暁を乱す契約と朽ちし王冠 2
フィリスからの急ぎの呼び出しを受け、大慌てで部屋に駆けつけたわたしは、扉を開けるなり息をのんでしまった。いつもなら顔色悪いなりに気丈に振る舞う彼女が、まるで人形みたいに固まっていたからだ。ドレスの裾がくしゃくしゃになるほど握りしめられた手は微かに震えている。おまけに部屋の隅には黒い虫の死骸がぱらぱらと散らばっていて、何の悪趣味かと思わずつま先でつついてしまった。
「ミオ…来てくれたのね」
声には力がない。言葉を返そうにも、わたしはその惨状にどう反応していいのか迷ってしまった。死んだ虫の数は冗談でも引くレベルで多い。これが王宮の清掃係を呼び出すただの嫌がらせならまだ可愛げもあるが、たぶん違う。最近、近郊で噂になっている“黒い羽虫の大群”と同じ異様な気配がする。
「どうやって入ってきたの?」
わたしが虫の死骸を見やりながら尋ねると、フィリスは唇を噛んで下を向いた。やっぱり怯えてるんだろう。彼女がこんなにも身を縮こまらせるなんて、ちょっと尋常じゃない。
「わからない。朝起きたら、あたり一面これで…吐き気がして、全部外へ掃き出したんだけど」
残ったのがこれだけか。なるほどこれでも相当に片づけた後、というわけか。強い腐臭はしないけれど、嫌に生温い風が鼻を突く。どう考えても嫌がらせというよりは、“呪い”だの“儀式”だの物騒な言葉が浮かんでくる。わたし、自慢じゃないけどこういうトゲのある雰囲気って生理的にゾクゾクする。
「フィリス、婚礼の準備の方はどんな感じ? っていうか、もう衣裳合わせだのなんだので忙しそうだけど」
わざと明るく問いかけると、彼女は苦笑いのような顔をした。涙をこらえる寸前みたいに見えるのは気のせいじゃない。これはもう相当追い詰められてる。
「早まったって話、聞いたわよね? 二週間後に挙式だって。もう意味わかんなくて…まだ心の準備も何もないのに」
「二週間? 早すぎでしょ、今からじゃ祝宴の料理の手配すら間に合わないんじゃない?」
「王宮が総出で動けば形だけは整うんだろうけど。形だけ…」
フィリスは呟き、ドレスの裾をさらにぎゅっと握りしめる。“形だけ”という言葉が重く響く。こんなに大事なのに、すべてが権力争いの道具として乱暴に扱われている。そのことが、彼女の心を深くえぐっていた。
と、そこへノックもなしにドアが開いて、顔を出したのはエランだった。天使みたいな容姿だけでなく、いつもの生意気そうな目つきすら見当たらない。代わりに宿しているのは苛立ちと焦燥か。
「勝手に入るなって言われる前に言うけど、緊急事態だ。フィリス、今朝の王宮近衛から報告があった。お前の部屋の窓あたりを誰かが深夜にうろついていた形跡が見つかった」
「形跡って?」
わたしが問うと、エランは鋭い目をしたまま説明する。近衛兵が巡回中に“得体の知れない影”を見かけたというが、追跡しようとした瞬間に消えたらしい。しかも、床に残されていたのは、まるで古代文字じみた紋様が描かれた紙切れ。さらに気味の悪い墨色の染みまであったとか。
「黒い羽虫でしょ、きっと。」
フィリスが泣きそうな声で漏らす。エランは小さくうなずいた。
「多分、同じ一味。内部に通じた人間か、あるいは人外の手先か。王宮の結界はそこまで甘くないはずなのに、かなり強引に突破したんだろう。もう猶予はない」
「葬式前みたいな暗~い顔してるわね。このまま放っておいたら、フィリスが本気でぶっ壊れちゃうと思うんだけど」
わたしがわざと軽口を叩くと、エランは露骨に眉間にしわを寄せる。別に怒鳴ってくるわけじゃないあたり、多少は場の空気を汲む余裕があるのかも。彼なりに、かなり切羽詰まってるのは伝わってくるけど。
「…ミオ、あまり刺激しないでくれ。今はとにかくフィリスを守るのが先」
「わかってるわよ。でも、強引な婚礼は二週間後、呪印をばら撒く黒幕はますます活発、王宮はお祝いムードを押し通そうとしてる。こんだけヤバい要素が揃ってるのに、誰も事態収拾に本腰入れてないって、さすがにギャグなのかなって思うでしょ」
言いながらもわたしの頭の中では、あの虫の死骸や妙な紋様の意味を必死に組み立てている。王家の血を利用するには、大掛かりな術式の下準備が要る。婚礼はそこに人目を集める絶好の機会だろうし、実際には式を混乱のままぶち壊すつもりかもしれない。
「あんた、まさか一人で突っ込むつもりじゃないよね?」
声だけ聞こえたと思ったら、部屋の奥の絨毯の陰からゼオンが顔を覗かせた。いつの間に忍び込んだんだか、本当に余計なところで器用な男だ。さすが王宮魔術師、ふわっと現れてどこでも監視してるんじゃないのか。
「突っ込みたい。ていうか勢いで何とかしたいけど、理詰めで黒幕を刈り取るのが性に合ってるからね。まあ、一人よりは仲間が多い方がいいわ」
わたしが自信ありげに笑うと、ゼオンは「もう嫌な汗が出る…」と頭を抱えている。その隣でエランが険しい顔のまま黙り込んでいるのが気になるけど、どうせ彼も止める気はないはず。むしろ“他の奴と一緒に行動するな”とか言い出しそうで面倒くさい。彼の独占欲はフィリスに向けるべきか、それともわたしに向けるべきか、なんだか本人も混乱してそうだ。
「わたしだって、式なんて本当は嫌なんだよ…でも、みんなが止めてくれてる余裕はないし、ここでムリヤリ拒否しても余計に形勢が悪くなる気がして…」
フィリスが吐き出すように言葉を紡ぐ。その瞳には涙が浮かんでいた。わたしは少しだけ息をつく。こんな状況で彼女を一人にさせたら、そりゃ誰だって発狂するだろう。
「大丈夫。絶対に潰しに来るなら逆手に取ればいい。式をどうしても挙げさせたいなら、挙げさせてあげようじゃん。わたしが魔術的な防衛を張って、ゼオンが裏から支援。グレゴリーには兵を配置してもらうのが先決ね。あとはエドワードの動きがどうなってるか…」
そこで言いかけたところに、まるでタイミングを合わせたかのようにドアが叩かれた。無理やり開けられるよりはマシだけど、もう少し静かにできないのかしら。
「失礼する!」
勢い込んで入ってきたのはグレゴリーだった。騎士団長ゆえの重圧オーラは相変わらずだが、その顔には血の気が失せている。背後に控える従者らも動揺を隠せていない。
「エドワード殿下が暗殺未遂に遭われた。まだ息はあるが、回廊に刺客が出たそうだ…」
その一報に、ゼオンの顔色が変わり、エランは凍りついたように目を見開いた。わたしも予測はしてたけど、実際に起きたとなると話が違う。フィリスは「お兄様が…!」と叫んで駆けだそうとするのを、わたしは慌てて抱きとめる。彼女の動揺度合いは測りきれない。だが、湧き上がる恐怖を抑え込まなきゃ、何もできない。
「落ち着いて、フィリス。殿下はきっと大丈夫。わたしたちが何とかする。式なんかより、今はそっちの方が優先度高いよ」
「さっそく行くぞ。ミオ、ゼオン、フィリスは俺たちが守る。エラン、お前は…」
グレゴリーが一方的に指示を飛ばそうとするが、エランが低く「僕も行く」と言い放つ。修羅場だろうとなんだろうと“自分の大切な対象”を危険から遠ざけたいという彼の意志か。あるいは、刺客を逆手にとって黒幕を追うつもりか。彼の瞳にはいつになく暗い炎が宿っていた。
「じゃあ、フィリスはわたしが連れていく。どこか安全な控室へ避難しよう。それからエドワードの容態を確認して、余計な連中が紛れ込んでないか探る」
次々と思考が回転して、頭が熱くなる。暗殺未遂に呪印、黒い羽虫、無謀な婚礼──近い将来、もっと大きな地獄絵図が見えるような気がしてならない。でも、わたしはこの修羅場が嫌いじゃない。同時にフィリスを守らないといけないし、エドワードにも一度借りがあるから放ってはおけない。
「これから盛大にドンパチが始まりそうだけど、結局わたしにはこういうのが性に合ってるってわけ。ね、フィリス、絶望する前にちょっとだけ踏ん張ってみて。絶望は最後の手段に取っておけばいいんだから」
そう言って微笑むと、フィリスは泣きそうな顔のまま、かすかにうなずいた。伸ばされたその手は、ひどく細く、震えている。でも大丈夫、わたしはこの子が折れそうなときには絶対にそばにいる。
部屋を出る直前、ゼオンが低く口笛を吹いて「派手にやらかす予感しかしないなあ…」と漏らすのが聞こえた。いいじゃない、しっちゃかめっちゃかに荒れてナンボの大舞台でしょ。ここまで来たら、遠慮なんかしてられない。
さあ、闇の中で牙を剥く黒幕とやら。こっちも容赦なく暴いてやるから、とことん楽しませてちょうだい。フィリスの婚礼とやらが血みどろの儀式に染まるのか、それともわたしたちが派手に蹴散らして台無しにしてやるのか。もう選択肢は決まってる。わたしたちの勝ち筋を見せてあげるしかない。
――胸の奥で燃えるこの感覚は、恐怖に似た昂りなのかもしれない。けれど、そんな恐怖さえ、わたしにとっては甘い興奮のスパイスに過ぎない。次々と押し寄せる災いをなぎ倒しながら、フィリスを守り抜き、敵を粉砕する。そう決めた瞬間、足元に転がる黒い羽虫の死骸すら滑稽に見えてくるから不思議だ。
「それじゃあ、行こう。次はどんな悲鳴を聞かされるのか、今からワクワクしてきたよ」
自嘲気味に笑って、わたしはフィリスの手をぎゅっと握り返した。彼女の瞳にほんの少しだけ灯った覚悟の色が、その手のひらを震えながらもしっかりと伝えてくる。いいよ、どんな絶望でも受け止めてやろう。その先に得られるカタルシスなんて、きっと甘美に違いない。
こうしてわたしたちは、王宮の回廊を駆け抜ける。エドワードを襲った刺客の正体、使者の裏切り、呪印の蔓延――何から始まろうが構わない。全部まとめて華々しく蹴散らして、その代わりに最高の結末をもぎ取ってやるから。ザワつく胸と、押し寄せる予感を抱えながら、わたしは駆ける。
――さあ、大舞台はすぐそこだ。鳴り止まない不穏な鼓動こそ、わたしの生き方そのもの。誰が黒幕でもいい。とにかく叩き伏せて、最高の笑い話にしてみせる。もう誰にも邪魔させない。フィリスの涙も、お約束の暗殺劇も、みんなまとめて快感に変える。それこそが、わたしのやり方なんだから。