最終章 葉桜と少女の季節
昼休み、宗、尚紀、知亜子の三人は、三年二組の教室前の廊下に陣取り、出入りする生徒――女子生徒――たちの顔を逐一チェックしていった。
「あ、あの人だよ!」
知亜子は、二組教室からひとりの女子生徒が出てくると、宗と尚紀を従えてあとを追った。その生徒が女子トイレに入ろうとすると、知亜子は、
「先輩」
と声をかけた。足を止めて振り返った女子生徒は、見知らぬ下級生の突然の呼び止めに怪訝な顔を見せていたが、
「桜の木のことで話があります」
と小声で伝えられると、表情を一気に不安な色に変えた。
知亜子たちは、女子生徒を人気のない校舎裏へと案内し、彼女も黙ってそれについてきた。
「突然に、すみませんでした、先輩。一年三組の唐橋知亜子です」
「三年二組の、此川典子……」
女子生徒は若干の震え声で名乗った。
「此川先輩」知亜子は、懐から取り出した折りたたんである紙を広げて此川に見せると、「これは、先輩が貼り付けたものですね?」
少し躊躇した様子を見せた此川だったが、観念したのか黙って頷くと、ゆっくりと自白を始めた。
朝礼で教育実習生の北詰が全校生徒に紹介され、担当は化学で、化学教師の木俣の下で各学年の一組と三組の授業に教科指導でつくことが発表されたとき、此川は暗澹たる気持ちになったという。ステージの上に立ち、生徒らに挨拶をする北詰をひと目見たときから、此川は彼のことを好きになってしまっていたためだ。
だが、授業で顔を合わせることは叶わなくとも、此川は満足していた。というのも、教室窓側の此川の席からは、中庭越しにいつでも、化学準備室にいる北詰の姿を見ることが出来ることに気付いたためだ。当然、教科指導やその他の用事などで不在にすることもあったが、それでも勉強熱心な北詰は、それ以外のほとんどの時間を準備室で勉強や読書にあてていた。北詰は、放課後になると校舎をぐるりと散歩に出ており、そのことを知ると此川も、部室(文芸部所属だった)を抜け出して校舎を周り始めるようになった。首尾良く北詰に出会えることがあっても、緊張のあまり小声で「こんにちは」と挨拶をして、立ち止まることもなく――かえって早足になって――北詰の横を通り過ぎるばかりだったという。おかげで、北詰が挨拶と同時に見せる笑顔もほとんど見られずにいた。「やはり自分は、中庭越しに彼のことを見ているしかない……」親しげに北詰と会話を交わす他の女子生徒たちを横目に見ながら、此川はそう思った。
そんな此川の耳に、悲報ともいうべき情報が舞い込んできた。「塀沿いに立つ桜の木が一本、中庭の真ん中に移植される」しかも、その造園工事は数日後に始まるという。そんなことになれば、もう自分が北詰の姿を見ることは叶わなくなってしまう。校内に流れている噂によれば、北詰は来期にここ大鳥学園に教師としての採用が内定しているという。だが、今年度で卒業してしまう此川にとっては、北詰が教育実習生として来ているこの二週間しか時間が残されていない。その貴重な、数十メートル隔てた視線だけの一方的な逢瀬が、桜の木一本によって阻まれてしまうなど、そんなことがあっていいはずがない。何とか移植作業を阻むことは出来ないか。北詰の教育実習期間が終わる、あと一週間程度だけでいい。
此川は、朝早くに登校して、移植される桜の木に警告文を貼り付けることにした。これで少しでも工事を送らせることが出来ればという願いを込めて。だが、その警告文は張られてからすぐに、第一発見者となった知亜子の手によって剥がされてしまうこととなった。
「私、いつになっても先生や生徒たちが騒ぎ出す様子がなかったので、おかしいなと思って昼休みに桜の木に行ってみたの。そうしたら、張り紙はなくなっていて。だから、その日の放課後、部室でこっそりと同じものを印刷して、また貼りに行ったの。途中、北詰先生とすれ違ったけれど、焦っていた私は挨拶することも忘れて、先生の横を走り抜けて行っちゃって……」
昨日、宗たちが北詰と別れて花壇へ行き再び戻ってくる間に、此川の手によって警告文は貼り直されていたのだ。
「此川先輩」と、今度は宗が歩み出て、「先輩が貼り直した警告文も俺たちが剥がしました。先輩は唐橋に感謝すべきです。もし、あれが他の誰かの目に触れていたら、確かに移植工事は延期になったかもしれませんが、必ず犯人捜しが始まります。もしかしたら学校か造園業者が、威力業務妨害として警察に被害届を出すことも考えられました。そうなったら、警察の捜査によって、どんなにわずかな痕跡、目撃情報なども徹底的に集められて、捜査の手が先輩に伸びることだって十分あり得たわけです」
「……ありがとう」
俯いたまま、此川は言った。
此川はもう二度とこんなことはしないし、宗たちも今回のことは決して誰にも口外しない――此川が北詰を想っているということも含めて――ことを互いに約束して、三人と此川は別れた。警告文はすぐに知亜子がシュレッダーにかけて処分した。
「でもさ、ちょっとかわいそうだよな」放課後、帰路につく尚紀は、並んで歩く宗と知亜子に、「此川先輩、北詰先生に話しかけることも無理なくらいな性格なのにさ、中庭越しに先生を見るっていう、唯一の楽しみも奪われてしまって」
「まあ、そこは」知亜子が尚紀を向いて、「先輩自身で乗り越えてもらわないといけない試練でしょ。まだ若いんだし」
「一年に言われたくないと思うぞ。まあ、唐橋は変に老成してて高校一年にはとても見えないけど……あ! いい意味で! いい意味で!」
知亜子からメガネ越しに射貫くような視線を向けられ、尚紀は顔の前で両手をぶんぶん振った。
「それにさ」と知亜子はいつもの目に戻って、「今だから“教育実習生と生徒”っていう関係だけどさ、先輩と北詰先生って、年齢差四つしかないでしょ。恋愛関係の許容範囲として全然問題なくない? もしかしたら、此川先輩も教育実習生として大鳥学園に戻ってきたりして。『北詰先生、憶えてますか? 私です!』『あっ、君は確か、僕が教育実習で来ていたとき、よく散歩中にすれ違っていた生徒の?』『そうですっ! 私、そのときからずっと先生のことを……』みたいな? やだ! 何言わすの!」
「ぐわっ! 何で俺に?」
尚紀は知亜子に背中をばんばんと叩かれた。
「予定どおり、明日から移植工事始まるみたいだぞ」
戯れる二人をよそに、宗は学校の塀越しに並び立つ桜の木を見上げた。
桜の木の移植は――死体が出てくることもなく――無事に終わり、大鳥学園の中庭には一本の桜の木がそびえ立つこととなった。
三年二組の教室、窓際の席の一角では、今日もひとりの女子生徒が中庭を見下ろしている。青く生い茂った葉桜の、その向こうを想いながら。
お楽しみいただけたでしょうか。
本作は「小説家になろう」公式企画「春の推理2022(テーマ:桜の木)」の提出作品として書いたものです。ウェブ小説界隈ではマイナージャンルである「推理」にスポットを当てていただけたわけですが、もし、ここで満足に作品が集まらなければ、「フッフフ、やはり『小説家になろう』において推理はドマイナージャンルよの。この体たらくでは、我らが推理ジャンルをフューチャーすることなど、ネバー・モア(もはや二度とあるまい)」などと公式に思われてしまいかねません。これはもう「なろうのミステリ勢ここにあり」を示さねば! と思って書きました。
それで、いざ書こうという段になったとき、テーマが単に「桜」ではなく「桜の木」と物体を指定してきている以上、もう「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という日本人の常識から私も逃れることは出来ませんでした。とはいえ、今回の企画を通して初めて拙作に目を通していただける読者の方もいらっしゃると想定して、できれば読みやすい短編の文章量に抑えたいと思い、詳細な捜査過程の不要な「日常の謎」ものとしました。タイトルにナンバリングを入れている時点で初見の読者からは敬遠される、という事情はさておいて(笑)。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。