闇に蝕まれし王宮での秘術 2
朝になって離宮を訪れると、すべてが一段と重苦しく変わっていた。廊下すらひんやりした空気が肌を刺す。リュシア王女の高熱はさらに上がり、既存の治療は無力そのもの。医師たちが大声で指示を飛ばし合うけれど、成果はゼロに等しい。彼女がどんどん衰弱していくのを見ているだけなんて、あまりに無力だ。
「やっぱり呪いじゃないの?」
すれ違うメイドたちからそんな囁きが聞こえ、私は無意識に拳を握る。まるで喜んで噂を回しているような口調がイラッとくる。余計なおしゃべりで状況を悪化させるくらいなら黙っててほしい。
「焦るのはわかるけど、そう簡単に解ける呪術なら、もう誰かが成功してるわ」
そう毒づいてみたが、私の小言を真面目に聞く人はこの場にいない。エラン・アルフィーノはいつもの柔和(笑)な顔をして私の隣を歩いているが、あいかわらず本音が見えない。彼が真面目に悩んでいるのか、ただ事態を眺めて楽しんでいるのか――判断できないところがたち悪い。
午前中の検分が終わり、私は古代魔術の文献をもう一度洗い直した。普通の病なら、薬草や回復魔術で多少の効果は出る。でも今回は、ほぼ手も足も出ない。書物の中には、似たような呪詛らしき症例の記述がちらほらあった。けれど決定打となる解法はまだ見つからない。
「ミオ、どうだった?」
エランが私の肩越しに文献を覗き込んでくる。その顔、近い。あまりの距離感に、一瞬どぎまぎしてしまう。顔がいいせいか、狭い室内だと数倍うっとう…いや、落ち着かない。
「どうって、古代呪術の可能性が高いってくらい。正体不明が正体、ってやつよ」
やけくそ気味に答えると、彼は楽しそうに小さく笑った。まったく性格が悪い。
そこへどこからか、看護役のスペイラが夜な夜な離宮を抜け出すという噂が流れてきた。つい昨日までは「献身的で優しい人」扱いされていた彼女が、早くも疑惑の的だ。真相は不明。でも、あの人ならやりかねないという心が私の胸をかすめる。あれだけ浮ついた優美さを自然に発揮できるのは、ある意味才能かも。
お昼前、離宮の片隅で奇妙な護符が発見された。王女の枕元から転がり落ちたとか。淡い黒光りの石板に見えるが、罅の走った部分から不自然な文様が覗いている。私とエランは、衛兵を下がらせてからそっと触れてみた。
「ねえ、見て。刻印が…妙に歪んでる」
石板に指先を当てた途端、チリリと手のひらが痛んだ。まるで誰かの血を求めるかのような生々しい反応。これ、ただの護符に見えて、その実“変化の魔力”を増幅する仕掛けが混ざってる気配がする。
「スペイラの仕業か、それとも裏で糸を引いてる別人か。どっちにしても穏やかじゃないね」
エランがさらりと言うが、声はわずかに硬い。正体不明の魔力が動いている以上、彼も危険を感じているらしい。そのくせ他の人間に相談しようとすると、軽く拗ね顔をして私を見やがる。大人ぶってるけど、根は子供みたいね。
「全部一人で背負えって言うの? 正直しんどいわよ」
ちょっと不満を口にしたら、エランはすごく複雑そうな顔をした。それが可愛いと思う自分が腹立たしい。彼は返事をせず、うつむいたまま沈黙している。何を考えているかはわからない。でも、その手には確かにうっすらと汗が滲んでいた。やきもちでも妬いてるんだろうか。さすがにこの状況下でそれは勘弁してほしい。
一方で、王宮全体は疑心暗鬼の渦。誰が黒幕か、どこに真実があるか、わけのわからない憶測が次々と飛び交う。そうこうしているうちにも、リュシア王女の体力は刻一刻と削られている。峠を越えられるかどうか、秒読み状態だ。
つい息が乱れていくのを感じる。緊張ばかりが募って、手汗が増える。けれど逃げるわけにはいかない。私は文献のなかの術式を再確認し、必要な触媒を頭の中でリストアップし始めた。あちらの部屋で保管されている魔石、こっちの倉庫にある薬液、そして安全を確保するための結界媒も…ほんとに準備するものが多すぎて笑える。
「ミオ、今夜はどう動く?」
エランの低い声が耳を打つ。また顔が近い。もう少し距離感ってものを学習してほしい。でも、その余裕のなさそうな瞳を見たら、邪険にはできなかった。
「呪詛を食い止めるなら、今しかないと思う。残り時間はわずか。やるならやる」
強い口調になった自覚はある。だって、皇族の死なんて最悪な絵面すぎるし、それを黙って見過ごす気はさらさらない。仮に誰かの罠だったとしても、罠ごと踏み潰せばいい。
「君に任せる。僕は裏方で動く。…でも、何かあったら、絶対に僕を頼って」
エランの声は珍しく真剣で、僅かに震えているように聞こえた。いつもお高くとまってるくせに、その態度はずるい。なんだか胸がギュッとする。こんな関係、かなり面倒なのに、ちょっとやそっとじゃ振り切れない自分がいる。
午後になり、スペイラについての追加情報が舞い込んだ。夜中に外出しているのは事実らしい。行き先は不明だけど、何らかの手際で門番を丸め込んでる可能性が高い。あの可愛らしい笑顔で言いくるめたのか、それとも別の手段か――いろいろ思い浮かぶが、どれもろくでもなさそう。
苛立ちと不安が渦巻くなか、私は地図帳を開いて離宮周辺の出入り口を確認した。正面の警戒は厳重だから、迂回路があるとしたら花園の奥か、それとも厨房の裏手か…。いや、そこも毎朝掃除当番が通るはず。だったら地下に通じる小トンネルでもあるのかもしれない。
頭がぐるぐるしてきたところで、エランが控えめに声をかけてきた。
「ミオ、少し休憩したら? 顔が怖いよ」
「そういうあなたこそ青ざめてるわ。私に構うより、自分を省みなさい」
つい語気が強くなり、彼は苦笑い。口では強気だけど、私もクタクタだ。リュシア王女の命がかかってるのに、なんだかなあ、と自嘲したくなる。
夕方になったら、あっという間に次の段取り。夜に仕掛ける大規模な魔術の準備を固める段階だ。呪術の残滓には“変化の魔力”が絡んでいるらしい。下手に触れればこっちの魂まで食われるリスクもある。怖い。けど、やるしかない。ビビってたら何も解決しない。
「じゃあ、決めるよ。今夜、護符の力を逆手に取って呪詛を逆探知する。ごちゃごちゃ言う人は放っといて」
残り時間、あとわずか。リュシア王女が限界を迎える前に決断しないと、すべてが手遅れになる。
エランは無言で頷いた。私たちのそばを音もなく通り過ぎるスペイラの足音が妙に薄気味悪い。あの柔和な表情の奥に何が潜んでいるのか、想像しただけで背筋が震える。けれど、もう後戻りできない。
夜が来る。権謀術数だらけの王宮の奥底で、私はわずかな光を探し出そうとしている。ハラハラと鼓動が速くなる。お腹の底から未知への興奮が湧き上がる。成功する保証はない。でも、失敗は許されない。それでも、このスリルは嫌いじゃない。
「よし。行くわよ。どんな罠だろうと踏破してやる」
自分に言い聞かせるように呟いた。エランは横で小さく息を飲む。ああ、この瞬間がたまらない。怖くて、でもやけに胸が熱い。カタルシスを求めるかのように、私は離宮の廊下を踏み出す。扉の向こう側で、スペイラの気配がフッと笑った気がした。さあ、今宵こそ本番。絶対に後悔はしない。すべてを暴いて、そして救い出すのみだ。