第5章 姉を訪ねる
新たに貼られた警告文は、剥がして宗が持ち帰ることとして、花壇に残してきたスコップを用具室に戻すと、三人は家路についた。とりあえず家で各自が善後策を練り、明日発表しあうということにして。
宗は母親に一報を入れると、自宅ではなく別の一棟のアパートを目指した。宗の姉、安堂理真が住まうアパートだった。
「おお、宗、まあ上がれ」
これから立ち寄る旨を電話で伝えていたため、突然の来訪にも姉は弟を準備万端で向かい入れてくれた。
「宗くん、久しぶり」
台所には、理真の親友であり、このアパートの管理人も務めている江嶋由宇の姿もあった。そもそも、由宇は自室である管理人室よりも理真の部屋にいることのほうが多い。彼女は理真と高校時代からの親友であり、理真が素人探偵として事件捜査に臨む際には助手として同行もしている。
「カレーたくさん作ったから、一緒に食べよう。というか、私、カレーはいつも多めに作るんだけど」
姉が食べる分を見越してのことだな、と宗は察した。安堂理真はとにかくよく食べる人で、宗は陰で姉のことを“食いしん坊探偵”の二つ名で呼んでいるのだ。
居間のローテーブルの前に座り、とりあえずカレーライスをかきこんで空腹を満たしてから宗は、
「ちょっと、姉ちゃんに相談があるんだけど」
「うん、電話でも言ってたね。なに?」
宗や由宇の倍近く盛ったというのに、すでに残りのカレーライスの量が二人よりも少なくなっている理真は、少しだけ食べる速度を緩めて宗の話を聞く態勢を整えた。
「……ふむ、なるほど」
宗の話を聞き終えた理真は、そう呟いてスプーンを置いた。三人ともカレーライスは完食していた。
「だからさ」と宗は、コップの水を喉に流し込んでから、「今から数年前に、学校周辺で行方不明になった人がいないか、調べてほしいんだよ。姉ちゃん、警察に知り合い多いだろ」
「その行方不明者が、死体になって校庭に立つ桜の木の下に埋まってるって?」
「あくまで唐橋がそう言い張ってるだけなんだけど、その可能性も否定できないだろ?」宗は鞄から剥がしてきた張り紙を取り出して、「これがその警告文。こんなのが二度も貼られていたんだ」
理真は紙を手に取って眺め、由宇も横から覗き込んだ。
「まあ、死体はどうあれ」理真は紙をテーブルに置くと、「これを貼り付けた人が、桜の木の移植を快く思っていなくて、出来ることなら阻止しがってるのは確かみたいだね」
「木の下を掘り返されたくないから?」
「まあ、待て、弟」理真は、手の平を宗に向けると、「まずは、食後のコーヒーをいただこうじゃないか」
それを聞くと、笑みを浮かべて由宇が立ち上がった。
カレー皿が片付けられ、代わりにコーヒーカップが置かれたローテーブルの前で、改めて理真は、
「まずは、“桜の樹の下に死体”という発想を浮かべたことに、作家の末席を汚すものとして欣快の意を表しよう。宗が梶井基次郎を愛読しているとは思わなかったぞ」
「だから、それを言い出したのは唐橋だよ」
「何だ」
理真はブラックコーヒーが入ったカップに口を付けた。
「で、どうなん?」と宗も、ミルクと砂糖を入れてほとんどカフェオレと化したコーヒーをひと口すすると、「姉ちゃんも、死体は埋まってると思う?」
「思わない」
「どうして?」
「もし本当に桜の木の下に死体が埋まってて、犯人がその発覚を何としても阻止したいっていうなら、犯人の取る策はこんなものじゃ済まないでしょ」理真は張り紙を指でとんとんと突いて、「だいたい、こんな張り紙一枚程度じゃ、せいぜい工事を一週間かそこら延期させるだけの効果しか見込めないって」
「じゃあ、なに? この警告文を貼った犯人の目的は?」
「うーん……。これが貼られてた桜の木は、移植されるんでしょ。てことはさ、別の場所に植え替えられるんだよね、どこ?」
「中庭」
「中庭か……。そういや、大鳥学園の中庭って広いもんね」
「ああ、姉ちゃんも知ってのとおり」
宗と同じく、理真も(すなわち由宇も)大鳥学園高校の出身だった。
「ふーん」と理真はあごに手を当てて、「例えばさ、木の下の地面が掘り返されるってことじゃなくて、木がそこからなくなることに何か不都合があったとか」
「それも尚紀たちと話して、ここに来る途中でも色々と考えたんだけど、これといった理由は思い浮かばなかった。正確には、思い浮かびはするけど、こんな警告文を張り出してまで阻止しようとする理由が、思い浮かばなかった」
「だよね。こんなのが見つかったら工事は延期になって、犯人が特定されでもしたら、下手すれば威力業務妨害罪に問われかねないからね」
「犯人には、それだけのリスクを負う覚悟があっての行動だったってことか」
「もしくは、そこまで深く考えていなかったって可能性もあるけど」
「浅慮のうえでの犯行っていうなら、犯人は北詰先生じゃなくて、生徒のほう?」
「その、北詰先生だけどさ」
「うん」
「教育実習生なんだよね」
「そうだよ」
「なら、学校には二週間くらいしかいないんでしょ」
「うん」
「来年度から大鳥学園に教師として採用されるとか」
「それは本人も認めてた」
「担当教科は?」
「化学」
「じゃあ、普段は職員室じゃなくて化学準備室にいるんだね」
「そう。化学の木俣の弟子みたいにしてるから。教科指導のないときは、ほとんど準備室で勉強や読書をしてるらしい」
「木俣先生、いつも準備室にいたもんね。あの木俣先生が弟子を持つようになったか。で、北詰先生は何年何組の授業を担当してるの?」
「各学年の一組と三組。木俣がその学年クラスの担当で、それにくっついてるから」
「女子に人気があるんだってね」
「まあ、確かに、男から見てもかっこいいなっては思うよ。全校朝礼で教育実習生の紹介がされたとき、女子がざわついてたもん」
「……宗、ちょっと、学校の平面図と側面図を描いてみるね」
「はあ?」
理真は立ち上がると、机からノートとペンを持ってきて、大鳥学園の簡易な図面を描き始めた。
「教室のある棟と、科学準備室のある棟は、中庭を挟んで向かい合っていて。科学準備室は一階……お姉ちゃんの記憶では、こんな感じだったと思うけど」
「うん、あってる」
理真が描き上げた図面を見て宗は頷いた。
「桜は中庭に移植されるっていうけど、具体的にどの辺り?」
「ここ」と宗は図面に描かれた中庭のほぼ中心を指さして、「この桜の木が、中庭のちょうど真ん中辺りに植え替えられるって。もう芝生も剥がしてあって、バリケードで囲われてる」
「ほうほう……」
理真はそれを聞くと、図面に移植される桜の木と、さらに各階の教室などの情報も描き加えて、
「……よし。さあ、どうだ。これで分かっただろ」
「……なにが?」
宗は、ぽかんとした顔で姉を見る。
「犯人が」
「……はあああ?」宗は頓狂な声を上げて、「犯人って……誰だよ!」
「知らない」
「はあ?」
「名前までは知らない。知りようがないけど、犯人像を推理することは出来て、多くても数人程度にまで絞り込める」
「待て待て待て待て」
「この図面は宗にやるから、頑張んなさい」
「おいおいおいおい」
理真は描いた図面を宗に押しつけると、「もう遅いから帰れ」と帰宅を促した。
自宅への帰路、自転車に乗りながら宗は、「ったく、あの食いしん坊探偵め……」と悪態をついた。交差点に差し掛かり、進行方向の信号が赤になっていたため自転車を止めた宗は、「あれ?」と道路を挟んだ向こうを見やった。日が長くなったため、薄暗いながらもまだ風景は視認可能な明るさだ。いつもであれば、そこには公園の桜の木が見えるのだが、その手前に建築中の家屋があるため、すでに葉桜となった枝の先が家屋の端から少しだけ覗いているだけだった。
「あの家、このあいだ基礎を作ってたばかりなのに、もうあんなに骨組みまで出来たのか……」
信号が青に変わっても、宗はペダルを踏み込まなかった。家屋と、その向こうに覗く葉桜をじっと見つめて、
「……分かった!」
青信号が点滅を始めた。