まさか、私に婚約破棄を突き付けた王子とよりを戻さないといけないんですか?
ヤニック様くらい嫌な人は滅多にいるものじゃない。
王宮の廊下を歩きながら、私は元婚約者の王子のことを考えていた。少し前に届いた手紙を思い出す。その内容を要約すればこうなるだろう。
「喜べ! 俺の婚約者に戻ることを許可してやろう!」
冗談じゃない。誰があんたとなんか。
私は数カ月前の出来事を思い出して眉をひそめた。ヤニック様が作成した文書のミスを指摘した時のことだ。
――偉そうに指図するな、出しゃばり女! お前の顔なんか二度と見たくない! さっさと王宮から出て行け!
だから私はその通りにしてやったんだ。
後日、ヤニック様から婚約解消を告げる書簡が届いた。
けれど、別に驚きはしなかった。遅かれ早かれこうなると思っていたから。
ヤニック様にとって、私はどうも気に入らない存在らしいのだ。いや、私だけじゃない。高慢なあの王子は、少しでも自分の自尊心を傷付ける人を許さなかった。
それでも手紙をもらって王宮へ来たのは、どうせなら一度くらいは直接文句を言ってやるのも悪くないと考えたからだ。
「今さら虫がよすぎるのよ! この厚顔無恥の大間抜けが!」
これから発する予定のセリフを呟く。プライドの高いヤニック様のことだ。こんな言葉を聞いたら激怒するに違いない。
でも、構うもんか。彼の婚約者になってからもう十年以上になるけど、その間、私が彼の傍にいて罵られない日はなかったんだから。
これはちょっとした仕返しだ。お父様から「この件は一任する」と言われているし、私だって大人しいばかりじゃないということを思い知らせてやらないと!
決意も新たに指示された部屋に赴く。すでに役者は揃っているようで、ソファーには何人かの大臣と、彼らに挟まれる形でちょこんと座るヤニック様がいた。
ふと違和感を覚える。何だか今日のヤニック様は柔らかな雰囲気をしているように感じられたんだ。
でも、気のせいだろう。自信過剰で傲岸不遜なヤニック様は、いつだってまとうオーラも威圧的なんだもの。
私がそうじゃないヤニック様を見たことがあるのは、たった一度だけだ。
「ようこそおいでくださいました、レティシア殿!」
「少し見ない間にますます美しくなられて……」
入室するなり、大臣たちは揉み手をしながらすり寄ってきた。私は彼らを無視して、ヤニック様に視線を遣る。
すると、ヤニック様は少し赤面してうつむき気味になった。
「お久しぶりです、レティシアさん」
緊張しているような声。まさかの反応に毒気を抜かれた私は皮肉を込めることも忘れて、素直に「ご無沙汰しております」と返した。
ヤニック様は顔を輝かせる。
「僕、嬉しいです。レティシアさんと婚約を結べるなんて……」
戸惑っていた私は、すぐさま冷静さを取り戻した。
やっぱりヤニック様はヤニック様だ。最後に会った時から全然変わっていない。そんな風にしおらしく振る舞えば、私を騙せると思っているの? バカみたい。どんなことをしたって、その傲慢な本性は隠せないのに。
私はソファーにどっかり腰を下ろした。
「私、まだ一言も婚約を結んでもいいなんて言ってませんけど」
この発言に動揺したのは大臣たちだった。顔色を変えながら私の足元に跪く。
「レティシア殿! お考え直しください!」
「どうかお慈悲を! 殿下も反省しているのです!」
そう言われてヤニック様に目線を向けたけれど、彼は盛夏のセミみたいにやかましい声を上げる大臣たちに困り果てているところだった。
これじゃあ、彼の真意を探ることなんかできそうもない。こうなっては仕方ないと、私は大臣たちを追い出し、ヤニック様と二人きりにしてもらった。
「大臣たちが『反省』とか言ってましたけど、本当ですか?」
期待もせずに聞く。ヤニック様は「ええと……」と言い淀んだ。
ほら、思った通りだ。ヤニック様は自分が悪いなんて少しも感じていない。「反省」なんて大嘘だ。
それなのに「もう一度婚約しよう」なんて言い出した理由についても、大体想像が付く。
自慢じゃないけど、私の実家はこの国でも有数の裕福な名門貴族家だ。国にも度々寄付をしてきたし、他の貴族家と王家との間でトラブルがあれば、調停役を担うのも常だった。
けれど、あの婚約破棄の一件でヤニック様に腹を立てたお父様は、そういったことを一切止めてしまったんだ。
さっきの大臣たちの取り乱し方を見ても分かる通り、きっと宮廷の人たちは困ったに違いない。そして、全ての元凶であるヤニック様を何とか説得して、私ともう一度婚約を結ぶことに同意させたんだろう。
でも、傲慢なヤニック様はそのことに不満があるに違いなかった。
「ヤニック様、正直に答えてください。本当は嫌なんでしょう? 嫌いな相手とまた婚約しないといけないなんて」
「嫌いじゃないです!」
気まずそうにモジモジしていたヤニック様が首を大きく横に振った。
「こんな素晴らしいことってないと思ってます! だって僕、ずっとレティシアさんに憧れてたんですから! でも……」
ヤニック様はためらいがちに私を見た。
「レティシアさんは嫌ですよね。すみません、ひどいことして……。だけど、僕は変わりました。今度は絶対にあなたを傷付けません! だから……僕の婚約者になってくれると、とてもありがたいんですが……」
そんなの無理です!
と言おうとした。けれど、言葉が出て来ない。
だってヤニック様、上目遣いの潤んだ瞳でこっちを見てくるから。少し可愛いし、何よりその泣き出しそうな表情を見ていると、彼をいじめているみたいで申し訳なく感じてしまう。
……ダメよ。しっかりしなさい、レティシア! これもヤニック様の作戦に決まってるんだから! その謙虚さの裏には、今まで散々見てきた真っ黒な一面が隠れてるのよ!
でも、そう理解しているのにどうしても強くは出られなかった。
「……分かりました」
私は苦渋の決断を下す。こんな形で敗北宣言を出すなんて、悔しくてたまらない。
「この婚約について……お返事は『保留』ということにいたします」
自分のふがいなさと性悪王子を呪いながら、私は喉の奥から搾り出すようにそう告げた。
****
それからの私は王宮に通い詰める日々を送るようになった。ヤニック様の強い希望があったから……かつ、私の中にある甘さを叩き出すためだ。
王宮でヤニック様と過ごしていれば、いつかは彼の化けの皮が完全に剥がれるところに立ち会えるだろう。そうしたら、今度こそ何のためらいもなく「婚約なんかできません」と言えるはずだ。
そのはずだったんだけど……。
「見てください、レティシアさん! 鳥さんがいますよ!」
ヤニック様が城の庭園を駆け回っている。
「緑が眩しいですね! 今日は晴れていてよかったです! お日様ってどうしてこんなに綺麗なんでしょう!」
無邪気というか天真爛漫というか……。まるでオモチャを買ってもらった子犬だ。
「レティシアさん! アリさんが行列を作っています! 一緒に眺めましょう!」
「え、ええ……」
そんなもの、どこが面白いんだろうと思いつつも、私はそっとヤニック様の隣にかがみ込む。
とは言っても、アリの行列なんか興味がなかったので、横目でヤニック様を観察することにした。
演技をしているせいで、まるっきり違う性格になっていたヤニック様だけど、見た目はいつもと変わらない。
華やかで艶のあるストロベリーブロンドの髪。柔らかそうな肌。筋の通った鼻梁。少し長い前髪を留めているお気に入りのヘアピンまで普段と同じだった。
あえて違うところを挙げるとするならば……瞳だろうか。吊り目がちで奥二重なのはそのままだけど、彼の琥珀色の瞳は最後に会った時よりもずっと澄んでいるように思えた。
私はその純な輝きに引き込まれずにはいられない。
「あっ、ネコさんだ!」
突然の大声に物思いが途切れる。ヤニック様の視線の先には、茂みの影で寝そべる大きな黒ネコがいた。
「ネコさーん。こっちですよー。おやつあげますよー」
ヤニック様はそろそろと黒ネコに近づいていく。まさかの行動にぎょっとして、私は「待って!」と叫んだ。
だけど、遅かった。「シャー!」と唸りながら黒ネコは全身の毛を逆立てる。そして、ヤニック様に飛びかかった。
「ひゃあ!」
ヤニック様は情けない声を上げて尻もちをついた。無抵抗の彼をネコはなおも攻撃し続ける。私は慌ててネコをヤニック様から引き剥がそうとした。
「フシャー!」
すると、黒ネコは今度は私に爪を立ててきた。ヤニック様が顔を引きつらせながら「ダメです!」と絶叫する。
「その人を離しなさい! 僕のレティシアさんにひどいことしたら許しませんよ! この、このっ……!」
ヤニック様は苦労して黒ネコを私から引っぺがし、遠くに放り投げた。ネコは華麗に着地を決め、最後に軽く威嚇の声を上げると、尻尾をピンと立てながらどこかへと行ってしまう。
ようやく危機が去って安堵した私たちは、ほとんど同時に地面に座り込んだ。
「……何考えてるんですか、あのネコに触ろうとするなんて」
肩で息をしながら、私はヤニック様を責める。ヤニック様は「あんな凶暴な生き物が庭にいるなんて……」とショックを受けていた。
「確かにあのネコは気性が荒いです。でも、ちょっかいをかけない限りは大人しいから、放置しているんですよ。こんなの、皆が知ってることじゃないですか。まさか忘れてたんですか?」
「す、すみません……」
ヤニック様は平謝りだ。言い訳すらしようとしないし、本当にしょんぼりしているようだった。少し可愛そうになってくる。
「だけど、私を助けてくれたのは嬉しかったですよ」
はっきり言って、あの行動はかなり意外だった。いつものヤニック様なら、私を盾にして真っ先に逃げるくらいはするだろうから。
それでも、打算があったのかもしれないと思うと正直に褒めるのは癪で、「『僕のレティシアさん』って言葉もいただけましたしね」と嫌味っぽい一言も付け足しておいた。
しかし、ヤニック様は裏の意味には気付かなかったようで、はにかみを浮かべる。
「お礼を言われるほどのことでは……。好きな人を守るのは当然です。でも、あんまりお役に立てなかったみたいですね。ドレスもそんなになってしまって……」
私の服はネコに引っかかれたせいでところどころ破け、惨めな有様になっていた。早く帰って着替える方がいいだろうと思いながら肩を竦める。
「気にしないでください。大した怪我はなかっただけよしとしましょう」
「だけど……あっ、そうだ」
ヤニック様は何かを思い付いたらしく、近くに生える花を摘み始めた。
「ちょっと失礼しますね」
ヤニック様は茎の部分をドレスの破れたところに巻き付けていく。それから花の向きを調整して、布の裂け目を覆い隠した。私は息を呑む。
「よし、できた」
しばらくして、ヤニック様は満足そうに呟いた。
破れ目を花で誤魔化したことによって、ドレスはところどころ生花で飾られたようになっている。まるで、初めからそういうデザインだったみたいだ。
「これで少しはマシになったと思います。……どうでしょう?」
顔を上げたヤニック様が尋ねてくる。でも、私は答えられない。
卑怯だ。
これはズルすぎる。
こんなことをされたら、私はまた彼を好きになってしまう。
まるで、十年以上も前のあの日のように。
****
帰宅した私は服も替えずにベッドに仰向けに寝転がる。少し首を傾けて、ドレスに飾られた花を見つめた。
私はヤニック様が大嫌いだ。横柄でワガママで自己中心的。良いところよりも悪いところの方が多いような人だから。
でも、心のどこかには彼と離れがたく思う気持ちが存在していた。それは、幼い日に起きたある出来事のせいだった。
その夜は王宮で盛大な催し物が開かれていた。私とヤニック様の婚約を記念した舞踏会だ。
だけど、私はどうしてもそのパーティーを楽しむ気にはなれなかった。だって、当時からヤニック様はものすごく嫌な人だと知っていたから。
いつも威張り散らして人をバカにしたような態度を取る最低な王子。周囲も彼には手を焼いていると評判だった。そんな人が将来の夫となることに、幼心にも不安を感じていたんだ。
だから、実際にヤニック様が目の前に現われた時は驚いた。
――僕と踊ってください。
そう言って、ヤニック様は一人前の紳士みたいに深々とお辞儀した。丁寧に扱われたのが嬉しくて、私はその申し出を受けることにする。幼い私たちはフロアの中心に進み出た。
――ダンス、上手なんですね。
――ありがとうございます。もしかしたらレティシアさんと踊れるかもしれない、って思って、一生懸命練習したんです。
照れ笑いをするヤニック様はとても愛らしくて、それまで感じていた彼への嫌悪感がどんどん薄くなっていくのが分かった。
その後も二人は楽しくお喋りし、ついには皆の目を盗んで庭に出て遊び始めた。あちこちに常夜灯はあるけれど、それでも薄暗い庭園を我が物顔で進んでいくヤニック様に私は尊敬を覚えずにはいられない。
――私たち、とっても仲良しな夫婦になれそうですね。
大きな木にもたれながら、私はそう言った。その頃には、舞踏会が始まった時とは打って変わって、すっかりヤニック様に好感を持っていたのだ。
――ねえ、知ってますか? 仲がいい子同士でする遊びのこと。秘密を話し合うんです。
――秘密を? どうしてですか?
――それが特別のしるしだからです! 他の人には知られたくないことを教えてあげるって、とってもすごいじゃないですか!
私ははしゃぎながら答える。
――じゃあ、早速私から。実は今朝、玄関の花瓶を割ってしまったんです。バレないように欠片は捨てちゃいました。……さあ、次はヤニック様の番です! 何か秘密を話してください!
私はまだ誰にも言っていないことを教えてあげたんだ。きっと、ヤニック様もワクワクするような話をしてくれるに違いない。
そう考えながら、胸をときめかせて待った。
ヤニック様は視線を泳がせる。その顔は、何かとてつもない隠し事を持っているように見え、私の期待はいやが上にも高まっていった。
それだけに、ヤニック様の答えには失望せざるを得なかった。
――何も思い付きません。
――ええ! そんな!
私はがっくりしてしまう。
――私は秘密を話したのに、ヤニック様は何も教えてくれないんですか? もしかして、私と仲良くなんかなりたくない……?
――そんなことないですよ!
私があんまりにも落ち込んでいるように見えたのか、ヤニック様が慌てる。
――レティシアさんといられて、僕、とっても楽しいです! もっと仲良くなれたら最高だなとも思っています! でも……。
ヤニック様は言いにくそうにした。そして、「本当にごめんなさい」と謝る。
――秘密、次に会う時には話せるように頑張ってみます。だから、これからも仲良くしてください。
――……もう、しょうがないですね。
ヤニック様の秘密を知ることができなかったのは残念だけど、「次に会う時」なんてすぐだから、この場は勘弁してあげることにする。私は立ち上がった。
――じゃあ、そろそろ戻りましょうか。私たちが抜け出したこと、皆が気付いたら……。
ビリッという音がする。見れば、動いた拍子に背後の木の幹から出ていた小枝にドレスの腰辺りの布が絡まって、破けてしまっていた。
――ど、どうしよう……。
まさかの事態に狼狽えずにはいられない。
――こんなの見られたら、お父様に叱られちゃう……!
――お裁縫道具、ありませんか? 軽く繕うくらいなら僕にもできると思います。
――お裁縫道具? 舞踏会にそんなの持ってきてるわけないじゃないですか。
私たちは困り果てた。そんな時、名案を思い付いたのはヤニック様だった。
――あれ、使えないでしょうか?
ヤニック様が指差したのは、後ろの木に咲いていた花だった。「そんなもの、どうするんですか?」と私は聞く。
すると彼はドレスの破れ目に花を巻き付け、裂けたことを分からないようにしてくれたんだ。
処置が終わり、その出来映えに私は感嘆する。花がついたドレスは、最初よりもずっと素敵に見えた。
ヤニック様のお陰で、会場に戻っても誰にもドレスが破れたことは気付かれなかった。
それどころか「そのお花、可愛らしいですね」と言われたくらいだ。ちょっぴりおかしくて、私とヤニック様は顔を見合わせながらクスクス笑ってばかりいた。
そんな楽しい気分のまま、舞踏会は終わりを迎える。帰る直前、ヤニック様の元へ挨拶に連れて行かれた私は、こっそり彼と目配せし合った。
――今日のこと、ないしょですよ。
――分かってます。
私がドレスの花をいじりながら周りに聞こえないように小声で話しかけると、ヤニック様も小さく返事した。
私たちは秘密を共有する仲になれた。特別のしるしだ。この瞬間、私たちの間には結束が生まれ、同時に私はヤニック様をもっと好きになった。
それは、生まれて初めての恋だった。その相手が未来の夫だということが、私はとても嬉しかった。
けれど、舞い上がっていられたのはそこまでだ。
――は? ないしょの話? 何だそのくだらないものは。
次の日、ヤニック様のところへ遊びに行った私は、真っ先に昨日の舞踏会でのことを話題にした。
けれどヤニック様から返ってきたのは、冷淡極まりない言葉だった。
――俺は王子なんだぞ。つまらないことで話しかけてくるな、このバカ女。
昨日の出来事を忘れられていただけではなくて、罵倒されたことにも私は深く傷付いた。あの舞踏会で見た優しい婚約者は幻だったんだろうかと思ったほどだ。
だけど、一度灯った恋の炎はそう簡単には消えなかった。たとえ連日のように暴言を吐かれたとしても、露骨に嫌な顔をされても、私はヤニック様の傍から離れなかった。
一緒にいれば、またいつかあの日みたいに過ごせるかもしれない。大好きな人と秘密を語り合える時が来るかもしれない。そう思っていたんだ。
しかし、とうとうそんな瞬間は訪れなかった。ヤニック様はずっと嫌な人のままで、挙げ句婚約まで解消されてしまった。
私の初恋はあえなく散ってしまったんだ。そう思うより他になかった。だというのに……。
「どうして今になってヤニック様は優しさを取り戻したの?」
私は苦悩する。
今のヤニック様は、私が好きになった彼そのものだった。本来なら喜ぶべきことなんだろう。
なのに、そう簡単には割り切れない。何かもが遅すぎたと思わずにはいられなかった。
「……やっぱりヤニック様なんか大嫌い」
あの優しさは演技なのか本性なのか? いつもの高慢ちきな彼の方が、もしかすると仮面だったのでは?
悩めば悩むほどヤニック様に弄ばれているように思えてくる。あの人は今頃影で私をあざ笑っているんだろうか。そんなの、とてもじゃないけど我慢できない。
ああ、やっぱり「保留」なんて言うんじゃなかった。きっぱりと「もう一回婚約なんかお断りです!」と断言するべきだった。あんな根性曲がりにこれ以上振り回されるのはごめんだ。
私の初恋はあの舞踏会で生まれ、その日の内に消えてしまった。失われた恋は今さら蘇ったりしない。してたまるもんですか。
私は決心する。明日ヤニック様に会ったら、「あなたの婚約者にはなれません」とはっきり伝えるんだ。そして、彼のことなんか一刻も早く忘れてしまう。心の中にしまっておいても辛いだけの、昔の綺麗な思い出と一緒に。
そのつもりなのに、頭の中では今日庭で起こった出来事を反芻している。指先がドレスについた花を辿るのも止められそうになかった。
****
ヤニック様に別れを告げるべく、私は翌日も城へ向かった。彼はまた庭に出ているようだ。賑やかな声がする方へと足を向ける。花壇の辺りだろうか。
「できたよ、ヤニック様!」
「あたしも!」
そこに広がっていた光景に瞠目した。ヤニック様が庭師の子どもたちと花冠を作って遊んでいたんだ。
普段のヤニック様なら考えられないことだった。「あんな卑しい奴らとこの俺が関わるなどありえない」と言って、近くに寄ろうともしなかったのに。
「ヤニック様、ありがとう!」
自慢の作品を携えて、子どもたちは去っていく。ヤニック様は手を振りながら彼らを見送り、私に気付いて微笑んだ。
「一足遅かったですね。もう少し早く来てくれたら、一緒に花冠を作れたんですが」
「……」
本当にヤニック様は嫌な人だ。
私が婚約を断ろうとした途端に、優しい面を見せて揺さぶりをかけてくるんだから。彼の婚約者には戻らないと誓ったはずなのに、その決意が鈍り始めている。
きっと私は信じたいんだろう。この優しいヤニック様の方が彼の本性なのだと。今まではただ嫌な人のふりをしていただけなのだと。
でも、そんな都合のいい話があるわけがない。信じた瞬間に裏切られるに決まっている。そうしたら私に待っているのは二度目の失恋だ。それだけは絶対に避けたかった。
心を鬼にして、昨日言おうと決めていたセリフを口にする。
「私、あなたとは婚約できません」
ヤニック様がポカンと口を開けた。私は思わず目をそらす。
「驚くようなことですか? 当然でしょう。ヤニック様は意地が悪いんですから。私を嫌っているのに『好き』だなんて言ってみせたり、ずっと前の舞踏会のことは覚えてないくせに、あの日みたいに私のドレスに花をつけたり……。人をなぶり物にして楽しいんですか?」
泣きそうになっていた私は、そのまま踵を返す。けれど、「待って!」とヤニック様に回り込まれてしまった。
「僕はあなたが好きです! 確かに、あの人はレティシアさんのことをよく思っていなかったかもしれないけど、僕はそうじゃない!」
「あの人? 一体何を……」
「それに、舞踏会の日のことだってちゃんと覚えています! レティシアさんは淡いピンクのミニドレスを着ていましたね? それで、ダンスの時に二回僕の足を踏みました。破れたのはドレスの腰の辺りだったはずです」
「え、ええ。そうですけど……」
困惑せずにはいられない。彼の心の中にも、あの日のことがちゃんと残っていたなんて。
ということは、今までは忘れた風を装っていたんだろうか。
「僕たち、ないしょの遊びをしましたよね。お互いの秘密を共有する、っていう。でも、僕はあなたの期待に応えられなかった。その代わりにこう言いました。『次に会う時は秘密を話す』って」
ヤニック様が真っ直ぐこちらを見つめた。その真摯な眼差しに、私は息を凝らす。高慢な彼とも優しい彼とも違う、第三の顔を見た気分だった。
「十年以上もかかってしまったけれど、今その約束を果たします。僕が隠していることをお話ししましょう。……僕は『ヤニック』以外に別の名前を持っています。……いいえ。『持っていました』と言うべきでしょうか」
「どういうことですか?」
「僕が『ヤニック』になったから、その名前は捨てたんですよ」
最初は言われた意味が分からなかった。けれど、すぐに事の重大さに気付いて体を強ばらせる。私は声を喘がせた。
「あなた……誰なの……?」
目の前の青年を凝視する。まさか、そんなことがあるんだろうか。
この人が……私の元婚約者のヤニック王子ではないなんていうことが?
「ヤニック様はどこ? 一体何が……」
「兄上は遠くへ行きました」
青年が静かな声で告げる。
「行き先は僕も知りません。これから先、僕もあなたも彼に会うことはないと思います。……僕はヤニックの双子の弟です。存在を隠匿されていた、あの人の兄弟なんですよ」
「兄弟がいることを隠していた……?」
「父上は大変に迷信深い方なんです。双子は不吉だと思い込んでいらっしゃる。けれど我が子を捨てるのはあまりにも忍びない。そこで、弟の方は兄の代用品……影武者として育てることにしたんです。そんな僕の初めての仕事は、兄上の代わりに舞踏会に出席することでした」
その「舞踏会」がどれのことを差しているのかはすぐに分かった。
私は今、長い間知らずにいた事実を目の当たりにしている。
あの婚約記念舞踏会で私が会ったのは、ヤニック様ではない。彼の弟だったんだ。
「あの日、兄上はひどい風邪を引いて寝込んでいたんです。ですが、せっかくの舞踏会を中止にするわけにはいかない。そこで僕が呼ばれました」
弟王子は表情を和らげる。
「あれは本当に楽しい一時でした。今まで僕は人目につかないように城の奥深くで育てられ、外出も夜中に庭園を歩くくらいしか許されていなかったんです。それがいきなり舞踏会ですよ? 自由ってこういうことなんだって初めて知りました。それから……恋がどんな感情なのかも」
琥珀色の優しい目で見つめられ、ドキリとしてしまう。幼い頃に彼と過ごした時間が、脳裏に蘇ってきた。
「兄上には嫉妬しましたよ。あなたみたいな素敵な人と結婚できるんですから。でも、兄上の風邪が治らない限りは一緒にいられる。そう思って自分を励ましました。だけど……兄上って体が丈夫なんですよ。翌日には熱は下がっていて、その後も病気一つしなかったから、僕が表舞台に出る機会はありませんでした」
少し前までは、と付け足す。
「兄上は普段から勝手な振る舞いばかりして、周りを失望させていたようです。その最たる例が数カ月前の婚約破棄ですね。父上はついに我慢ができなくなりました。そして兄上を秘密裏に処断して、僕をその後釜に据えた。おかしいですよね。代用品が本物になってしまうなんて」
弟王子は笑ったけど、私はそんな気分にはなれない。額を押さえながら大きく息を吐き出した。
「あなたがヤニック様と入れ替わったこと、誰も知らないんですね?」
「はい。一部の関係者を除いて、ですが」
その「関係者」に私も含まれてしまったわけだ。「どうして話してくれたんですか」と尋ねる。
「だって……こんなの、絶対の秘密じゃないですか。それをどうして私なんかに……」
「言ったでしょう? 約束を果たすためです。それに……『ヤニック』のままだと、あなたに好かれる見込みがゼロかもしれないって思ったんです」
弟王子は苦笑いした。
「僕だって兄上が嫌いなんですよ。レティシアさんにひどいことをしたから。僕がずっと好きだった人に……」
「殿下……」
「……レティシアさんはさっき『あなたとは婚約できません』と言いましたよね。でもそれは『ヤニック』に対する言葉だと思いたいです。では、その弟に対しては? レティシアさんとはほとんど面識がないけれど……それでもあなたを何よりも好きな僕には、どんな言葉をかけてくれますか?」
純真で一途な表情。彼の言葉は嘘じゃない。この人は、長い間私に焦がれてきたんだ。
心地よい感情が体中に広がっていく。歓喜、満足、安堵、興奮……。それと平行して、死んだはずの初恋が息を吹き返すのを感じた。
自然と口角が上がり、私は無意識の内に微笑んでいる。
「答える前に、もう一つだけ教えてください。あなたの本当の名前が知りたいんです」
「僕の? でも……」
「嫌なんて言わないでくださいよ? 私は『ヤニック様』ではなく『あなた』にお返事したいんですから」
青年は目を見張った。そして、「それもそうですね」と返す。
「ルフレ。僕の名前はルフレです」
「……ルフレ様」
私が呟くと彼は照れたような笑いを浮かべる。「まさかあなたにそう呼んでもらえる日が来るなんて……」と聞こえてきた。
ただ私が名を口にしただけでこんなに嬉しそうにするルフレ様のことを、愛しく思わずにはいられない。
やっぱり彼は私の初恋の人だ。あの舞踏会の日に恋に落ちた相手。ずっと私の心を捉え続けていた輝かしい希望。
ヤニック様とは似ても似つかない、私の想い人だ。
「私、ルフレ様の秘密をたくさん知ってしまいましたね」
名前を呼んでもらえた余韻浸って、前髪のヘアピンをいじりながら頬を染めているルフレ様を私は微笑ましい気持ちで眺める。
「それなのに私があなたに話したのは、花瓶を割ってしまった思い出だけなんて釣り合いません。だから……他に隠していたこともお話しします。あの日、私もルフレ様に恋をしたんですよ」
私は穏やかに続ける。
「私にとってはルフレ様こそが本物です。代用品はヤニック様の方でしたよ。それも、すごく粗悪な」
「レティシアさん……」
そんなことを言われると思っていなかったのか、ルフレ様は声を震わせていた。私は彼にそっと寄り添う。
「私はずっとルフレ様を想ってきました。だから、ルフレ様となら婚約したいです」
ルフレ様が息を呑む音が聞こえてくる。よっぽど感情が高ぶったのか、次の瞬間には胸元を掴みながら泣いていた。私は彼の肩をそっとさする。
「舞踏会で交わした約束、覚えていますよね? 今日のことはないしょです。私は二人でいる時しかあなたの名前を呼びませんし、ここで聞いた話も漏らしません。あなたが一人で背負ってきた秘密を、これからは二人で共有するんです」
「僕の名前も境遇も、ほんのわずかですが知っている人はいますよ」
ルフレ様は何とか涙を止めようとしながら、「ただ……」と付け加える。
「僕があなたに恋をしているということは、レティシアさんにしか話していませんけど」
「それを言うなら、私の密かな恋心だって、ルフレ様以外は誰も知りませんよ」
相手の顔を覗き込み、お互いに含み笑いを漏らす。
「もう二度と、どこへも行かないでくださいね」
「言われなくてもそのつもりですよ」
十年以上かかったとしても、ルフレ様は誓いを果たしたような人だ。この約束だって、必ず守られるに違いない。
私たちは、もう一度意味ありげな微笑を交わした。
ルフレ様と私はこれから、よりを戻した二人として婚約者生活を送ることになるだろう。
その裏側で人知れずに再び交換された、特別のしるしと共に。
誰にも知られずに息づく、初恋という名の秘め事と共に。