TOKYOオリンピックを3カ月後に控えた20XX年。
TOKYOオリンピックを三カ月後に控えた、20XX年、春。
東京の町は、活気に満ちていた。すべての競技のチケットは完売。スポーツだけでなく、芸術にも関心が高まり、歌舞伎や能、寄席などのチケットも飛ぶように売れ、常に満席状態だ。客のほとんどが、外国人観光客だった。リニア新幹線が、北は北海道、南は鹿児島まで延伸したことにより、会場は日本各地となった。
オリンピック開催中は、「リニア一日乗車券」なるものが発売される予定である。
すべての施設が予定通り完成し、準備万端に見えた。ただひとつ最後の課題を残して。
それは、ホームレス対策であった。華やかに見える東京の街、その裏で貧富の差は拡大し、ホームレス人口は過去最大となっていた。ブランドショップが立ち並ぶ、きらびやかなストリートから一筋外れると、狭く汚い路地があり、ひしめき合うように古い建物が残っていた。そこには超低所得者と呼ばれる者たちが住んでいた。そこに住んでいる者はまだましなほうで、公園、河川敷、ガード下、公衆トイレの屋根裏など、ありとあらゆるところにはホームレスが住み着いていた。景観を損ねないよう、人権団体によってブルーシートのかわりに茶色いシートが配られたが、ホームレスの存在自体が、「美しい国日本」にとって、恥ずべき汚点であった。
ホームレスのほとんどが、2020年の東京オリンピックを青春時代に体験していた者たちだ。
「おばあ」もその一人だ。仲間から「おばあ」と呼ばれている女の年は、78歳。真っ黒なボロ布のような服を身にまとい、いつも背中を丸めてベビーカーを押している。粗大ごみ置き場から拾ったものだ。ベビーカーにはボストンバッグがのっていて、そこには、おばあの全財産が入っていた。髪は灰色でぼさぼさに膨張し、ロング。拾った靴ひもで束ねてある。しわくちゃでシミだらけの浅黒い顔をしている。黒服の袖から見えているは黄色い腕輪が異様だ。
前回の東京オリンピックのとき、おばあは20代でOLをしていた。テニス経験があり、大阪なおみというお気に入りの選手もいた。
今回は、公共の大型モニターで観戦しようと思っている。区役所や駅前に、大型モニターが次々と設置されている。オリンピックのことを考えると、昔の楽しかった時代を思い出す。日本中のだれもが、TOKYOオリンピックを楽しみにしていた。
半世紀前、東京オリンピックが開催された2020年、低迷していた景気はいっきに回復した。給料はアップし、ボーナスは倍増。
平成のバブル時代を知らない30代、40代は、資産を増やそうと土地を買い、マンションを買い、株を買った。先輩たちから話に聞いていた、バブル時代の派手な遊びを楽しんだ。
50代は、手堅く、住宅ローンを繰り上げ返済し、老後のために貯金をした。
60代前後は、早期退職制度を利用し、割増しで退職金をもらい、元本保証の年金に変えた。
20代には、結婚ブームとベビーブームが訪れた。秋篠宮家の宮さまがKさんとの愛を貫いて、めでたく結婚されたことも大いに影響し、カップルは次々と結婚、子供をつくった。相手がいない者は結婚相談所に登録し、婚活パーティーに参加。直感で結婚を決めた。
景気がよくなり、法人税収入が増加すると、政府の少子化対策は、「仕事と子育ての両立支援」から「自宅保育応援」に変わった。
わずかな収入のために、パート収入の半分を保育所に払って子供を預けて働いていた主婦は、3歳まで支給される「自宅育児手当」をもらうために、仕事を辞めた。
首都圏の慢性的な保育所不足と保育士不足は解消され、あふれていた待機児童はゼロになった。「自宅育児手当」は、これ以上保育所を建てる場所がない東京の苦肉の策でもあった。
そもそも、少子化対策でうたっていた、仕事と育児の両立を応援する政策は、女性からも税金を取るための口実であった。
保育士が不足していたのは、仕事が重労働だからである。それは、すなわち子育てが大変であるということだ。国が湯水のごとく補助金を出しても、企業にとっては割にあわない事業であった。特に人件費がかかる0歳児は、リスクが高い割に利益はない。なにかあれば、すぐ訴えられ、近所からは泣き声がうるさいと苦情がくる。国は、保育所の建設や保育士の育成のための予算を「自宅育児手当」に当てたのである。ひと月15万という高額な「自宅育児手当」がベビーブームに火をつけたと言ってもいいだろう。
それでも、大企業が社内の掃除を業者にまかせるように、一部の年収の高い女性は、どんなに高い保育料を払っても、育児はプロに任せた方が楽で、安上がりであると感じていた。
女性は、退職をして、正社員という地位を捨ててしまえば、再就職は難しい。子供がいたらなおさらだ。仕事が好きでなくても、育児が苦手な女性は、育休をとり、育児休業手当をもらったあと職場復帰し、一年働いて第二子を出産し、また育休をとる、というようなことをして正社員の地位を守っていた。子供を保育所に入れ、定年まで正社員で働いて退職金をもらうほうが裕福な生活ができる。子供を保育所に入れることは、社会における分業だと考えた。悪い言葉でいえば、育児を下請けに出すようなものだった。人の命を預かる保育士という職業でさえ、下請けのような扱いをされていたといってよかった。
いつの時代にも下請けの末端には、悪条件の下で、汗水たらして、身を削って働いている日雇い労働者たちがいた。
「育児ファースト」という言葉が流行語大賞をとり、出産を機に退職することが、子供のためにもよいことであるという風潮に誰もがまどわされた。
退職する女性が増えると、会社は新卒の女性社員を雇う余裕ができた。思いがけなく、新しい雇用が創出されたのだ。高齢の社員が早期退職したこともあって、求人が増え、学生にとって、就職活動はますます売り手市場になった。企業はあの手この手で福利厚生を充実させたり、基本給を上げたりして、優良企業をアピールした。
今まで、お金のために仕事と育児をなんとか両立させてきた女性は、煙たがられながらも居座っていた会社を辞め、いつか子育てが終わって、もっといい条件の会社に再就職する日を夢見て育児に専念した。
おばあも例外ではなかった。オリンピック後に婚活パーティーで知り合ったIT会社経営の男性と結婚し、男児を産んで専業主婦になったのである。
おばあは、それなりに裕福な生活をしていた。高層マンションに住み、毎日贅沢な買い物をした。
これから数年間、ますます景気はよくなるだろうという希望的観測から、株は買われ、株式市場は活性化した。儲けるなら、今のうちという考えが株価の上昇に拍車をかけた。株価はふくれあがり、だれもが、下がりはじめたらすぐ売るつもりで、監視していた。
そして、ついに終わりの日は来た。スマートフォンの普及で、株式市場の反応は早かった。連日、ストップ安になる銘柄が続出、あっというまに、日経平均株価は3分の1になった。オリンピック景気はたった三年で終息したのである。
おばあの夫の会社は莫大な損失を抱え倒産、破産を申請した。おばあの家族は、小さな古いアパートに引越し、質素な暮らしをした。夫は真面目な性格だったが、仕事は長続きしなかった。ひとに雇われることに慣れなかったのだ。転職を繰り返したのち、小さな会社を立ち上げた。
「自宅育児手当」の支給が終わる前に、おばあは子供を保育園に入れ、就職先を探しはじめた。しかし、資格も特技もないおばあに道は開けなかった。正社員の求人は少なく、まして子持ちの女性を雇ってくれるところはなかった。パートでさえ、子持ちは嫌われた。面接で聞かれるのはいつも「お子様が病気になって保育園を休まなければならないとき、面倒をみてくれる親族は近くにいますか」といったことだった。おばあも夫も両親は地方にいたため、援助は望めなかった。
しかたなく、数社の派遣会社に登録した。二日前にウェブにて勤務の希望を出しておけば前日指示メールがくる。指示にしたがって、派遣先に出向く。交通費は出ない。仕事がなければ指示メールは来ない。派遣先はいつも忙しく、暑かったり、寒かったり、酷い条件のところばかりだった。
子供の病気などで急に仕事を断ると、二度と仕事はもらえなかった。そうなれば、別の派遣会社を探した。その繰り返しで、毎日違う現場で日雇い労働者として、安い時給で働いた。おばあは、育児休暇を取ってでも、会社にしがみついていればよかったと後悔したのだった。
おばあがホームレスになったのは、五年前、73歳のときだ。夫と息子はすでに他界。息子は独身で亡くなったため、身寄りのものは誰もいなかった。20年前、夫が亡くなったとき、会社は清算した。かろうじて、借金だけはなかったのが救いであった。その後は、年金と生活保護で暮らしていた。年金は、貧乏暮らしで保険料未納の期間が長かったため、わずかしかもらえなかったが、なんとか暮らしていくことができていた。できれば、夫と息子と暮らしたこの小さなアパートで、最期のときを過ごしたいと願っていた。
しかし、TOKYOオリンピックの開催が決まると、おばあはアパートからの立ち退きを余儀なくされた。もともと、道路になる計画は昔からあり、そのため、この古いアパートは、長い間建て替えることもなく、築100年にもなっていた。アパートの住人は、引っ越し代をもらって次々と引っ越した。住人はついにおばあだけとなった。特に、意固地になっていたわけではない。役所から役人が来て、相談にものってくれたが、低所得の高齢者が入れる家は、都内にはなかった。家はなくなったとしても、この土地に骨をうずめたいと願っていた。
ある温かい春の日、おばあは大家やさんあてに「親戚の家にいく」と書置きを残し、夫と息子の位牌と着替えや防寒具など、身の回りの物をボストンバッグに詰め、家を出た。
初めに住んだのは、公園の土管の中だった。マイナンバーカードがあれば住所不定でも年金を受け取ることができたので、お金には困らなかった。お金が底をつくと炊き出しにならんだり、コンビニの残飯をあさったりして、次の年金受給日までしのいだ。
初めは、銭湯も定期的に行き、清潔を心掛けた。今では、ときどき誰もいない夜中の公園で体を洗っている。年はとっても、人目は気にしているのだ。
ホームレスたちは管理されることを嫌った。働く意欲のある者には、完璧な支援が用意されている世の中であったので、自分から好んで、路上生活をする者だけが、ホームレスとなっていた。
ホームレスを、管理されていると気付かれないように管理し、オリンピックまでに東京の街から一人残らず排除することが、政府の最後の課題だった。秘密の国家プロジェクトとして、計画は順調に進んでいた。
まず、政府は、公共工事の日雇い労働者としてホームレスを雇う計画を立てた。
大深度地下に選手村と競技場を直線で結ぶトンネルをつくる。テロを警戒して、公表はされない。
トンネルの入口となるエレベーターがあるビルに行くには、一般の人がけっして通ることがない狭く汚い路地を通っていく。
初回に、番号が付いたビニール製の黄色いバンドを手首に付けてもらえば、老若男女問わず、誰でもトンネル工事の仕事をもらうことができる。そこで働くには、身分証明書も保証人もいらない。名前さえ必要ない。バンドは簡単にとることができなくなっており、一度はずしてしまうと無効になる。
労働時間は、一人一日1時間と限定されているが、バンドを持っている者は、二十四時間いつでも働くことができ、給料はその日に現金で支給される。街は、徐々にバンドをつけたホームレスが多くなっていったのだった。
オリンピックまで、3カ月をきったある日。地下トンネルの完成が間に合わないという理由で、工事は突然中止になった。
造りかけの地下トンネルは、バンドをつけたホームレスのために解放された。ホームレスたちは、こぞって段ボールを持ち込み、独自に家を建てた。おばあもそのとき、地下道に移り住んだ。
トンネルの中は快適だった。ある程度の照明や空調も働いていた。
ホームレスたちは、トンネルの両側の壁沿いに自分のスペースを陣取った。絶え間なく続くその距離は十キロ以上にわたった。
出入り口は何か所もあり、出入りは自由だ。
地下トンネルが解放されたことは、口コミでホームレスの間に広がり、多くのホームレスが地下へと移った。だんだん、公園や河川敷からホームレスの家は消えて行った。
それでも、好んで地上に残る者もいた。ホームレスにしては立派な家を持ち、自炊をしている者たちだ。公園の「ナカさん」も地上に残った者のひとりだ。ナカさんの素性はわからないが、おばあとは5年来のつきあいで、炊き出し情報などを教えてくれたのもナカさんだった。
トタン板やベニヤ板で作られた家は、多少の風雨には耐えられたが、大雨のときは、さすがにホームレスたちも避難する。避難先として、地下トンネルは最適であった。
トンネル工事が中断し、ホームレスの仕事はなくなったが、業者による工事は続き、トイレや大型モニターが数か所設置された。
週1回、トンネル内でおにぎりの配給も始まり、ホームレスたちはトンネル内で過ごす時間が長くなった。
オリンピックの1カ月前、計画が実行される日がきた。
深夜2時頃、都心部をゲリラ豪雨が襲った。川はみるみるうちに増水し、河川敷のホームレスは着の身着のまま地下道に避難した。公園もあっというまに大きな水たまりと化した。ホームレスのほとんどが、地下道に避難した。
だが、そのときおばあは外にいた。終電も終わり人通りもなくなった深夜、公園の噴水で体を洗うため、地上に出てきていたのだ。それが、2時頃のことだ。
突然、花火のようなものが数発空高く上がっていくのをおばあは見た。その後だった。星が出ていた空に、暗雲が立ち込めたかと思うと、ボツボツと大粒の雨が降り出したのだ。それから豪雨が数時間続いた。
おばあは、雨を利用して体を洗い、服の洗濯もした後、公園の土管の中でひと眠りした。
ガシャン
明け方、大きな物音で目が覚めた。作業服を着た男たちが、ナカさんの家を壊して、トラックに載せているのだ。おばあは、呆然とその光景を見ていた。
公園の一部を不法占拠して建てられた家は、いつ撤去されても文句は言えない。それでも、鍋や布団が無造作にトラックに放り込まれているところを目の当たりにすると、むなしくなった。戻ってきて何もなくなったのを知ったナカさんはどう思うだろう。コツコツ集めた家財道具がすべて一瞬でゴミになった。おばあは思った。何も生産せず、税金も払わず、年金だけをもらって自由に暮らしている自分たちも社会のゴミなのではないか。
おばあは、地下道に戻ることにした。公園を出て、地下道に通じるエレベーターがあるビルに向かった。しかし、ビルに行くことはできなかった。路地が見当たらないのである。まるで、そんな路地など最初から存在しなかったように。
おばあは公園に戻った。ひとり、ベンチに座って考えていた。公園にあったナカさんの家はすっかりきれいになくなり、はじめからなかったかのようにすっきりしている。汚い路地も塞がれて、わからなくなった。まるで、別世界に取り残されたようだ。日は上り、街が動き出した。そろそろナカさんが戻ってきてもいいころなのに、戻ってこない。
数カ月前、若い汚い身なりの男に声をかけられたことを思い出していた。若いといっても、おそらく50代だろう。しかし、70代のおばあから見たらじゅうぶん若い男だった。無精ひげがワイルドでイケメンだと思った。ひげを剃り、きれいな服をきたら、きっとダンディーで素敵なんだろうと想像した。そんな男が、最近わけあって家をなくして路上生活をしているのだが、近所で炊き出しをしてくれるところはないかと尋ねてきた。おばあはていねいに教えてあげた。そのとき、男の手首に黄色いバンドがあり、地下トンネルの存在を知った。トンネル工事の仕事は紹介制で初回はバンドを持つ者と一緒でないと、地下に行けないとのことで、男に誘われるままバンドをもらいに行ったのだ。若い男といっしょに歩くことに年甲斐もなくドキドキしながら――。あれきり、あの男とは一度も会っていない。あの男は、何者――?
「もしもし」
ふいに声をかけられて、おばあは我に返った。警察官が二人いる。
「ちょっと、いっしょに来てもらえますか?」
政府は、ホームレスたちを一か所に集めることに成功した。そして、蓋をした。
ただのバンドだと思っていた手首のバンドには、超薄型の発信機が内蔵されていた。隠しカメラで顔を撮影し、番号をつけて管理していた。指名手配犯や捜索願が出されている者は、画像から特定され、居場所を割り出されて、捜査員に連れて行かれた。地下トンネルは、初めから選手のためのものではなく、ホームレスを収容するためのものであった。
オリンピックが始まった。最新式の気象コントロールシステムによって快晴となった。あの豪雨をふらせたシステムによって。
地下のホームレスたちは、毎日おにぎりの配給を受け、地下の大型モニターでオリンピックを観戦した。そこに、おばあもいた。警察に保護されたのち、連れてこられたのだった。地下道の扉は内側からは開けられない。これから先のことは考えてもしかたない。今はただ、オリンピックを観戦するだけ――。
そのころ、地上では官僚だけで会議が行われていた。
「地下空間の汚染物質ですが」ひとりのダンディーなイケメン官僚が言った。「スピード感をもって解決策を練るようにとの、総理のご意向です。なにしろ、オリンピック終了まで時間がない」
「オリンピックが終われば、汚染物質が地上に上がってくるおそれがあります――」
「今はまだおとなしくオリンピックを観戦していますが」
「幸い、地下トンネルの存在は世間には知られていません」
「このまま彼らがいなくなっても誰も気付かないと思います」
「しかし、――」
総理は、はっきりとは指示しない。忖度するべきなのか――
おばあは、毎日夢を見た。夫と息子と三人で楽しく暮す夢を。そして、目覚めて思う。ゴミは埋め立てられるのですか?




