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依頼屋からの怪しい依頼

作者: 坂口正之

小川真紀は、自宅に帰って郵便受けを覗いた時、その中に一枚の黄色いチラシが入っているのを見つけた。

彼女がそれを取り上げると、そこには、

『A駅をお使いの方、探しています』

と、大きくと書いてあった。

さらにその下には囲み文字でこうあった。

『二十代の女性の方、簡単なお仕事で副収入を得ませんか?』

A駅近くのアパートに住み、そこから毎日都心の職場に通っている彼女にとって、副収入の文字は魅力的だった。最近は、なにかと着るものや身につけるものに出費がかさみ、アパート代さえも滞りがちであった。

もちろん、贅沢をせずに質素な生活を続けていればそんなことはなかったのだが、二十代半ばのおそらく人生で一番楽しいと思われる時期に、そんなつましい生活をする気など、到底なかったのである。

そのチラシには、簡単な仕事の内容はどこにも書いてなかったし、収入がいくらになるかも書いていなかった。

「怪しい…、とてもあやしい…」

だいたい、こんなものは風俗か、まともな仕事でないに決まっていると彼女は思ったものの、良く考えてみると不思議だった。

「なぜ、A駅に限っているのかしら。A駅にある風俗? でも、それにこだわる必要などあるの…。変な仕事だったら高収入と書いてあるはずなのに書いていないわ…」

一度は、そのチラシをゴミ箱に丸めて投げ入れようとしたが、何か心に残るものがあった。

実際、まとまったお金は喉から手が出るほどほしかったのではあるが、その時は、副収入より、その仕事が何なのか知りたいといった興味心の方が大きかったのかもしれない。

そのチラシには、連絡先として電話番号とEメールアドレスの両方が書いてあった。彼女はEメールを選んだ。

こういう怪しいものには、記録の残るEメールの方がなんとなく漠然と安心できるような気がしたのであった。

「どんなお仕事で、収入はどの程度なのですか?」

彼女は、そう書き込むと送信ボタンを押した。そして、小さなあくびをすると、就寝前の準備に立ち上がった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌日の夜、風呂から上がりにEメールを確認すると、昨日送った『怪しい仕事』の主から返事が来ていた。

「仕事の内容は、秘密の情報が含まれるのでこのメールでは書けません。実に簡単で短時間に高収入が得られるものです。ただし、それが出来るのは一度だけです。二度、三度と出来ることではないのです。チャンスは一回だけです。詳しくは、お会いしてお話しなければなりません。A駅周辺の喫茶店でもよろしいので、仕事の内容についてご説明させていただけないでしょうか? いつでも結構です。ご連絡お待ちいたしております」

そこには、このように書いてあった。

「やっぱり、短時間で高収入ときたわ…。こうやって、みさかいもなく若い女性をあさり、変な仕事に引き込もうとしているんだわ…」

彼女はそう思い、そのままEメールを閉じた。

翌日、やはり同じように就寝前の時間にメールチェックをしながら、前日のそのメールが気になっていた。

「一度しかできない仕事って、どういうことなの? そう考えて見れば風俗関係ではなさそうだった。でも二十代の女性に限るって…、なぜ?」

考えても分からなかった。彼女には、だんだんそのままにしていられないような気になってきた。

「もし、本当にもうかるのなら…」

という気持ちも少なからずあった。

「でも、簡単な仕事でもうかるなんて、危ない話しに決まっている…」

と思い直しながらも、お金が無くて困っているのも事実だった。

「喫茶店で話を聞くだけならきっと危ないことはないわ…。もし、変な話しだったら断ればいいんだし、その場で変なところにでも連れていかれそうになったら騒げばいいのよ…。お店の人も他のお客さんもいるんだから、だいじょうぶよ…」

彼女はそう考えると、

「木曜日の夜七時頃ならA駅周辺の喫茶店でお話を聞くことができると思います」

と返信メールに書いて、送信した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


木曜日の夜七時に、彼女は一人の男を前に喫茶店にいた。

男の年齢は三十歳くらいだろうか、背広にネクタイといった格好はしているものの、どこか普通のサラリーマンとは違う怪しげな雰囲気を漂わせていた。

男は小声で話し始めた。

「私は依頼屋という仕事をしています。依頼屋と言ってもピンとこないかもしれませんが、簡単に言えば、人の依頼に応じて仕事をし、報酬をもらう。基本的に依頼があれば何でもします。もちろん報酬額によりますが…。ご存じですか?」

「ええ…。庭の草取りをしてほしいとか…、蜂の巣を駆除してほしいとか…。そういった依頼に応じて…」

「ああ、それは便利屋で、依頼屋ではありません」

「…」

「まあ、詳しく話をすればきりがないのですが、便利屋よりもうちょっと…。つまり、便利屋のできないようなことを…。まあ、ややこしいので、今回の件に限ってお話をしましょう…」

そう言って男は一息入れると、コーヒーカップを口に運んだ。

「一人の男がいます。こいつはとんでもなく悪いやつで、ある女性を食い物にした男です。つまり、以前にその女性とは結婚することになっていたのですが、一方的にその女性を棄ててしまったのです。その女性は身も心もずたずたにされてしまいました。今回は、その女性からの依頼を受けたのです。その男を懲らしめてほしいと…」

「懲らしめる?」

「そうです」

「復讐するということ?」

「そのとおりです」

「その男は、その女性にそんなに酷いことをしたのですか? お金を貢がせて棄てたとか…」

「依頼者の依頼理由やその内容については、我々は深く聞いたりはしません。依頼に応じた報酬さえ払ってもらえれば、向こうから話さない限りこちらからは一切関知しません」

「…」

「こういった依頼は結構多いのです。その昔にテレビドラマで仕置人とか仕掛人シリーズとか…、そのような番組もありましたが…」

そう言って男は彼女の顔を見つめたが、彼女は何も答えなかった。

「このような場合の復讐の方法は、だいたい決まっています。痴漢の加害者…。犯人にしてしまうのです」

「ちかん…」

「そうです。これが一番簡単で、一番間違いないのです。一人の若い女性、もちろん若くなくても良いのですが…、女性がいれば良いのです。それからその女性からの、つまり被害者からの訴えさえあれば、加害者がどんなに否定してもまず認められることはない。間違いなく犯罪者に仕立てることができます。そうなれば、その男に対して社会的、人格的に相当のダメージを与えることができます」

「…」

「女性の被害者を探しているのです」

「私に、被害者になれと?」

「いいえ、被害者ではなく、被害者のふりをしてほしいということなのです」

「ふり…?」

「そうです。実際あなたがどんなに魅力的でもその男が触ってくることはないでしょう。その男のそばで、男から痴漢被害を受けたと騒いでくれればそれで良いのです。きっと周りに正義感に燃えたオトコや、そういったことを絶対に許さないオネーサンがたくさんいますから、直ちにその男を取り押さえるのに協力して、駅員に突き出してくれるでしょう」

「じゃ、簡単で高収入というのは…」

「そういうことです…。まあ、その後、駅員や警察官に色々と聞かれるでしょう。どこをどのように触られたとか…。心配はいりません。そういったことを聴取するのは被害者の気持ちを考えて必ず女性警察官で、長くてもせいぜい一時間程度です。早く会社に行かなければならないと訴えれば、あなたは被害者ですからそんなに拘束されません…。今までに痴漢被害にあったことは?」

「ええ…」

「どっちですか?」

「すみません…、報酬はいくらなのですか?」

「四十万です」

即座に彼女は思った。とても割の良い仕事だ。単に電車の中で騒いで半日も費やさずに…、その仕事は魅力的だった。

「その男は、女の人に相当悪いことをしたんですよね?」

彼女は、これから自分がしようとしていることを既に正当化しようとしていたのかもしれない。

「先ほども言いましたが、詳しいことはこちらも分かりません。ただ、依頼者はそれなりの金額を払うと言っていますから、憎しみはあるのでしょうし、当然、相当に悪いことをしたと思いますが…」

彼女は、もう別のことを考えていた。

「だいたい、どこの世界でも胴元と手先の取り分は四対六とか言うから…、依頼金は七十万円程度なのかしら…」

漠然とそう考えていた時に、男は言った。

「あなたには、お金を払ってでも憎しみを晴らしたい人はいませんか? 我々にはそう言った相談が本当に多いのですよ…」

そう言われれば、彼女にもまったく思いあたらないふしも無くはなかったが…。今となっては…。あんな男のために一円だって使うこと自体口惜しい気がした。でも、その時だったら私はどうしたのだろうか…、そう考え込んでしまった。

「どうされましたか?」

男の声で、彼女は我に返った。

「でも…、これって犯罪ですよね?」

「とんでもない。いいですか…? あなたは触られたと思ったから、その男から痴漢にあったと思ったから、声を上げて騒いだだけなのですよ。ひょっとしたら間違いだったかもしれない。でも、あなたはそう思ったから訴えただけなのですよ。誰にも間違いはあります。百パーセント完全な人間なんかいる訳がありません」

男が言っていることは、まともな回答になっているとは思えなかったが、彼女にとっては、そんな説明はどうでも良かったのかもしれない。

「訴えられた男は、どうなるのですか?」

「まあ、職場はクビになるでしょう」

「それならば、七十万円払っても十分恨みを晴らせるということか…」

彼女はそう思った。

「こうやって、依頼者の恨みを晴らしたことは何度もあるのですか?」

「商売ですから…。これは間違いのない方法なのです。もし、失敗することがあるとすれば、被害者の女性が満員電車の中でどうしても声を上げられないとか、そういったことでやり直したことはあります」

「やり直す?」

「ええ、女性を変えてやり直します。いざその場になってしまうと声が出せない。『やめてください!』の一言が出せない女性が多いのです。たくさんの人に囲まれているからしょうがないのですが…。そういう意味では、これまで痴漢の被害にあって犯人を突き出した経験のある人が良いのですが、逆にそういうことをしている人は使いたくない。特に我々の世界では…。そういう女性は警察にも覚えられていますし、変に怪しく思われてしまいます。だからメールにも書きましたが、二度、三度と出来る仕事ではない。一度だけのチャンスです。このような依頼はたくさんありますが、あなたには今回限りで二度とお願いするつもりはありません。だから我々も次々と新しい女性を探さなくてはならないのです。そういったことであのようなチラシを…。ああ、もし、あなたの友人でお金に困っていて、口が堅い女性がいれば、ぜひ…」

彼女は、我々の世界とか、我々もとか、こういったことが一つの組織として成り立っているような男の言い方に少し薄気味悪いものを感じた。そして、ここまで聞かされた以上、ここでこれを断ると、大変なことになるのではないかともだんだん思い始めていた。

「一回だけですよね…」

「そうです。実際には、もう一回出来ないかと言ってくる人の方が多いのですが…」

男は、微かに苦笑いしながら言った。

彼女の心の中は、半分以上その仕事を受ける気になっていた。

「具体的には、どうすれば良いのですか?」

「お話ししましょう。ターゲットの男性をXとしましょう。Xはあなたと同じくA駅近くに住んでいて、A駅から電車に乗って都心の会社に通っています。Xの乗る電車、車両はほぼ毎日同じですから、あなたはそれに合わせて電車に乗ってください。A駅に着く電車はもう相当混んでいますから、あなたはとにかくXの背後から押されて抱き付くように電車に乗り込み、後はしっかりXの側を離れないようにしてください。電車は都心に近づくにつれてさらに混んできますから、適当なところで声を上げれば良い…、簡単です。周りに聞こえるように、『止めてください!』と一言。そして、さらに『この人痴漢です!』と大声で言えばいい。Xを捕まえるのに協力してくれる人はたくさんいます。このやり方で大声を上げてから失敗した例はありません」

男は、彼女の目を見つめた。

「後は、そういった人たちの協力を得て、次の駅でXを降ろして駅員に突き出せば良い。その後、警察官に事情聴取されますが、淡々と答えれば良い。午前中にはそのまま職場行くこともできますし、自宅に帰ることもできます。どうです…。これで四十万は、とても割の良い仕事だと思いませんか?」

「なに言っているのよ、半分近くもピンハネしながらよく言うわ…」

直感的にそう思った。

だんだんと彼女の考えも過激なものに変わってきていた。

「Xという男がどうなろうと知ったことじゃないわ…」

彼女にとっての唯一の問題は、彼女自身の身の保全だった。何かのきっかけでこの企みがバレて、自分が捕まり罰せられないか。自分が職場をクビになったのでは元も子もない。それが心配だった。

しかし、男が言っているように人間だから誰にも間違いはある。万が一の時は、

「私の勘違いでした。触ったのはこの人ではなく、別の人かもしれません。ごめんなさい!」

と言ってしまえば良い、というのが彼女の出した結論だった。

「お金は先にもらえるのですか?」

「もちろん、手付け金は払います。大部分は全て終わった後になります」

「あとに…」

「いや、先ほども言いましたが、多くの女性がいざとなると声を上げられなくて、結構失敗してしまうのですよ…。だから、手付け金は三万円だけです。成功すれば直ちに全額お支払いします」

「成功って言いますが、どうなったら成功なのですか?」

「なかなか厳しいですね…。Xが逮捕された時が成功です」

彼女には、男が再び苦笑いしながら言ったように思えた。

「罪を認めなかったら?」

「そのようなことは時々ありますが、一度そういったことで逮捕されてしまえば社会からはそういう烙印が押されてしまいます。復讐としては十分達成していますし、我々依頼屋の仕事もそこまでです」

「…」

男は、また彼女の目を見つめるようにして言った。

「どうですか、ぜひ協力していただけないでしょうか?」

「いいわ、やりましょう…」

彼女は言い切った。

彼女自身、最初にこの話を聞いた時から、逃げ出してしまうような気はずっとしていなかったのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その後、その男とはもう一度同じ喫茶店で会い、ターゲットの男の写真を入手した。普段黒いバッグを持っていること。A駅七時五十五分発の電車の前から三両目の二つ目のドアが、ターゲットがいつも乗る場所だということなどを聞いた。

実行日は、次の水曜日と決められた。三万円を手渡す時に男は言った。

「いつもどおりで、変に派手な格好はしてこないでください…。かえって変に思われますから…。最悪な場合、そんな格好をしていたのじゃ痴漢にあっても仕方ないとか言われて同情されないこともあります…」

彼女自身、どちらかと言うと普段派手な格好を好んでいる方だと思っていたので、男の言うとおりするにはどうしたら良いのか良く分からなかったが、確かにその日だけ急変えるのも変だし、いつもどおりで行こうと思った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


水曜日、彼女は七時五十五分の電車に間に合うようアパートをいつもより二十分ほど早く出た。

万が一、何かの時にいつも乗る電車と違うことを聞かれたら、早めに出勤して期限間近の書類を作成しようとしたから…、と答えようと思っていた。

もちろん、それはあの男から教え込まれたことだった。

駅のホームに立つと、打ち合わせどおり階段の裏にあの男がいた。

男に近づかないようにして目で合図を送ると、男もそれとなくうなずいたように感じた。

彼女は、事前に調べてあった三両目の二つ目のドアが開く付近まで来ると、ホームの後ろの方で待った。

間もなく、ターゲットの男が来るはずだ。

なぜか彼女は落ち着いていた。あの男が、

「心臓が高鳴り緊張に耐えられなくなるとか。いっそのことターゲットは風邪かなんかで出勤しないでほしい、今日はきっと早く出勤してしまって、もう行ってしまったんだわ、とか思いたい気持ちになる…」

と言っていたが、その場は無性に落ち着いていた。

黒いバッグを持った男が階段を上ってきた。

「ターゲットの男だ…」

予想どおり、ターゲットは七時五十五分発の快速に乗り込もうと、ホームに書かれた乗降ドア位置の前に立った。

彼女はあの男の方を向いて目配せすると、すかさずターゲットに近づき、その真後ろに立った。

と同時に、電車がホームに滑り込んできた。

ドアが開いたが、相当に混んでいる。数人の乗客が人の海をかきわけてこぼれ落ちるように降りてくるが、ほとんど空間が出来たようには思えなかった。

ターゲットが前に進むとき、彼女はその背後からぴったりと付いて進んだ。彼女が無理に進もうとしなくても後ろに並んでいる乗客に押されて、結果的にはターゲットに抱き付くような形で電車に押し込まれたのであった。

重要なことは、このターゲットの側を絶対に離れないことだった。出来ればターゲットの後ろではなく、前に回って抱き付かれるように身を入れ替えろと言うのがあの男の指示だった。

ターゲットがドア口を避けて奥に移動しようとするのを彼女は逃がさなかった。実際に奥もいっぱいだったし、それほど移動することは出来なかったのである。

逆に、ターゲットが少し移動したすきに、彼女はターゲットの前に出ることが出来た。左前の方だ。バッグが右手にあるから、ターゲットの自由が利く左手の前だった。

彼女の右耳の後ろにターゲットの顔がぴったりきている。彼女には、ターゲットの息が耳にかかるような気がしていた。

あの男が言っていたベストポジションに彼女は入り込むことが出来た。

これで、ターゲットが向きを変えて後ろ向きになったのでは意味がない。その時は、彼女も百八十度向きを変えて、ターゲットに抱き付くようにしてでもやり遂げるつもりだった。

この時になって、あの男の指示どおり、ほんの少しうなじに香水を振ってきた意味が分かったような気がした。きっと微かな芳香が知らず知らずのうちにターゲットをとらえているに違いないのだろうと思っていた。

「そのままの体勢でいてよ…。動かないでよ…」

彼女は、そう願っていた。

次の停車駅でドアが開き、また多くの乗客が乗り込んできた。さらに込み合ったが、彼女はターゲットとの位置関係は崩さなかった。

もうあの男が言うように、騒ぎ始めなければならない。

「このベストポジションがいつまで続くとも分からないのだから…」

そう思った時に、彼女はさすがに緊張してきた。

「ここまで難なく行動してきたのに、最後の最後は多くの女性がクリアできないように私も声を上げることが出来ないのかしら…」

そう思うと緊張で冷や汗が出てきた。次第に足もがくがく震え始め、この満員電車の中にいること自体が急に息苦しく思えてきた。

「ああ、どうしよう…」

四十万円という言葉で自分を奮い立たせようと思ったが、そう考えれば考えるほど胸の鼓動が激しく脈打ち、もうそんな余裕も無くなってきていた。

「本当に、どうしよう…」

ますます、息苦しくなってきた。

「できない、とてもできないわ…」

彼女自身、一度満員電車の中で貧血になって倒れたことがあった。その時とは確実に違うのだが、そのような気分にもなってきていた。

彼女にとって、これは辛い拷問のように思われてきた。

「なんでこんなことを…。もう止めよう、三万円は返そう…。次の駅で降りよう、そうじゃないと倒れてしまう」

と思った時だった。

「どうしました?」

冷や汗を額に浮かべ、ハアハアしている彼女を見かねたのだろうか。左隣に立っている中年女性が声をかけてきたのだった。

「だいじょうぶですか?」

「ええ、だいじょうぶです…」

咄嗟にそう答えた。

「この人は私のことを心配している。私が汗をかいて息苦しくしているのは、私が気分を悪くしているからだと思っている…」

そう思い、

「次の駅で降りるからだいじょうぶ…」

とふっと我に返った瞬間だった。

「待って…。もしかして、私が体調を悪くしていると思っているのではなく…、そうか、きっとそうなんだ…」

「本当にだいじょうぶですか?」

わざと周りの乗客に聞こえるような大きな声でその女性からもう一度聞かれて、彼女は確信をもった。

急に胸の鼓動の高まりは落ち着き冷静になった。そして、あえて泣き出すような声で彼女は言った。

「痴漢です…」

「やっぱり、痴漢ですか?」

「そうです痴漢です」

彼女は、車両内に聞こえるような大きな声で言った。

周辺の乗客が一瞬にして自分の方を見るのが彼女には分かった。

ある者は振り向き、ある者は首を曲げ、満員電車の不自由な体勢の中で全ての乗客が自分に注目しているのが痛いほど分かった。

その時、彼女は右手を後ろに伸ばし、後ろにいるターゲットの左手首をしっかり掴んだ。そして、振り向いてターゲットに言った。

「もう、止めてください!」

突然の展開に、ターゲットは何が起こったのか分からなかったのだろう。一瞬、そのまま凍り付いたように固まっていた。

今度は、隣のその女性が大声で言った。

「みなさん痴漢ですよ! 捕まえるのに協力してください。逃がさないでください…」

周辺の目が自分自身にも注がれるのに気付いたターゲットは、彼女の手を振り解こうとして暴れた。

「なんだよ、突然…」

彼女は、その握った手を絶対に放すまいと満身の力を込めていた。

「なによ、私は見ていたんだからね。この人が困って冷や汗をかいて体をよじって逃げようとしているのを…。あんたみたいな人がいるからどれだけ女性が迷惑しているか…。みなさん絶対に捕まえて!」

彼女が言う前に、その中年女性はターゲットに向かって罵声を浴びせていた。

「なんにもしてないよ!」

そう言って、ターゲットがさらに彼女の手を振り解こうとしたときには、電車は次の停車駅に滑り込み停車した。

ドアが開いた時には、ターゲットはたまたまその近くにいた正義感に燃える大学生二人に囲まれ、ホームに引きずり出されていた。

「さあさあ、お兄さん往生際が悪いよ。ジタバタしないで警察に行きましょうね…。ああ、駅員さーん! 痴漢を捕まえましたよ!」

大学生二人は駅員にそう伝えると駅員の指示に従って、そのまま駅事務所までターゲットが逃げないよう両脇を抱えて引きずって行った。

ホームにいたもう一人の駅員が彼女に向かって言った。

「あなたが被害者ですか?」

「ええ…」

「告発はされますか?どうしますか?」

「ええ…」

「じゃ、事務所までお願いします」

あの男から、駅員に告発するかどうか聞かれたら、直ちに告発すると言えとは聞いていたが、まさかこんなに機械的にマニュアルに沿ったように聞かれるとは思っていなかった。

それ程、痴漢被害や痴漢の摘発が多いのかしら…、と漠然と思うとともに、こんなことは駅員には珍しいことではないんだ…、と彼女は少し安心した。

駅事務所に行きしばらく待っていると、年輩の女性警察官がやってきた。

渡された書類に、氏名、住所、電話番号を書くと、その女性警官もマニュアルに従うよう順に聞いてきた。

「今日は、朝何時ごろに家を出たの?」

「七時五十五分の電車に乗ろうとして、四十分頃に出ました」

「それは、いつも乗る電車なの?」

「いいえ、いつもは八時十五分の電車なのですが、早めに行こうと思いまして…」

予定通りの質問、そして受け答えだ。

「その男もあなたと同じ駅から乗ってきたようだけど、乗り込む時にその男のことは分かっていた?」

「いいえ、なんにも…」

「だいたい痴漢って、駅のホームで待っている時に既にターゲットとする女性に目を付けていて、電車に乗り込むときに後ろから押し込むようにして加害者に近づくことが多いのよ…」

「…」

「だから、きっともう駅のホームで目を付けられていたのよ」

「…」

彼女はなにも答えなかった。

「どの辺りから男はどんなことを?」

「最初の停車駅を過ぎた頃からです。さらに混んできて…。お尻の方で何かが動いて、そのうち撫で回すような…」

「それで?」

「痴漢だと分かりましたので、体をよじって逃げようとしたんですが混んでいて…。そのうちスカートをたくし上げるような…。もう、どうしようかと…。気分が悪くなって冷や汗が出てきて、息も苦しくなって…。そうしたら、隣の女性が私が痴漢に遭っていることに気が付いてくれたようで、声をかけてくれたので…」

「触っていたのは、本当にその男に間違いない?自信がある?」

「間違いないです。触っていた手をしっかり握って捕まえましたから…」

「そう、分かったわ。じゃ、告発するということいいのね?」

「ええ、お願いします」

彼女はそう言った時、四十万円が自分のものになったような気がした。

電車の中ではどうしても出来ず、もう降りてしまおうと思ったのだが、気の利いた中年女性が声をかけてくれたお陰でやり遂げることが出来た。こんな簡単に四十万円が手に入るのならもう一度やりたくなった。

あの男が、この仕事をやった女性はもう一度出来ないか聞いてくることが多いと言っていたが、まったくその気持ちが分かったような気分になった。

彼女は、ほっとしてバックの中の携帯電話を確認した。メールが一通届いていた。あの男からだった。なんだろうと思いそれを開いた。

「人違いだ、ターゲットは違う!ターゲットは別人だ!間違えている!」

そこには、そう書いてあった。

「えっえ、人違い…、そんな…、うそよ!」

それを読んで、彼女は震えがきた。苦労してここまで来たのに人違いだなんて…、どうしたら良いのだろうか。気が動転してまともに考えることが出来なかった。

「じゃ、これで結構です。今日は本当に大変でしたね。こんなことは早く忘れて元気になってくださいね…」

女性警察官のその言葉を聞いて、彼女はとてつもなく不安になった。

「すいません…。痴漢…、認めたのですか? あの男…」

「まだ認めていないわ…」

「ずっと、認めないとどうなりますか?」

「認めなくても、今回は目撃者もいて証拠もあるのだからだいじょうぶよ。ちゃんと起訴されるから心配はないわ。しかし、まだ認めないなんて、なんてあきらめが悪いんでしょうね…」

彼女は、痴漢を認めていないのは当たり前だろうと思っていたが、目撃者がいたということには驚いた。

「目撃者って…」

「ああ、あなたに最初に声をかけた女性よ」

「うそだ!私は触られていないし、誰も見ているはずがないじゃないの…。どうして?」

彼女はそう思ったが、もちろんそれは言えなかった。

急にターゲットの男がかわいそうに思えてきた。正確にはターゲットではなく、ターゲットと間違えられた男のことである。

「このままでは、何の罪のもない人を犯罪者にしてしまう…」

なぜか、その時は純粋にそう思った。

良く考えてみれば、いい加減なものである。人違いだったからかわいそうで、目的のターゲットだったらかわいそうでなかったのか…。どちらも罪のない人を犯罪者に仕立てているのに…。

でも、彼女はターゲット自身が人違いだったということで本当にその時はそう思ったのである。

「どうかしたの?」

警察官に尋ねられ、彼女はいても立ってもいられなくなっていた。

「何とか人違いのターゲットを助けてあげないと、あまりにかわいそうだわ…。どうしたらいいの…」

そうは思ったものの、どうしようもなかった。

「じゃ、なにかあれば、またこちらから連絡します。万が一、加害者が犯行を認めないと裁判になることもありますので…。でも、今回は目撃者もいますから遅かれ早かれ認めることになると思います」

彼女は、そんな警察官の言葉は聞いていなかった。どうしたら、その男を冤罪から助けることが出来るのか、自分が冤罪の罪を被せておきながら…。そして、重要なことは彼女自身が罪に問われないように…。

彼女は、突然思い出したように言った。

「すいません、一ついいですか…。あの犯人は指輪をしていました?」

「えっ、指輪?」

「ええ、指輪です」

彼女は、駅のホームでターゲットの後ろに並んだ時に、左手の薬指に結婚指輪があるのかどうか確認したことを思い出していた。

なぜ、そんなことをしたのかと言えば、女性問題で相手から恨みをかい、その復讐を依頼されるような男は既に結婚しているのか、それとも結婚もせずに次々と女性を手玉にしているのか、少し興味があったのである。

もし、指輪があるとすれば、その復讐者を棄てて結婚したのだろうか…。

せめて左手薬指に結婚指輪があれば、と思ったのだが…。その時、ターゲットの指にはどこにも指輪など無かった。

「なぜ?」

彼女の質問に、女性警察官は不思議な顔をして聞いた。

「今思い出したのですが、最初に触られた時、なんか変だと思ってこうやって手で払いのけたのですが、その手が指輪をしていたように感じました。その後、痴漢だと分かってもう一度その手を押しのけたときは、犯人の左手にしっかり指輪があるのが分かりました。あれは結婚指輪だと思います。だから犯人は結婚指輪をしているはずだと…」

「そう…。待って、確認してくるわ…」

女性警察官は、別室で取り調べを受けているターゲットが指輪をしているかどうか調べに出ていった。

その間、彼女はずっとその後の自分の言動を考えていた。

しばらくして戻って来ると、女性警察官は言った。

「指輪はしていないわ…」

「えっ、そんな…」

「指輪をしていたことは、本当に間違いないのね?」

「犯人の手を触った時に、確かに…。間違いありません」

「じゃ、人違い?」

「すみません。人違いかも…」

「でも、あなたは、あなたの体を触っていたその手を掴んで、声を上げた訳でしょう?」

女性警察官が、少し苛立って聞いているのが分かった。

「ええ、最初は痴漢からなんとか逃げようとして…。とても捕まえようなんて思わなかったのですが…。隣の女性から声をかけられて急に勇気が湧いてきて、その時お尻のところにあった手を掴んで…」

「じゃ、その時は、あなたの体は触っていなかったの?」

「触っていたような気もするのですが…。触っていなかったかも…」

「どっちなの?」

「…」

「これはとても大事なことなのよ。無実の犯罪者を作り出しているかもしれないのよ。どっち?」

完全に女性警察官が苛立っているのが分かった。

「指輪をしていないのですよね?」

「そうよ!」

「ごめんなさい…。人違いだと思います」

「ホント、間違いない?」

「ええ…」

「ふー、分かったわ。待っていて…」

女性警察官は大きなため息をついてそう言うと、その部屋を出ていった。たぶん、犯人とされた男の取り調べの部屋に行ったのだろう。

しばらくして、戻ってきた。

「ごめんなさい…」

女性警察官が口を開く前に、彼女は言った。

「いいのよ、間違ったものは仕方ないわ。わざと誰かを陥れようとしてやっているんじゃないのだし…。あなたが誰かに触られていたことは事実で、たまたま間違えただけなのだから…。それより、無実の罪を作らなくて良かったわ」

その言葉に、彼女は何も言えなかった。

とにかく、ターゲットではない人を間違って犯罪者にしなくて良かったし、自分自身の罪も問われることはないだろう。

ここまで頑張って四十万円をもらえないことは残念だったが、いまさらもう一度やり直しも出来ないだろう…、そう思っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


結局、それからしばらくして、彼女は解放された。

人違いをしたターゲットに謝りたいと彼女の方から言い出したのだが、直接会わない方が良いと止めたのは女性警察官の方だった。

もちろん午前中に解放されたのではあるが、その日はとても職場に行くような気にならず、仕事は休むことにして自宅のアパート帰った。

依頼屋のあの男から携帯電話に連絡があったのは、夜だった。

「もしもし…、今日は残念だった。まさかターゲットを間違えるなんて…」

「ホームで私がターゲットの後ろに付いて目配せした時にうなずいたじゃないの…。まさか人違いだなんて…」

「こっちも似た男がいるとは思わなかった。真のターゲットは君が間違えたターゲットのほんの少し後にホームに上って来た。君の真後ろに並んでいたのだが…。もうこちらから連絡しようがなく、携帯電話にメールを入れたのだが…」

いまさら、そんなことを言われてもどうしようもなかった。

「どうしたんだ?」

「どうしたんだなんて、言われたとおりやったわよ!」

どうしても声を上げることができず、もう止めて電車を降りようとしたことなど彼女は言わなかった。

彼女は、警察に告発してから男からのメールでターゲットが別人だったことを知ったこと。そのため慌てて人違いだったことを話して、無実の罪の人間を作らなかったことを話した。

男は、不満そうに彼女の話しに返事をした。

「残念だけど、一度痴漢被害で警察に顔を覚えられた人間は危なくてもう使えない…」

「私ももうお断りだわ、こんな仕事…。四十万円はどうなるの…」

「ターゲットが逮捕されないことには、我々も依頼者からは報酬はもらえない。だから君に払う報酬も無い。先に渡した三万円は自由にしていい…」

「待ってよ、私は言われたとおりやったのだから約束通り報酬をもらう権利はあるわ…」

「だから、依頼者からもらえないのに払える訳がないだろう…。君が誰か友達でも探してやり直してくれるのなら払えるが…」

「…」

彼女の心の中には、きっとこの仕事ならやりそうな友人が二人は浮かんでいた。

「でも、電車の中で触られてもいないのに声を上げることができるかしら…」

そう考えていた時、男は言った。

「じゃ、また連絡するよ」

「待って…、一つだけ分からなくて不思議なんだけど、変な中年女性がいて痴漢を捕まえるのに手伝ってくれて、さらに警察に目撃証言してくれたようなのだけど…、あの女性は同じ仲間なの?」

彼女は、ずっと不思議に思っていたことを聞いた。

「今回の仕事に仲間なんかいない。もし、いれば黙っている訳がない…」

「じゃ、痴漢を捕まえるのはともかく、私が触られるところを見てもいないのに、なぜ目撃証言を…」

「以前にも言ったはずだ。痴漢という卑劣な犯罪を絶対に許さないという信念をもった女性と正義感に溢れる男性が必ずいると。その女性は、君の苦悶の状況を見かねてきっと卑劣な犯人を許すことが出来なかったのだろう。だから、かわいそうな君に少しでも協力しようと…、実際には見ていなくても、そう信じて、君のためにそういう証言をしたのだろう」

「…」

そう言えば、正義感に燃えた大学生二人がいたことを彼女は思い出していた。

「じゃ…」

男は、そう言うと一方的に電話を切った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌日、彼女が職場に向かおうといつもと同じ満員電車に乗っていた時だった。

突然、左の太股のうしろに手が張り付き、撫でるように上がっていった。

咄嗟に痴漢だと彼女には分かった。

慌てて声を上げようとしたが、声は出なかった。その手から逃れようとして体を捻ったが、その手はしつこくついてきた。

彼女は、その手の主の方を見た。

手の主は、彼女の耳元に口を寄せて言った。

「どうした、声が出ないのかな?」

そこにいたのは、依頼屋のあの男だった。

「どういうこと…」

「こういうことだよ…」

「止めてよ…、声を上げるわよ」

そう言いながら、なぜか、男だけに聞こえるような小声でしか言えなかった

「ほうー、大声を上げることが出来るのかな…?」

「バカにしないで…」

「昨日は、同じ車両でずっと見ていたんだが…、まあいい。次の駅は君が痴漢を突き出した駅だ、もう一度痴漢だと騒いで突き出すことができるのかな?」

彼女は、何も言えなかった。

「昨日は、君は人違いだったと途中で証言を変えてしまって、警察官には相当心証が悪いはずだが…。昨日の今日で、果たして信じてもらえるかな?」

男の手は、その間も彼女の体をしつこくまさぐっていた。

その時、彼女は、ひょっとしてこれまでのことは、全てこの男によって計算されたことではないかと思い始めていた。

男は、さらに彼女の耳に口を近づけた。

一瞬、男の唇が耳たぶに触れた時には、彼女には吐き出しそうな嫌悪感とともに体全体に戦慄が走った。

「最初に君をこの電車の中で見かけた時から、僕は、ずーっと君に心を奪われていたんだよ…。君の後をつけて、やっと君のアパートを見つけて…。ああ…、こうやってゆっくり逢いたかったよ、マキちゃん…」

彼女は、言いようもない恐怖を感じ、身動きできなかった。

「あのチラシは最初から私のポストだけに…、依頼屋の話しも全部うそで…、そうよきっと…。この男は私を狙ったストーカーなんだわ。ああ、どうしよう…」

昨日と同じように、彼女は足ががくがく震えてきた。

「さあ、いっしょに降りようか…」

「…」

「じゃ、昨日同じ車両で見かけたのだが、この女性は触られてもいないのに触られたと言って騒ぎ始めたと私が証言してもいいのかな…。被害者は相当怒っていて君を告発すると言っているようだが…。君の氏名、住所は警察には記録が残っているし…」

その時、電車は駅に到着し、ドアを開いた。

執拗に体をまさぐっていた男の手は彼女の手首を掴み、その男に引きずられるように彼女は電車から降ろされた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


それから数ヶ月が経った。

依頼屋の男は、喫茶店で一人の女子大生を前にしていた。

「わたし、本当にお金に困っているんです」

「だから成功すれば四十万払います。仕事量に比べたら十分な額だと思いますが…。いざと言う時に大声が出せればですが…」

「だいじょうぶです。高校ではチアリーダーをしていて、いつも大声を出していましたから…」


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同じ頃、彼女は別の喫茶店で一人の中年女性を前にしていた。

「簡単な仕事よ。苦しそうにしている若い娘に声をかければいいのよ、『だいじょうぶ?』って。『痴漢なの?』って言ってもいいわ。それで三万はいい仕事でしょう。目撃証言をしてくれれば十五万払うわ。どう?」

「わたし、やります…。証言も…」


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一週間後、その男と彼女はホテルにいた。

男は言った。

「マキのお陰だよ、もう一人の仕掛人を置くことによって成功率が百パーセントになった。大成功だ…」

「自分でやってみたら分かったわ。触られてもいないのにとても声など出せないって…。たまたま親切で気の利く女性が隣にいたから…、ホントに偶然だわ」

「思っていた以上にこの仕事をしたい新しい女性も次々とたくさん出てきて、依頼屋としてはまったく問題なしのいい仕事だ…」

男は彼女の方に向き直し、微笑んで言った。

「私が不思議なのは、そんなに大金を払ってまで棄てられた男に恨みを晴らしたい女性がこの世にたくさんいるのかっていうことなのよ…。この仕事って請け負う女性もそうだけど、次から次ぎへとたくさんのニーズがあるじゃないの、どこからそんなに仕事を持って来るの?」

「それは依頼屋の営業秘密だから教えられないな。ただ…」

「ただ?」

「このご時世だから、色々なニーズがあるということだよ…」

「だからなによ?」

「社員のクビを切りたくてうずうずしている経営者はたくさんいるということだよ…」

「えっ、痴漢容疑でクビに…。リストラ?」

「簡単にクビに出来れば、二百万や三百万払ったって安いものだよ…。場合によっては退職金もカットできる…」

「すごいじゃないの…。じゃ、私はもっともらえるわよね。ほしい指輪があるのよ、早く新しいマンションにも引っ越したいし…。大好きだから、ねえっ…」

そう言うと、彼女はベッドに腰掛けた男の胸に甘えるように倒れ込んだ。

彼女は、倒れた男の上で二三度軽くキスをすると、男の目を見つめながら思い出したように言った。

「ねえ、ねえ…、あいつはどうなった?」

「あいつ?」

「あいつよ…、切り刻んでも飽き足らないくらいの…」

「ああ、マキが棄てられたモトカレか…。痴漢容疑を認めないようでまだ警察に拘束されているようだが…」

「会社はクビかしら?」

「まあ、間違いないね、一流企業だから…」

「よかった、いい気味ね…。これでやっとすっきりしたわ…。ホントに大好きよ…」

彼女はそう言うと、再び男に濃厚なキスをした。

(おわり)

最近、しばしば痴漢冤罪問題が取り上げられるようになっていますが、確かに満員電車の中で痴漢だと訴えられた場合に、被疑者が身の潔白を証明することは難しいのでしょう。

痴漢冤罪については相当面白そうなことが書けそうな気がしていたのですが、書いてみると、結果的に冤罪でなく逆の犯罪になってしました。

今回、小説にするに際して、オチ以前にストーリーをどうするか悩みました。主人公を女性にして、依頼屋からの依頼話から始めるのか、それとも男性にして、突然身に覚えのない痴漢行為で訴えられるといったことから始めるのか。これについては簡単に前者と決まりましたが、途中にどのような紆余曲折を入れて、また、最後に主人公をパッピーで終わらせるのか、アンハッピーで終わらせるのか、頭の中で整理が付かず二転三転がありました。

当初は、騙された主人公がストーカーの恐怖で終わるつもりで書いたのですが、このような機転の利く小悪魔的主人公は、やはり最後の最後に笑わせないと面白くないかと思い、最後の部分を付け加えましたが、余分だったかもしれません。

そんなことで、今回のオチはすっきり行っていませんが、まあ、ドキドキするストーリーということで、特に、男の依頼を受けて彼女が実行に移るあたりからは、もし、読むのが止められないようになったなら、作者としては幸甚です。

こういった小説を書いていると、作者は変態ではないかと思われるのが非常に辛いのですが、痴漢の状況(描写)については、どの男性に聞いたところでコメントが頂ける訳がないので、私の職場に聞いてみたい人は何人かいましたが、止めました。

一方、被害者からのヒヤリングについては、直ぐ近くに、「これまで経験したことのないあまりにひどい(どうひどいの?)痴漢だったので、ブチ切れて犯人のネクタイを手すりに縛り付けてバッグでボコボコにたたいたら、バックの留め金が壊れて、とても悔しかった…」という、職場でも有名な武勇伝の持ち主を知っていましたが、これも私にはとても恐くて聞けませんでした。

なお、駅員が直ちに「告発しますか? しませんか?」と問うというのは、その女性から聞いた話です。(そういうことですので決して誤解しないでください)

ちなみに、駅員は、猛然とバッグを振り回す彼女を後ろから必死に羽交い締めにしながら、聞いたようですが…。

従って、痴漢の情景描写については、全く不十分なものであり、一部不満の読者がおられるかもしれませんが、何卒ご容赦願います。

最後に、本作品は、2003年(平成15年)1月3日に作成したものです。

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