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迷い路にて光射すもの

作者: 森野雫

 それは物語の中では多々起こり得る出来事。

 たとえば不思議の国に迷い込んだ少女は家族の元へ帰るため様々な出会いを繰り返し、家路を追い求める。見知らぬ場所、奇妙な人々。勝手の違う世界に翻弄される少女の姿にはまさに物語らしさが溢れている。

 見知らぬ世界など所詮空想上のものでしかない。現実にはありえないからこそ、物語は面白い。


「なにこれ……」


 しかし、それには例外もあるようだった。


「ここ、どこ?」


 消え入りそうな声で呟きぽかんと口を開ける柚に返る言葉はない。周囲に人の姿もなく、気配すらしないのだから当然のことだろう。

 柚の目の前に小さな小屋が建っていた。

 戸には深緑色の暖簾が下がり『甘味処』の文字が記されている。ただの小屋ではなく飲食物を扱っていることがわかるが、この店の存在を柚は今まで知らなかった。そもそも、柚は自身が佇む場所が一体どこであるのか見当もつかないのだ。

 柚の前に建つ小さな甘味処。その周囲をぐるりと取り囲むのは背の高い木々で鳥達の囀りが至るところから聞こえてくる。

 状況から察するに、柚は林のような場所にやってきていることになる。だが、柚はこのような場所に足を運んだ覚えがない。学校からの帰宅中、友人達と別れ自宅まであと数分という距離に差し掛かった際に突然眩暈を感じきつく目を閉じた記憶はある。眩暈が治まるまでの時間はものの数秒だった。そのようなほんの僅かな時間で見たこともない林の中に佇んでいるなどあまりに現実離れが過ぎている。

 何かを考えようにも、非現実的な状況に頭が追いつかない。帰宅途中だったのだから家に帰るべきだが、ここは一体どこだろう。林の出口はどこにある。

 この時、柚の行動は早かった。目の前に店があるのだ、道が分からないのなら中の人間に尋ねるしかない。そう閃いた瞬間、柚は躊躇うことなく戸に手を伸ばしていた。

 店内に足を踏み入れた途端、香ばしいお茶の香りが柚の鼻孔を刺激する。思わず肩の力を抜いてしまいそうな優しい香りだった。

 こじんまりとした内部だが、甘味処と掲げているだけあって席は全て座敷になっているようだ。入り口から左側は畳に座布団、長机ではなく楕円形のちゃぶ台が配置されており味のある内装となっている。


「誰かいませんか?」


 座敷に人の姿はない。後ろ手に戸を閉めながら首を傾げる柚はさらに足を進め、ぐるりと店内を見回した。

 カタン、と小さな物音が聞こえたのはその時だ。

 びくりと肩を跳ね上げた柚は物音が聞こえた右側へ体を向け焦ったように身構える。そこは白い薄手の布で仕切られており透けて見える奥には薬缶や湯飲み、数枚積まれた皿などが確認できた。どうやら調理場のようだ。しかし、人の姿があるようには見えない。

 何かが床に落ちたのだろうかと仕切りを腕で押し上げさらに奥を覗こうと足を進めてみる。だが、無人の店にずかずかと踏み込むのはさすがに悪い気がして思うように奥の様子を窺うことができなかった。


「客人か」


 大きな悲鳴こそ上げなかったものの、柚は喉の奥を引き攣らせ心拍数の跳び上がった胸元を抑えながら勢い良く背後を振り返った。


「えっ……!?」

「偶然、ということではないのだろうな」


 突然届いた声に全身で驚きをあらわにした柚の視線の先には湯飲みを手にした男が腰を下ろしていた。ちゃぶ台を前に茶を飲んでいるようだが、ほんの一瞬前には誰もいなかったはずだ。

 柚の心臓は早鐘のように脈打ち、声を上げることすらままならない。硬直したまま、男の姿を見つめることしかできなかった。


「面倒なことになっているようだが……」


 低くて張りのある穏やかな声色が妙に納得した様子で溜息混じりの言葉を零した。

 線が細い体を包む紺色の着物。帯は金茶で派手さはない合わせ方だがこの男が身に纏うと非常に品があり、仕立ての良さが感じられた。しゃん、と伸びた背筋に普段から和装を着こなしていることを窺い知れる。

 年齢は二十代後半くらいだろうか。濃紺の髪が白いうなじへ不揃いに流れ妙に艶っぽい印象を受ける。硬派で涼しげな雰囲気に若干の近寄り難さを感じるも、それがこの男の魅力のように思えてしまうから不思議なものだ。

 特に意識しているつもりはないのに、柚は何故か男の姿から目が離せなくなる。理由は分からない。だが、吸い寄せられたように視線を逸らせない。

 何よりも柚を惹きつけるのが男の真っ直ぐに伸びる眼差しと、その瞳の色だ。

 例えるならそれは地平に沈む、燃えるような太陽の色。単純な赤ではなく僅かな物悲しさを覚えてしまう日暮れの橙。藍に染まる空の片隅で最後まで揺らめく鮮やかな色が男の瞳に宿っている。

 綺麗な人だ。

 自身に降り注いだ奇妙な現状を忘れ、柚はただ男の姿に惹きつけられる。瞼の裏にまで焼きつけようと男の姿を凝視してしまう。思考は止まり、指の一本すら動かせない。うるさいくらいに鳴り響いてた心臓の音はいつのまにか凪いでいた。

 一日の終わりを告げる橙色がゆるりと瞬く。伏せられ、再び現れる瞳の鮮やかさはまるで夢のようだった。


「迷いでもしたか?」

「え、」

「ここではよくあることだ。それも仕方ない」

「え、あの」


 一人納得するように呟く男は戸惑う柚を気に掛ける様子もなく、手にした湯飲みに口をつけのんびりと茶を啜った。


「お店の方、ですか?」

「生憎、店主は留守でな。俺は店番を請け負っているだけだ」


 男は首を振り、座敷に直接湯飲みを置くとおもむろに立ち上がる。男の動きに合わせその橙色を目で追うと柚の胸の奥がそわそわと妙に落ち着きをなくしていく。

 もっと近くで見てみたい。日暮れの色を覗いてみたい。

 初対面の相手に抱くはずのない感情が柚の内部にふつふつと溢れてくる。それを言葉として表現するには少し難しい。ただ、綺麗なものを近くで見つめてみたいと騒ぐ声が心の奥から溢れて止められない。


「ここを抜けたいか」


 さらりと事もなげに男が言うものだから柚は一瞬、その言葉の意味を理解することができなかった。

 男の言葉を頭の中で反芻する。この店に飛び込んだ目的。忘れたつもりはなかったが、ほんの僅かな間だけ見事に本来の目的を頭の隅に追いやってしまったようだ。

 はっとした表情で男を見上げるも、上手く言葉をまとめることができなかった柚は首を大きく縦に振る忙しない動作で応じる。

 ふい、と男の瞳が柚から逸らされ店の戸を映した。


「ならばまずは外へ」


 促されるように。あるいは、導かれるように。

 それが当たり前であるかのように彼の声に従い、柚は再び暖簾をくぐり店の外へと足を向ける。覚えのない周囲の景色はやはり妙だが、今は男が放つ独特の雰囲気に意識が浚われてしまう。

 店先から一歩足を踏み出したところで立ち止まった柚には目もくれずに、男は静かな歩みでその先を行く。


「あの、すみません」

「なんだ」

「えっとですね、その、よければ名前を教えてもらっていいですか?」

「あぁ、なるほど」


 おずおずといった様子で尋ねた柚を振り返ることなく男はさらに数歩足を進め、立ち止まったかと思うと何かを考え込むように空を仰いだ。

 水色の空に薄っすらと日暮れの色が混ざり始めていた。男と同じ、橙色。日が沈み始めればその色は段々と濃く、強くなりあっという間に夜が訪れるだろう。

 男の次の言葉を待たずに柚は早足ですらりと伸びた和装の背を追い越す。男の正面に回り込み、意を決した思いで橙色の瞳を見上げれば彼の視線は静かに柚へと落ちてくる。


「私は柚って言います! 気付いたらこのお店の前で、困ってて」


 若干早口になりながら名乗った柚に対し、男は小さく頷き肩を竦めてみせた。


「災難だったな」

「はい」

「……いや。しかし、名前か」


 引っ掛かるものがあるらしく、男は顎を引いて押し黙ると柚から視線を逸らした。

 その間にも空の色合いは着々と変化を始める。水色はじわり、じわりと濃紺へ変わり夜の足音が聞こえてくるようだ。空に差す橙色もさらに色味を増し、燃えるように空へと広がっている。日没が近いのだろう。風にほんの少しだけ冷たさを感じた。

 男が艶やかな髪を風に揺らされながら柚の背後へと視線を向ける。釣られるようにその先を追ってみると、奥に獣道に似た細い小道が見えた。


「あの小道を行け。通り方を間違えねば、帰りつく」


 妙な表現だと思った。

 ただの道に通り方などあるのだろうか。頭に疑問符を浮かべ、柚はどう男に応えるべきかと視線を泳がせた。

 しかし、男はそんな柚の様子を気にも留めずゆっくりとした足取りで小道へと近付いた。足音も立てずに柚の真横を通り抜け、細身の背は道を塞ぐようにその中央へと佇む。影が落ち始めた周囲に濃紺の着物が滲み、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。

 ふと、柚の中に不安とよく似た不確かな感情が伝い落ち小さな波紋を生んだ。それはとても穏やかな波だったが、ゆらゆらと広がり決して打ち止められることはなかった。


「帰りたければ前だけを見て歩くことだ」


 そう言うと男は着物の袖を揺らしながら振り向き、鮮やかな眼差しを柚へと投げ掛けた。

 名を呼ばれたわけでもないのに傍へ寄るべきだと感じた。無意識のうちに足が動き、気付けば柚は男のすぐ隣へと駆け寄っていた。

 息を潜め、奥へと続く小道の様子に目を凝らす。辺りで囀っていた鳥達の気配も今はなく、日が沈み始めたことで薄暗さを伴う林の内部は静寂が満ちていた。


「周囲を見渡しては駄目だ。特に、背後は絶対に振り返るな」

「それはどうして」

「連れていかれてしまうぞ」


 ひやり。

 首筋を撫でていく風に背筋までもが妙な寒気を感じてしまう。まるで誰かに見られているような、背にいくつもの視線が届いているような感覚がある。人の姿などありはしないというのに。


「人間達が知らぬだけ。俺達は、案外すぐ傍にいる」

「何の話、ですか」

「危害を加えるつもりはない。悪戯の度が過ぎる場合はあるがな」

「脅かすのは無しですよ……!」

「好きなように受け取ればいい。ただ、帰りたければ振り返るな。悪戯好きの者は多くいる。今のこの状況がまさにそうだ」


 男の不安を煽るような言葉に柚はつい尻込みしてしまう。帰らねば、という気持ちはあるのにそのための一歩が中々踏み出せないのだ。

 そんな可笑しなことあるわけがない、ときっぱり言い返してやりたい。けれど、それができない。


「行かぬのか?」


 小道を躊躇いがちに見つめ、迷っている柚を不思議そうな顔で見下ろす男に若干の腹立たしさを覚えた。だが、男の言う通りでもある。先に進まねば帰ることは叶わないのだ。


「……行きます。ありがとうございました!」


 弱気な自身を奮い立たせるため、柚は大声で男に礼を告げると胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 一度呼吸を止め、長くじっくりと息を吐く。さらにもう一度深呼吸を繰り返し、柚は目の前に伸びる小道を強く見据えた。迷っていたところで状況は何も変わらない。男の言葉を信じ、進むしかない。

 柚はゆっくりとした速度で小道へと足を踏み出した。

 男との距離が離れてしまうのは少々心細い。背後に感じる男の気配は動き出す様子がなく、柚の背を静かに見つめているようだ。


「土産に一つ、まじないを贈ろう」


 突然投げ掛けられた言葉に思わず振り返ってしまうところだった。


「お前は先程、俺に名を尋ねたな」

「え、そうですけど」

「時刻にしても良い頃合いだ」


 男の声に耳を傾けるべきか、このまま進むべきか。戸惑った柚が足を止める間にも男は静かに言葉を重ねる。

 決して大きな音ではないというのに、男の平淡な声色はしっかりと柚の耳元へ響いてきた。

 それはすぐ近くで囁かれているようでもあり、遠くから風に乗って運ばれてきているようでもある。男の声に意識が集中した。柚のざわめく胸中が一切の感覚を遮りしん、と静まっていく。


「――暁」


 それが男の名であることはすぐに分かった。

 届いた言葉の響きがまるで違う。耳だけでなく、柚の五感全てに溶け込んでくるような声色だ。そこに含まれる特別な何かを全身の神経が一瞬で理解する。


「闇が深まるにつれまじないの力は強くなる。安心して先を行け」

「それはどういう……」

「夜明けだ」


 さぁっと戯れるように風が吹き、制服の裾を揺らしていく。不思議と冷たさは感じなかった。


「夜明けの光を苦手とする者は多い。ゆえに、俺の名はまじないとして有効だ。お前に近付く者はないだろう」


 だから行け、と背を押された気がした。

 見えない力に促され柚は再び前へ歩み始める。男の言葉に納得したわけではないが、朧げな感情の波はすでに姿を消していた。このまま先へ進めばいいのだ。振り返る必要はどこにもない。

 考えてみれば男の存在もまた妙なものだった。

 柚の前に唐突に現れただけでもおかしなことであるし、言動も全く噛み合わなかった。妙というより、奇妙と表すべきかもしれない。

 しかし、それでも男の持つ瞳を美しいと感じたのだ。鮮明な色が脳裏に刻まれ、忘れられない程に。


「あ……、」


 ふと柚は気付いてしまった。

 燃え立つ日暮れに似た橙色の瞳。そして、夜明けを意味する男の名。


「太陽、二つも持ってるんですね」


 柚の呟きが届くはずはなかったが、徐々に遠くなる男の気配がふっと柔らかに微笑み何処かへと掻き消えた気がした。

 今はもう、確かめようがないことだった。

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