勇者、妄想する勇者から逃走する
逃げるにおいて、速さは重要だ。
しかし、それ以上に注意しなければいけないことがある。
音を立ててはいけないのだ。
抜き足差し足忍び足。これが大事。
漫画やラノベではこういったときに枝を踏んだりして音を出してしまうのがテンプレだが、おれはそんなことはしない。
注意深く足元を確認し、確実に地面を踏むのだ。
ゆっくりとだが、最速で。
必ず……必ず……逃げ切ってみせる。
「勇者の兄ちゃん。じゃあね」
母親に手を引かれ消えたはずの鼻たれ坊主が戻ってきて、おれに手を振った。
バカ野郎。
「母ちゃんからの伝言で、晩御飯どうですか? だって」
ガンガンに話しかけてくるんじゃない。
おかげで、妄想トリップしていたはずのベイルが、現実世界に戻ってきてしまったじゃないか。
「晩御飯の後は、わたしもどうですか?」
ベイルよ。鼻たれ坊主はそんなこと一言も言っていないぞ。
「激しいのね。これじゃあ、あの子に弟か妹じゃなく、両方できちゃうかもしれないわ」
そんなこと言うのは、作られたエロの世界にいるやつだけだ。
「いいじゃないか。勇者の子孫は多いほうがいい。君との子なら、将来有望だ」
アホか。
「もう。責任はとってもらいますからね」
デレるんじゃない。
「愛することで問題ないだろう」
あるだろ。
「バカ。ああっ、激しい」
いつまで続くんだろう。この一人芝居は。
心の中でチャチャは入れてやっていたが、なんか可哀そうになってきた。
「もっと激しくするよ」
「ダメダメダメ」
信じられないかもしれないけど、ベイルは自分と奥さんの声色を使い分けているんだよ? だれにも伝わんないのにだよ。信じられる?
おれには無理。
こんな頭の悪いバカな妄想はできない。できたとしても、口には出せない。出したくない。
「もう、止まれない」
止まれよ。頼むよ。
「ダメダメダメ」
ほら、奥さんも嫌がっているじゃない。
「本当にダメなのかい」
…………
なぜか、ベイルが一拍の間を置いた。
「気持ち良すぎるからダメなの」
アホの会話だな。こんなやついたら、萎えるわ。
「じゃあ、いいんだね」
ベイルはそうじゃないらしい。これが好みのシチュエーションなのだろう。
「…………」
なんか言ったようだが、小さすぎて聞き取れなかった。まあ、聞きたくもないから問題はない。
「教えて。いいのかい」
ベイルは聞きたいらしい。
ダメだ。こいつとは相性が悪い。
「ああああああっ」
よくはわからない。わからないが、叫ぶ前にベイルが小さくうなずいたので、奥さんは許容したのだろう。
素晴らしい妄想の世界だ。
素晴らしすぎて、聞くに堪えない。これ以上は、どうしたって無理だ。
だって、涙が出るほど哀れんじゃう。
「いいよ。行っといで」
ほんのり目じりに溜まった涙を拭い、おれはベイルの背中を押した。
「いいの?」
「ああ。呼ばれているのが勇者なんだから、君が行くのが当然だ」
これでお別れだ。そして、二度と会うことはないだろう。会ったとしても、そのときは無視だ。
「ありがとう」
村に向かって一歩踏み出すベイルに、鼻たれ坊主が言った。
「お前じゃない。母ちゃんとぼくが来てほしいのは、後ろの勇者様」
ビュン。と風を切り、スドドドド、と走り出す。
音を立てちゃいけない?
そんなことに構っている場合じゃない。大事なのは速さだ。一にも二にも、スピードだ。
掌返し? 二枚舌? 非難するならすればいい。謝れと言うなら、謝ろうじゃないか。
「ごめんなさい」
これでいいだろ。これ以上の文句は受け付けん!
では、さらばだ!
全力なら、ベイルからだって逃げられる。
「待てゴラ~」
叫び声がする。声が聞こえるということは、そんなに離れていないのだろう。
ガシャガシャ音もする。これはベイルが身につけていた鎧が奏でている騒音だ。
間違いなく、やつも走っている。
「許さんぞ」
声が遠のかない。
さすがは勇者。身体能力では引けを取らないらしい。
「八つ裂きにしてくれる」
ヤバイ。発する言葉が勇者のそれから逸脱している。
「お前はもう少し立場を考えろ」
「一人の人間として、間違ったことは言ってない」
マジでヤバイ。会話が成り立っているということは、距離が詰まっている証拠だ。
こうなれば仕方がない。奥の手を出すしかないな。
「地球のみんな。おれに元気を分けてくれ」
両手を上げることは出来ない。だが、元気がみなぎってきたような気がした。
「ブーストオン!」
近未来のモータースポーツよろしく、おれは加速した。
このとき後ろを確認してはいけない。その無駄な動作が減速に繋がってしまう。視線を切ったが故に、障害物にぶつかる可能性も生まれてしまう。
木やモンスターぐらいならなぎ倒せるような気もするが、一分一秒を争ういま、そのロスはいただけない。
「絶対に逃がさんぞ。首を洗って待っておけ」
ベイルの宣言を後ろに、おれはただ前だけを見て、ひたすらに走るのだった。




