱するゼオンの姿、立ち尽くしながらも歯を食いしばるグレゴリー、呆然と周囲を見回す貴族の顔――そして、拳を握りしめながらも薄く笑みを浮かべるフィリスがあった。もうあの涙に濁ったか弱さだけが彼女を支配することはないはずだ。
よし。わたしは背筋を伸ばす。これで婚礼は事実上の中断になってしまったけれど、正直、仕方ないわよね。このまま強引に続けようとする輩がいるなら、それこそ笑いものだ。
……さて、ここからどう荒らし回ってやろう。闇に消えたスペイラを追うのか、憔悴したエランをからかうのか、あるいはまた新手の洗礼がやってくるのか。まだまだ停戦なんて甘い考えは捨てておいたほうがいい。世界はいつだって、どこか物騒なまま転がっているんだから。
わたしは手の中に残った微かな震えを感じつつ、フィリスに微笑む。苦しみや痛みを越えてきた先の、わずかに訪れた静寂が、なんだかとても尊い。だけど、やっぱりこの一瞬の穏やかさすら退屈に感じる自分がいる。わたしって、根っからのトラブル体質なのかもしれない。まあ、仕方ないよね。
「さあ、再開するならするでいいけど、今度はわたしたちのルールでやらせてもらうよ。いかにも“婚礼”って感じの派手なお膳立ては、もうウンザリだけどさ。今度こそ、笑えるエンディングにしてあげるから。……逃げるなよ、スペイラさん?」
わたしはまだ少し焦げ臭が漂う大広間を見回して、そう呟いた。襲ってきた絶望を快感に変えるやり方なら心得ている。生死の境をひょいひょい渡り歩くのは得意分野だ。フィリスの痛みを奪い去ることはできなくても、一緒に立ち向かうことならできる。
そう、わたしたちの戏曲はまだ終わらない。――むしろ、ここからが真の始まりだ。王宮を揺るがす裏の力も、古代の封印術の呪いも、まとめて暴き尽くす。誰も死なないかわりに、思いっきり歯を食いしばってもらうわよ。ハラハラしている暇なんて与えない。だから最後まで、しがみついて読んでちょうだい。どんな絶望も笑い飛ばす準備があるなら、なおさら歓迎だ。
わたしは、大広間の重たく焦げた空気の中で、息を大きく吸い込む。そして、駆け寄ってきたフィリスのか細い手をとった。その手はまだ熱く、わずかに震えている。でも、もう二度と無理やり引き裂かれることなんて、あってたまるもんですか。
――いっしょに行こう。たとえ次の一手がどれほどの苦難を連れてこようとも、わたしはこの興奮を手放せないのだから。