宵闇に揺れる幻惑と囚われの真実 5
フィリスが部屋に運ばれた後、騎士たちの間には居心地の悪い沈黙が漂っていた。彼女は命をとりとめたものの、依然として幻惑に蝕まれた状態が続いているらしい。断続的に目覚めては、そのたび何かに怯えるように声を上げるとか。囁き合う騎士たちを横目で見ながら、私はゼオンと顔を見合わせる。ここにいる全員が感じている通り、あの地下施設での決着なんて遠い夢物語に過ぎなかったのだ。
「絶望しちゃダメよ。とりあえず手はあるんだから」
問いかけるようにゼオンへ視線をやってみると、彼は苦い顔でうなずいた。
「一応、呪符の分析を進めてる。けど、昔の文献が不完全でね。スペイラが持ち出した資料のほうが核心部分に近いかもしれない」
「要するに、その資料を取り戻さないとフィリスを救う術式の詳細も分からないってことかしら。めんどくさいわね」
そう応じる私に、ゼオンは小さく肩をすくめて同意する。要は敵を叩きのめすしかないわけだが、スペイラはまんまと逃亡し、居場所もろくにつかめない。まるで何重にも張り巡らされた幻術の煙幕に巻かれている気分だ。泣き言を漏らしても仕方ないから、次なる突破口を探さなきゃいけない。
そんな中、エランの姿が見当たらなくなっているのに気づいた。さっきまで無遠慮に私のそばで拗ねてみせていたのに、どこへ行ったのかと思ったら、向こうでグレゴリー団長に何やら情報を聞き出している。話の合間にちらっとこっちに目を向けてきたかと思ったら、また顔を背けてしまった。
あれは拗ねているのか、それとも焦っているのか。もしかして両方かもしれない。…可愛いじゃないの。
「団長、何か新証拠でも?」
エランが問いかけると、グレゴリーは相変わらずの切れ長の目をさらに細めて答えた。
「王宮の倉庫から不審な荷箱がいくつも搬入出されていた形跡がある。スペイラの手下が紛れ込んでいるのではと疑っているが、まだ詳しいことは分からん。とにかく王国内部で協力者がいることは確実だ」
「協力者、ねえ…」
私は近づいて肩越しに報告書をのぞく。たしかに流れた物資に妙な偏りがある。薬草や水晶、血液保存用らしき器具…やっぱり薄気味悪い単語ばかりで思わずため息が出た。“命の延長”を狙う連中なら、こんな品々をかき集めていてもおかしくない。
エランは報告書を閉じると、憂いを帯びたまつげを伏せた。
「僕が皇帝へ届け出る前に、できれば君たちがもう少し踏み込んでくれないか。あまり大勢が動くとスペイラに気づかれて身を潜められるかもしれない。重要な瞬間まで泳がせたいんだ」
「へえ、ずいぶん自信満々じゃない。まあいいわ、私もそのほうがやりやすいし」
遠回しに“あまり色んな人と組むな”と言っているように聞こえてしまうのは、私の勘違いじゃないだろう。ああ、こっちをちらちら見ながら遠回しに束縛しようとするなんて、ほんと面倒——いや、楽しい。
同じ頃、フィリスの部屋から弱々しい声が聞こえてきた。駆け寄ったメイドの一人が青ざめた表情でこちらを見る。
「また、幻のようなものに怯えている様子です。今度は言葉にならない悲鳴ばかりで…」
「やっぱり後遺症が進行してるのかしら…」
吐き出すように呟いた瞬間、胸の奥に冷たい鋭さが広がる。呪術は解体したはずでも、残留思念のようなものがフィリスをむしばんでいるのだろう。もし罠が仕掛けられているなら、発動のタイミングを狙っている可能性だってある。どんどん彼女が限界に追い込まれていく姿を見ていると、内腑がかきむしられる気がした。
「少なくともフィリスに対するケアは最優先だ。ゼオン、何か打つ手は?」
質問すると、彼はこめかみを押さえて考え込む。
「一時的な精神安定の薬ならある。それで症状を軽減できるかもしれないが、根本的には呪術そのものを解除しないといけない。つまりスペイラの術式を無力化する方法を探すしかない」
「最終的にはまた地下の施設…いや、もっと別の場所にも手がかりがあるかもしれないけど」
正直、気が滅入る。前回の死線を思い出すと、あの生臭くて陰気な空間にもう一度入るなんて考えただけで吐き気がする。でも、ここで投げ出したらフィリスは二度とまともに眠れなくなるかもしれない。私は唇を噛みしめる。
そんな私たちを見ていたエランが、突然一歩進み出てきた。
「じゃあ、次の手分けを決めよう。大がかりに動く前に、小規模で確実な捜索をしたい。僕は外で裏ルートの情報を洗う。ミオは…やっぱりゼオンに付き添って、術式の痕跡を洗い直すのがいいだろう?」
「意外とリーダーシップ取るのね。拗ねてるかと思ったら、意外に真面目」
皮肉めいた口調で返すと、エランは顔をしかめる。まったく、ほんの少し褒めてやったらこの調子だ。可愛いが厄介だ。
団長もまた、すかさず意見を挟んだ。
「私の部下は王宮の警備を固める。フィリスの部屋に守りを厚く敷きたいところだが、敵もそれくらい読んでくるだろう。腕のいい騎士数名を送り、他の者は施設や廊下の張り込みに集中させる」
おそらくこれが最善案だろう。スペイラが王宮内にまだ紛れ込んでいるなら、どこに落とし穴を仕掛けているか分かったものじゃない。思考だけは常に先回りしておかなくちゃ。
そうして手分けの方向性が定まると、私たちは連絡を取り合いながらそれぞれ動き出す。私とゼオンは、先ほど手に入れた呪符の断片と水晶片に再度挑むことになった。しぶとい幻惑の正体を知るためにも、やれることは全部試すしかない。
「回数重ねると慣れてくるわね。毎回ドキドキするけど」
書庫で薬草だらけの机に向かいながらぼやくと、ゼオンは苦笑いしつつ背伸びをした。
「実験台にされてる気分だけどね、僕も。まさかこんな形で古代魔術に深入りするなんて思わなかったし」
「何よ、お互い保守的だったわりに今は夢中で突っ込んでる。相性いいんじゃない?」
「そういう意味では、まあ…嫌いじゃないけど」
言いかけて口をつぐむゼオン。私の少し煽るような冗談に反応しきれないらしい。この人も意外に可愛いところあるんだから。
どこからともなく薫る薬品と焦げ臭い墨の匂い。私はその刺激を鼻先に感じながら、手元の紙片を改めて眺める。前回はわずかに残った文字列を一生懸命解読したが、この破損具合では完全な理屈がつかめない。でも、ほんの少しの綻びを見つければ、きっとそこが突破口になるはずだ。
「焦っちゃだめ。だけど時間がないのも事実。難癖つけてくる敵のほうは、こっちの精神的な隙を狙うだろうし。スペイラも王族の血を使った研究を進める気まんまんだろうし」
「そりゃあそうだろうね。命の延長を研究するなんて正気じゃないし、焦りも相当あるはずだ」
となれば、次に手を打ってくるのはいつか。こんな調査をのんびりさせてくれる相手じゃなさそうだから、どこかで大きな衝突があるのは明らかだ。
「なら上等じゃない。こっちも腹くくってるしね」
資料を机に広げたまま、私はまぶたを閉じる。尻込みする暇なんてない。フィリスの命も、王宮に渦巻く闇も、このまま放っておけるはずがない。エランがどう嫉妬しようと、私は私のやり方で進むだけだ。
「結界を破る鍵をあなたが見つけてくれれば、私が何でもぶった斬ってやるわ。あと三時間くらい経ったらもう一回検証ね。あなたが眠くてうとうとしたら、遠慮なく叩き起こすから」
「いやいや、それは勘弁してよ。自分でちゃんと起きてるから」
ゼオンが冗談交じりに手を上げて降参のポーズを見せる。当たり前だ。こちらはもはや切迫した状況だもの。夜明けまでには何かしら進展させないと、私は心臓が持たない。
外は冷え込んできたが、不思議なくらい心の奥は熱く燃え続けている。スペイラの狙いも、フィリスへの苦しみも、全部まとめてここで断ち切ってやりたい。あの底知れぬ闇に囚われるのはもうたくさんだ。決戦は近い。そう胸が騒ぐのを抑えきれない。
その時、書庫の扉がバタバタと乱暴に開いた。思わず身構えると、そこには慌てふためいた若い騎士が息を切らせて立っていた。
「たった今、フィリス様が再び激しい幻に囚われ…! 送り込んだ鎮静薬も効かず、錯乱状態です!」
やはり時間がない。ゼオンと顔を見合わせ、私たちは立ち上がった。薄暗い灯の下に並ぶ資料を巻き取って抱え込み、すぐさま飛び出す。こんな展開、想定内だけれど容赦なさすぎる。
「大丈夫、今度は私たちがフィリスを支える番だ。絶対に諦めない」
自分に言い聞かせるように呟いて、走り出す。王宮の廊下を駆け抜ける足音が耳を打ち、心拍はさらに上がっていく。闇がうごめいているのが分かる。スペイラの作り出す幻術と呪詛、その本体を炙り出すために、もう一段進まなければならない。
焦燥と興奮の入り混じる痛み。けれど、それも悪くない。恐怖に震えながらも、救いに向かうほうが性に合っている。私は胸の奥で踊る熱量を感じながら、今にも消えてしまいそうな光を守るように、王宮の深い闇へと突き進む。ここで立ち止まっていては、きっと何も変わらない。
また一手、踏み込むんだ。苦しみに打ち克つために。そして、フィリスを再び笑わせるために。