闇に蝕まれし王宮での秘術 1
「こんな庭園、童話の悪役が出てきそうね」
曇った空を一瞥して、ミオ・フィオーレは鼻先でため息をついた。せっかく自由の身になったというのに、王宮の空気は重々しい。
いま王宮は、急病に倒れたリュシア王女の話題で持ちきりだ。医師たちが総出で治療にあたっているけれど、いまのところ効果はさっぱり。呪詛かと噂する者もいる。不吉な囁きが、やたら耳に残る。
「で、君はどう動くんだ?」
エランが低い声で問いかける。私が何か役に立つかもしれないと見込んでいるらしい。人の力を試すような目つきは相変わらずだ。でも、彼の誘いに乗るのは私の自由。何も強制されているわけじゃない。もともと、見えない力や呪術を調べるのは嫌いじゃないし、どうせ誰も解けないなら私がやってみるしかない。論理と好奇心がうずくのだ。
「まずは王女の様子を見なくちゃね。現場を知らないと不明点ばかりでしょ?」
そう返すと、エランは面白がるように鼻で笑った。なんとなく、幼児が駄々をこねるときみたいな拗ねた仕草をする。どうしてそこまで私が気になるんだろう。でも、突っ込むのも面倒なので黙っておいた。
離宮に到着すると、思っていた以上に重苦しい雰囲気が漂っていた。王女が倒れた部屋の前には衛兵が立ち、女官たちがひそひそと何かを話している。目が合うと、彼女らはさっと視線をそらした。嫌な胸騒ぎがする。あちこちに過剰な警戒心が張り巡らされているようだ。
部屋へ通されると、そこにはリュシア王女の看護をしているスペイラ・ベルローズが立っていた。飴細工のような優美な笑みを浮かべ、私とエランに深々と礼をする。その仕草はあまりに穏やかで、逆に警戒したくなるほどだ。
「お疲れではないですか? こんな時にわざわざおいでいただいて、恐縮です」
スペイラは声まで柔らかい。ふわふわした猫みたいな雰囲気で近づいてくる。その手の中には、何やら湿った布。おそらく王女の体を拭いていたのだろう。ふと、その布が淡い紫色を帯びているのが気になった。
「王女様の容体は?」
私が問うと、スペイラは小さく首を振った。
「よくはありません。高熱が続いていて、普通の解呪で下がらないんです。今朝から言葉も発さなくなりました」
その言葉に、一瞬、背筋が凍る。まさか、完全に意識を手放してしまったのか。息づく皮膚だけがかろうじて生きている証、なんてことになっていないのだろうか。
ベッドに近づき、私はリュシア王女の顔をそっと覗き込む。痛々しいくらい頬がこけていた。いままでになかった種類の魔力の乱れを感じる。普通の毒や病なら、簡単に発見できる手立てがあるのに、ここまでわからないなんて。これはかなり厄介そうだ。
「なるほどね」
そう短く呟いてから、私は持参した道具袋をテーブルに広げる。薬草の束、古代魔術の文献の切れ端が何枚か、それから独自に調合した香油。王女の体に直接塗るにはリスクが高そうだが、香りや揮発成分からわかることもあるはず。
「手伝うよ」
エランがさりげなく右手に青白い光を宿らせる。彼と目が合うと、まるで「僕を当てにしてもいいよ」と言わんばかりの笑み。それにしても美貌がすぎる。どんな朝飯を食べればこんな顔になるんだろうと思うくらい。けれど、肝心の中身はゴネたり、ちょっと嫉妬したりで忙しない。本人はまったく自覚がないのかもしれないけれど…。
王女の毛先の一房を切り、一瞬だけ魔力を込める。ほんの少し焦げたような臭いが漂った。普通なら何色かの反応を見せるはずが、今回は無色透明に溶けるばかりで、妙な違和感が拭えない。解呪の典礼とはまるで違う軸で、王女の身体が蝕まれている気がする。
スペイラは神妙な面持ちで私たちを見つめている。何を考えているのだろうか。彼女の気配に意識を向けると、先刻からずっと途切れない落ち着きが妙に目につく。これほどの異常事態で取り乱さないのは立派…と素直に褒めるべきか? それとも人間離れしていて胡散臭いと考えるべきか?
「スペイラさん、そちらでずっと看病を?」
エランが作り笑いで問いかける。彼にしては珍しい穏当な口調だ。きっと内心では観察モード全開だろうに、外面だけは礼儀正しい。相手の心理を探るのが、まるで生きがいみたいな人だ。
「ええ、少しでも楽になっていただきたくて…。リュシア様がここまで衰弱されるなんて、私も初めての経験で…」
声はどこまでも悲しみに染まっているのに、その瞳は深い湖のように揺らがない。私はそのギャップに困惑する。ここにいる誰一人として手がかりを持たないらしい。いや、持たないフリをしている可能性を捨てきれない。
私は王女に焦点を戻す。今しがた感じ取った魔力の乱れ、あれはどこを起点に生じているのか。病原体や毒物の痕跡ではなさそうだ。もっと根底に、深く絡まった呪いの糸が通っている感じがする。
「もし本当に呪詛なら、明確な術式の痕跡が見つかるはずよ。隠蔽されているか、何か工夫されているのかも」
呟いた瞬間、エランが目配せしてくる。彼も何か掴んだのだろうか。
呪詛を解くには、こちらも古代魔術に手を出すしかないかもしれない。でも、その方法がどれほど危険か、私はよく知っている。失敗したら王女どころか、私たち含め周囲を巻き込む大惨事になりかねない。とはいえ手がかりもないまま放置すれば、いずれ王女は命を落とすだろう。どちらにせよ、時間がない。
「仕方ないわね。もし私のやり方で何かあっても、あなたが責任取ってよ?」
私がちらりとエランを見つめると、彼は少しだけ口角を上げ、即答した。
「もちろん。僕は君を信じているから」
――その言葉が妙に胸を熱くするなんて、どうかしてる。割と無責任な香りもするのに、こんな時だけは頼もしく聞こえる。私だって、王女を見捨てるほど冷たい人間じゃないし、好奇心だって満ち溢れている。どうせやるなら全力を尽くすまでだ。
黒ずむ薔薇が笑っているかのようだった庭先に戻ると、どこから吹いたのか冷たい風が頬を撫でた。沈む夕日が深紅の色を空に滲ませ、まるで血が広がるみたいに不気味だ。スペイラの後ろ姿も、どこか影を引きずるように踊っている。
明日はきっと、もっと荒れるだろう。呪いを暴き出すために、私は危険な術式を組み上げなければならない。覚悟を決めたはいいけれど、まさか自分がここまで王家の政治劇に踏み込むことになるとは思いもしなかった。ああ、本当に面倒くさい。だけど息が上がるほどの刺激があるのは悪くない。
「ミオ、明日の準備は?」
エランが急に私の顔を覗き込んでくる。気づけば距離が近い。思わず後ずさりながら、
「いきなり顔出されるとびっくりするんだけど。ええ、やるわよ。やらなきゃ始まらないし」
そう吐き捨てるように答えると、彼は満足げにうなずく。どこか拗ねるかと思いきや、意外にも素直だ。
やがて夕日は沈む。明けない夜はない、と誰かが言っていたけれど、このまま深い闇に飲み込まれてしまうかもしれない。心臓が高鳴り、手が震える。このハラハラ感がたまらない。まるで巨獣のような未知の呪いを相手に、私たちはまだ準備段階。けれど、こういう極限状態でこそ得られるカタルシスもある。
リュシア王女を救い出すこと。その正体不明の病を解き明かすこと。その裏に渦巻く陰謀を突き止めること。その全部が絡み合って、まだ誰も予測できない未来へと転がっていく。そのスリルに、私は少しだけ胸を弾ませる。
「じゃあ、行こっか。さっさと準備して、どーんとやっつけてやればいいのよ」
足元の枯葉をちょいと蹴散らし、私はエランを振り返る。すでに夜の帳が下り始め、王宮の灯火が不気味に揺れていた。黒い薔薇ばかりが妖しく光っている気がする。まるで何かの警告みたいに。
明日の夜には、大きな賭けに出る予定。成功すれば光。失敗すれば奈落。そんな薄氷の上を歩きながら、それでも私は足を止めない。ここで止まったら、ただの臆病者だし、誰も救えない。
さあ、勝負はすぐそこだ。どんな絶望が襲ってきても、乗り越えるくらいの度胸はある。私は自分の中の闇と好奇心を総動員して、王女に迫る呪いの正体を暴いてみせるつもりだ。相手がどれほど底なしの闇でも、こちらにはこの手足と、ちょっとばかりの頭脳があるから。
闇に沈む庭園をあとにしながら、最後にちらりと背後を振り返る。スペイラの柔和な視線がこちらを見ていた。真夜中の月のように冷えた瞳。あれもまた、本当の姿なのか、それとも偽りの仮面なのか。どこかで笑っている黒い薔薇の影が、その答えを知っているのだろう。
「まあ、いいわ。楽しませてちょうだい」
毒吐き半分でそう呟くと、エランがまるで子どもみたいに目をまんまるにしていた。彼の手を払いのけ、私は自分の部屋に向かう。さあ、準備開始。ここから先は一歩でも気を抜けない。今夜はきっと、眠れない夜になりそうだ。