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勇者現る

 異世界。

 名前は知らない。

 ただそこには、邪神殿に続くと言い伝えられている底なし沼があった。

 その沼には毒があり、触れた者は接触箇所から腐り、三日と持たず壊死する。なら触れなければよいのかと言えばそうでもなく、沼から立ち上るガスにも毒が含有されており、吸引すれば内臓から腐食してしまう。

 沼から一定の距離を取ることで毒ガスの濃度が薄まるのか、人や動物が死ぬことはなくなるのだが、動けぬ植物や大地は汚染され続けた。

 次第に沼は肥大化し、放っておけば死の星になるのは周知の事実であったが、無力な者たちにはどうすることもできなかった。

 諦め死を待つことだけが、残された手段だった。

 しかし、それを許さぬ者がいた。

 その者は不世出の偉大な僧侶と崇められており、巨大な神通力を有していた。

 自身の命と引き換えにしなければ、毒素に覆われた沼地に結界を張り巡らせることは不可能であったが、彼は喜んでそれを行った。

 沼には毒と一緒に異形の邪神がいたのだが、僧侶の神通力によって、毒もろとも封じ込むことに成功した。

 浸食された大地も年月とともに清浄化し、沼は元の大きさへと戻っていく。

 命を賭して得た僧侶の功績に皆が咽び泣き、親から子、子から孫、孫から曾孫へと、代々語り継がれる英雄譚が生まれるのだった。

 だが、いつからかそれは空想の英雄譚へと変遷され、僧侶は空想上の人物に化けてしまった。

 近づいてはいけない沼も同様で、近づかなければ『安全』な沼と誤認識された。

 だから、変化に気づけなかった。


 僧侶の死から三千年のときを経て、それが顕著になった。

 穏やかだった水面に気泡が浮き、気化した毒が結界内部の毒素を濃くしていく。

 長い年月をかけ毒の耐性を持った木や草が茂っていたが、無残にも枯れ朽ちた。

 強毒化したガスが、風船を膨らませるように結界内部の圧力を上げていく。

 爆発し毒ガスが散布されれば取り返しがつかなくなるのだが、結界にはヒビ一つ入らなかった。

 なにも変化はない。

 世界は平和だ。

 誰もがそう思っていた。

 だが、沼から異形の邪神の手が這い出したとき、それが間違いだと気づいた……はずだった。


 春……草木は芽吹かず、異形の邪神の手が肘まで出てきた。


 夏……暑さは届かず、異形の邪神の顔が出てきた。憎しみに目は吊り上がり、唇を苦々しく噛みしめている。


 秋……木々は色づかず、異形の邪神の胴までが這い出してきている。

 異形の邪神と結界の高さには開きがあるのだが、異形の邪神がその姿を現すごとに、結界が突き上げられるようにガン……ガン……ガンと音を立てている。


 冬……雪は積もらず、異形の邪神がその姿を現した。


「ガアアアアアアアア」


 一年かけ沼から這い出した異形の邪神が、大気を震わす咆哮を上げた。


「口惜しや! 我を封ぜし僧よ! その姿を見せよ! 我が引き裂いてくれる!」


 地団太を踏み、異形の邪神が怒気を開放する。その怒気が結界を撃ち、ヒビを入れた。


「貴様の代わりに民が死ぬぞ! それでもよいのか!」


 異形の邪神は知らないのだ。

 自身を封じた僧侶は、すでに死んでしまっている。どれほど再会を望もうが、それは叶わぬ夢なのだ。


「出てこぬか! いいだろう! 魔界で蓄えし我が力、とくと味わうがいい」


 異形の邪神から紫のオーラが立ち上った。


「爆ぜろ」


 弾となった紫のオーラが結界内で跳弾を繰り返し、先ほど入ったヒビを容赦なく広げていく。


「我が力はこんなものではないぞ」


 言葉通り、弾は大きさと数を増していく。

 だが、結界は割れなかった。


「忌々しい」


 歯噛みし、異形の邪神は結界内の弾を一つに集約させた。


「これは貴様を殺すために編み出したモノだが、手始めに貴様の結界を砕いてくれる!」


 球体だった弾が先端を尖らせていく。


「くらえ」


 弾丸のように撃ち出された弾が、結界に衝突した。

 地響きと共に爆煙が舞った。

 しかし、それが外に漏れることはなかった。

 持ち堪えた。かに思えたが、パリンッと砕ける音と共に、結界が割れた。


「あっはは。貴様が来ぬなら、この世界を死に染めてやろう」

「そうはさせん!」


 声がした。


「来たか」


 異形の邪神が舌なめずりをし、憎き僧を探す。


「どこだ」


 四方にいないのを確認し、異形の邪神が空に視線を移した。

 太陽と重なるように、だれかがいた。


「違う」


 そのシルエットが覚えている僧侶のそれではないのか、異形の邪神が怒りで顔を染めた。

 感情の起伏が原因なのか、毒霧が濃くなり、急速に周囲に広がり始める。


「フォールシールド」


 天から舞い降りた男がそう唱えた。


「なに!?」


 壊れたはずの結界が瞬く間に張り直され、異形の邪神が驚愕した。

 しかも、僧侶が張ったものより広範囲で、広がったはずの毒霧をすべて覆っている。


「貴様何者だ!?」

「名乗る名はない。ただ一つ言えるのは、おれはフリーランスの勇者だ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ふははははは。名乗る名はない。などとほざいたくせに、フリーランスと名乗っているではないか」


 高笑いを上げる異形の邪神をバカにする気はない。

 ここは日本とは違うのだ。

 フリーランスという概念はあっても、そう名乗る者は、この世界にはいない。

 解り易く言えば、ここは剣と魔法の世界である。名乗るなら、冒険者や旅人だ。

 だから、異形の邪神がフリーランスを名前と勘違いしたのも納得できる。

 訂正する気もない。というより、訂正している時間がない。


「いくぞ。覚悟しろ」


 一応宣戦布告だけはして、おれは異形の邪神に斬りかかった。


「なっ!?」


 一瞬で間合いを詰め、左腕を切り落とされた異形の邪神が驚愕した。


「せいっ!」


 返す刀で右腕を落とした。


「グアアアア。おのれおのれ、貴様、許さんぞ」


 苦痛に顔を歪め、異形の邪神がおれを睨んでくる。


「一思いには殺さんぞ。ジワジワと痛めつけ、毒の苦しみで地獄を見せてくれるわ」


 異形の邪神が、毒霧と沼をその身に取り込んでいく。


「恐怖に慄け。ダグライブ」


 呪文の効果で、両腕が再生した。

 いや、再生したというよりは、生え変わったと表現するのが正しい。

 黒い鱗のようなものに覆われていた肌から鱗が無くなり、汚水のようなものが滴っている。

 それが地面に落ちるたび、芝生が腐敗し朽ちていく。

 どうやら、すべての攻撃に毒属性が付加されたようだ。

 おれ自身、毒を無効化することはできないが、大きな問題もない。

 毒の霧が立ち込める現状、呼吸をすることは毒を吸うことでもあるのだ。万が一問題があるなら、おれはすでに倒れているだろう。

 感覚として若干のダメージを受け続けているが、問題ない。


「フハハハハハ、苦しそうだな」


 いや、そうでもない。

 ダメージを受けてはいるが……乗り物に酔ったから少し気持ち悪いな……程度だ。

 説明するのも面倒臭いので、おれは無言で斬りかかった。


「ギャアアアア」


 左肩から袈裟斬りにされ、異形の邪神が苦痛の悲鳴を上げた。


「貴……」


 様まで言わせず、もう一度斬った。

 トドメを刺すつもりで放ったのだが、異形の邪神も然るべきモノで、致命傷は避けたようだ。


「世界の半分をおまえにやろう。だから、我と手を組め」


 突然、異形の邪神がそんなことを言ってきた。相手にするつもりはないが、確認は必要だろう。


「手取りでいくら貰えるんだ?」


 俺の質問に、異形邪神が首をひねった。


「答えられないのか?」

「いや、手取りってお前……世界の半分って言ってんだからさ。そんなのいわずもがなだろ」

「絵空事を語るな! 具体的な給与額を言えっ!」


 おれの一喝に、異形の邪神が怯んだ。


「大体、いまを以て世界を手に入れていないお前が、なぜその半分をくれてやる、などとのたまう」

「それは……お前と我の力をもってすれば、こんな脆弱な世界……いとも容易く……支配……できるだろう」

「言葉が弱い! そして、未来設計がダダ甘だ! よってお前と雇用契約を結ぶつもりはない! さらばだ!!!」

「いや待て。もう少し話を」


 バカが。交渉は打ち切られたのだ。もし万が一再開したいなら、より有意義で具体的な提案を示せ。

 まあ、それを言っても無理だろう。


殱魔斬(せんまざん)


 なぜなら、おれの繰り出した必殺の一撃が、異形の邪神を縦一文字に切り裂いたから。


「バカな。バカなぁぁぁぁぁぁ」


 断末魔を残し、異形の邪神が消滅した。


「終わったな」


 刀を鞘に戻し、一息ついた。

 次の瞬間。

 俺の身体は空気に溶けるように色彩を失っていく。

 それほど苦しい旅ではなかった。

 けど、楽しいことなんてなに一つなかった。


「どちくしょー」


 精一杯の恨みを吐き出し、俺の存在はこの世界から消えた。



「おかふぇりなふぁい」


 気づいたら、おれの前には女神がいた。


「ごくろふさはでひた」


 真っ白な世界の中、唯一存在する豪奢な椅子に座り、一本串に刺した焼きイカを口いっぱいに頬張った女神が、おれの苦労を労う。

 顔は女神の肩書に恥じることなく気品と美を兼ね備えている。

 体より2サイズほど大きめな神官着を着ていることもあり、はっきりとしたスタイルはわからないが、まあ悪くはないだろう。

 キューティクルばっちりで艶やかに輝く髪には、いわゆる天使の輪が出来ている。

 厚すぎず薄すぎず絶妙に色っぽい唇ではあるが、イカ焼きを頬張ったときに付いたしょう油が、口の端から垂れている。

 外見上でマイナスをつけるとしたら、それだけだ。

 それほど、女神の容姿は整っている。


「あ、いけまへん。忘れていまひた」


 皿がないためイカ焼きを手放せない女神が、鮭をくわえる木彫りの熊よろしく、イカ焼きを横向きに加えた。


「へぇい」


 掛け声一発。

 無造作に床に放置された天使の輪を、女神が蹴り上げた。

 見事なものである。天使の輪は、女神の頭上で、ピタッと止まった。

 宙に浮いている。

 それも不思議ではあるが、蹴るならイカ焼きは手に持ったままでもよかったのではなかろうか。

 ドヤ顔をしている女神に訊けば、


「エンターテイメントを解さない者には、説明しても無駄です」


 と返された。

 ぶっとばしてえ。

 はっきりとした殺意を胸に拳を握るが、これを叩きつけることはできない。

 相手が女神だからできないわけじゃない。

 ()ろうと思えば()れる。

 瞬殺だろう。

 だが、それをすれば、おれは生きていけない。

 比喩や妄想ではなく、物理的に死ぬのだ。


 なぜ、こんなことになってしまったんだろう?

 つい三年前まで、フリーのIT屋だったのに。

 おれの運命はいつ狂ってしまったのだろう。


 まあ、あのときだよね。


 三年前のあの日、仕事で飛行機に乗ったのが運の尽きだった。


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