深紅の幻影と錬金の迷宮 2
工房の広間に足を踏み入れた瞬間、辺りを満たす不穏な空気が肌を刺した。どことなく漂う金属と薬品のまじりあった匂いは、いつもなら「研究者の楽園」っぽいのに、今はまるでじっとり粘りつく悪意のスープみたい。そんな気味の悪さに、私の背中を伝う汗も嫌な冷たさを帯びている。
「ルビスパークが消えたらしいが、何かご存じない?」
私の隣で、ゼオンがちらりと職人の一人に声をかける。その職人は目を伏せて首を横に振るばかり。妙に硬直した態度に、(あ、こりゃ何か隠してるな)と直感する。なのにゼオンはまるで楽しそうに眉を上げ、「そうか、残念だな」と言ってスルリと関心を引いた糸を解いてしまう。こっちから突っついてやりたいけど、微妙にタイミングが合わない。というか、やっぱりこの人は「本当の核心」をすぐには語ろうとしないタチだ。
工房の天井近くで回っている大きな換気扇も、何だか薄気味悪い唸りを立てている。朱色の錬金器具がずらりと並ぶ中央部には、支柱付きの巨大なガラスタンクがあって、中に満たされた液体が微妙に濁って見えた。さっきから「やばい予感」レーダーがビンビンに反応してますよ。まるで“見ちゃいけないもの”を私たちに見せようとしているかのように、どこに目をやっても奇妙な予兆だらけ。
「ミオ、ゼオン、こっちだ。騎士団が昏倒者を集めてる」
声をかけてきたのはグレゴリー騎士団長。彼の目はもう完全に戦場モード。ついて行ってみると、通路脇の応急処置スペースには数人の職人が横たえられていた。うち数名は、腕や頬に赤黒く浮かんだ紋様を残したまま意識が戻らないらしい。何よコレ、呪いか? しかも紋様はほんの数分で消えるって話だけど、まさか幻惑系の術式が関わってるとか……見事に嫌な予感が当たってるじゃない。
「ひょっとして幻覚にとらわれる直前、赤い光を見たとか言ってません?」
念のため聞いてみると、グレゴリーが首を縦に振る。「そういえば、うわ言のように“赤い火が”だの“燃える瞳が”だの口走っていたな」。もう最悪。工房の警戒体制はすでに最高潮なのに、事件が沈静化する兆しはゼロ。いったい誰がこんなことを仕掛けてるのよ。
廊下の奥からぱたぱた駆け寄ってきたのはフィリス。どうやら彼女もいろんな貴族から根掘り葉掘り聞かれてうんざりしてる様子で、軽く息を切らしている。「お互い、よくもまあ厄介ごとに愛されるものね」と半ばヤケクソ気味に言うと、フィリスは唇を引き結んでうなずいた。困り顔には見えるけど、前よりは随分と底力がついてきたなぁと思う。たまたまこんな状況に巻き込まれてるだけ、かもしれないけど。
一方、肝心のエランはというと、表向きは「警護の確認」であちこち回っているらしい。それはいいけど、先ほどちらっと彼と目が合ったとき、ものすごい不機嫌そうなオーラを放っていた気がする。何が気に食わないのか知らないけど、どうも最近ゼオンと私の会話時間が長いのが嫌みたい。そういうところ、ほんと子どもだなあと思うけど……あれはあれで可愛いのかも。いや、ないか。いや、少しはあるかもしれない。
そんなことを考えてるうちに、突然、地下倉庫の方から高い悲鳴が上がった。みんな一斉に身構える。短い沈黙の後、突風のような冷たい空気が廊下を駆け抜け、かすかだが鋭い金属音がきしむ。私は目で合図し、ゼオンやグレゴリーと一緒に駆け出した。通路を下った先の鉄扉を勢いよく開けると、そこには背の高い鏡面装置が置かれていて、その表面を血のように真っ赤な光が走っていた。
「何これ……まさかこの鏡、発振器にでもなってるの?」
思わず声が上ずる。ゼオンが装置の周囲をぐるりと回り、指先で微弱な魔力測定具を掲げる。「反応は薄いが、やはり何らかの術式が込められているみたいだね」。薄い? 全然薄く見えないんだけど。むしろ嫌に濃い悪意の渦を感じるんですが。
鏡面からは煙のようなものが立ち上り、床に黒い影の斑点が浮かんでいる。奥を照らす明かりがどことなく揺らめいて、視界全体がぼんやりと歪む。気を抜いたらすぐにでも意識が飛びそうな感じ。まるで誰かに見えない糸で操られてるみたいだ。
「ルビスパークの失踪、それに職人たちの怪我、みんなここに繋がってるんでしょうね。あとは黒い影の正体次第か」
ゼオンが言いかけたとき、どこからともなく空気を裂くようなかすれ声が聞こえた。瞬間的にゾクリとする。周囲を見回しても誰もいないのに、この存在感。スペイラか、その手下か? こっちを監視しているのは間違いない。
と、そのとき背後でドカッという大きな音。振り返ると、エランが青い顔をしながら半歩後ずさっていた。足許には転げ落ちた木箱が散乱していて、中からは薬瓶のようなものがいくつも転がり出している。「何やってるの……?」
目を細めると、エランは蝶のように首を傾げて、「いや、こういう道具が目に入ると厄介かと思って片づけようとしたら、ちょっと滑っただけだ」とごまかす。そのわりに耳は赤いし、そもそも落ち着いてない。何かの拍子に嫉妬が爆発してイライラしてるんじゃないの? 勘弁してよ、こんな状況で余計な騒ぎを増やさないでほしい。
しかし、そんな私のツッコミを完全にかき消すように、鏡面装置が低いうめき声をあげた。どうやら“赤い輝き”がさらに増幅されているらしく、鏡越しに見えるはずの背景が歪み始める。もう、展示会まで時間がないっていうのに、どこまでトラブルを引き寄せるのよ。まるでこの工房全体が、悪夢の舞台装置と化しているみたいだ。
グレゴリーが騎士団に向かって「封鎖範囲を広げろ!」と命じる。一瞬して警笛が鳴り響き、階上で貴族たちのざわめきが伝わってくる。今やこの事態は明らかに“何者かの陰謀”でしかなく、いよいよ後戻りできない局面に踏み込んだ感がある。
「あーもう、私の平穏はいつ来るのかな」
ぼやきながらも、諦めの境地。逃げたくても、やるしかない。ゼオンが鏡の表面に触れようとするのを制止し、私がその周囲を調べる。うっすら刻まれた古い文字に、どこか見覚えがある。思い出せ、前世の知識でもいい、ヒントは必ずあるはず。何としてでもこいつの仕組みを解明しなきゃ……。
頭の奥にチリチリと警戒の火花が走る。耳鳴りが強くなってきた。このままじゃ展示会どころか、ここにいる全員が“赤い血の宴”に巻き込まれちゃうかもしれない。――いいわよ、やれるものならやってみなさい。私だって、そう簡単にやられるわけにはいかないんだから。
横目でエランを見ると、彼も鋭い眼差しを鏡に固定している。嫉妬心だか何だか知らないけど、今は共闘のときでしょ。ゼオンが小さく肩をすくめて微笑む。「さて、面白くなってきたね、ミオ」とでも言わんばかり。その勝手な余裕がちょっとしゃくにさわるけど、心強くもある。
この異変はまだ序章にすぎない、そんな不安が胸をかき乱す。でも、ここから先へ進まなきゃ、到底真相には届かない。ふと、鏡面装置の奥に何かが見える。黒い衣をまとう影。それが私の方へ向けて手を振りかざした――。さあ、幕は上がった。次に倒れるのは誰なのか、困ったことに私たちには猶予などなさそうだ。
後戻りは不可能。ならば、徹底的にその裏を暴いてやるしかない。“ルビスパーク”を奪った犯人が誰なのか、真っ赤な幻惑が何をもたらすのか、ぜんぶ白日の下に晒してやる。そして、もしこの騒動の先に私の自由を大きく阻むものがあるのなら――遠慮なく叩き壊してやるまで。ここからが本番なんだから。