IF31.〜もしも理不尽に怒ったら〜
「っ、何してんだよ!変態!」
パンッ!と、快音がざわめきの世界に響く。
俺は気がつくと、坂本のことをビンタしていた。
「………へ?あ、ご、ごめん」
坂本はすぐに俺の胸から手を離し、身をよじって出ようとするが、それよりも早く俺が飛びのいた。
「…………なんで触ったんだよ。その、俺の、その………む、胸を!」
顔がみるみる赤くなっていくのがわかる。思わず手を頬に当てて冷やしてしまうほどに。
「あ、いや、それは不可抗力というか、それに、飛んできたのはそっちだろ?」
「うるさい!言い訳すんな!なんで俺の、む、胸を!触ったかって聞いてんだよ!」
「あいや、だから不可抗力だって………」
そんなの、わかってる。俺が1番わかってるんだ。
坂本は悪くない。詩音を倒したのは許せないが、バスケのプレイの最中の出来事といえばそれまでだ。
そこに飛びついて行った俺が悪い。そんなことはわかってるんだ。
だけど。
坂本は悪くないとわかっているのに、体のそこから羞恥と怒りがふつふつと沸いてきて、その激情の奔流に流されて、つい口から怒りが吐き出されてしまう。
そして何より、「胸」という言葉すら恥ずかしくて言えないような自分が腹立たしくて仕方なかった。
まるでいっぱしの女の子のように恥ずかしがっているような自分が何より恥ずかしかった。
だからだろうか。だから、この嫌悪とはまた違う感情を、坂本に感じてしまうのだろうか。
「あ、あの、落ち着いて――――――」
「落ち着いてられるかッ!!!!」
差し伸ばされた手を、勢いよく払う。
と、手の方を見ると、その手は詩音のものであった。
「ご、ごめんなさい」
「あいや、こちらこそ……………」
ごめん。その言葉は、飲み込まれて、消えた。
「…………俺、もう帰るね」
「日比野、その、俺…………」
坂本が俺に何か話していたが、聞こえないふりをしてその場から走りだした。
いつもなら俺を取り巻いて離れないようなうざったい野次馬どもも、俺に道を開けるように退いていく。
まるで、避けるように。
まるで、俺から離れていくように。
何かが体から消えていく感覚が俺を苛む。
その何かは、何か得体の知れないものであったが、それが大事なものだという感覚はあった。
だけど、それを掴んで離さないためには力が足りなくて、非力な俺では取り戻すことができなくて、その感覚に身を委ねるように脱力する。
人目もはばからず叫びながら走って、その施設から飛び出した。そして、止まっていたシャトルバスに飛び乗った。
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「坂本さん、その、大丈夫ですか?」
「………あー、うん、大丈夫ですよ」
坂本は、叩かれた頬をさすりながら、できる限りの笑顔を繕って詩音に返事をする。
日比野が居なくなってから、坂本と詩音は、そこに取り残されるように、帰っていなかった。
「詩音さん。今日は、帰っていいですか?」
消えてしまいそうなほど儚い声で坂本は言う。
「あ………はい。私、なんて謝ったらいいか」
「謝らなくてもいいですよ!…………………その、悪いのは僕なんで」
ははは、と乾いた笑いをこぼす。しかしその声も、すぐに力なく消えた。
「そう、ですね………」
「そうですよ。だから、ね?今日はもう帰―――」
「でも悪いのは日比野咲さんですよね?」
冷たくて、ともすれば形を持って突き刺してくるような声が、不意に聞こえる。
気のせいか、と思って坂本は辺りを見渡す。
「悪いのは日比野さんですよ」
またもや、冷たい声が聞こえる。
今度ははっきりと見た。声の出所は他でもない、詩音のものであった。
「あいや、悪いって、そんな…………」
否定しきれず、苦笑いするしかない坂本に、つけ離すような声が降りかかる。
「だって、今日遊ぶことになったのはあの人が考えなしに動くからですよね?流れで私が誘いましたけど」
「あの人の『せい』って………」
お経のように淡々と、しかし底冷えするような寒さを持った声が、坂本を包み込む。
体中の血液が冷えて、まるで体温を失ったかのように寒くて、思わず、震える。
その震えがなんの感情によるものか、坂本は知らない。
「彼女が勝手に倒れこんで、不可抗力で貴方は胸を触ってしまった。この行為によって貴方の尊厳が傷つけられた。しかし彼女は謝るどころか、逆に怒ってきた。こうして事実を並べれば、わかりませんか?」
先ほどの豊かな表情が嘘のように、顔の筋肉が重力に付き従っている。
その詩音の突き刺すような瞳が、坂本に反論を許さなかった。
「貴方はあの人の行為に、腹を立てていることはありませんか?」
一歩、坂本に歩み寄る。
「無理矢理させられていることはありませんか?」
一歩、今度は優しい声で語りかけるように言う。
「なぜこんな事をしなきゃいけないんだと思ったことは一度でもありませんか?」
一歩、今度は坂本の手を取る。
「ぼ、僕は…………」
見上げるようにして見つめる彼女の瞳に思わずたじろぐ。
視線が交差し、気持ちが交わる。
坂本は、手を握られて、その暖かさに包まれて、彼女の気持ちを知った気がした。
思えば、だ。
坂本は、日比野正樹と同じクラスであったが、それも1年前の話。その時ですら、そこまで仲良くなかった。
それを、日比野は女の子になったら急に距離を詰めてきて、助けを坂本に求めてきた。
そして一方的に秘密を話され、強制的に協力させられた。
だがここまで協力してやってるのに、坂本は一度たりとも心から感謝されたことはない。
これからも協力してやる義理は、ないんじゃないか?
友達?友達ってなんだ?
そんな考えが、気持ちが、坂本の中を渦巻く。
第一、あいつは本当に日比野正樹なのだろうか?フリをしているだけなんじゃないか?
自分との秘密を知ってただけで、日比野正樹と決めつけるのは、浅はかなのではないか?
思考がまとまらず、坂本は悩む。
本当に自分は日比野正樹を助けたいと思っているのか、そもそも日比野正樹と日比野咲はイコールなのか。
思考の海に、溺れてしまっていた。
「坂本さん!」
呼ばれて、ハッとなる。
「心当たりが、あったんですね?」
返事は、ない。だがその沈黙を肯定と受け取ったようだ。
「じゃあ、少しだけ立場をわからせてあげましょう」
「立場を、わからせる?」
半ば夢うつつの状態で、坂本は返事をする。
「そうです。今までしてあげた分、彼女にも対価を払ってもらおうというわけです」
詩音の声は、もう冷たくない。
しかし今は、恐ろしいほどの得体の知れない激情が、この場の端々から滲み出ていた。
その激情に、坂本は飲まれる。
詩音の言う通りなのではないか?
坂本の頭の中に、そんな考えが浮かぶ。
彼女は自分の悩みを理解してくれる。彼女なら、助ける価値があるのではないか。
そして、彼女は自分すらも助けてくれるのではないか。そんな思考が、さも正論の如く、坂本の全身の細胞を洗脳していく。
「…………はい、わかりました」
思わず口走った言葉は、坂本の意思とは関係なく外の世界へ旅立っていく。
一度口にした言葉は、もう消えない。
それがわかってるから、坂本はもう後戻りは出来ないことを、感じていたのだ。
坂本の手を握る詩音の体温が、坂本の体の中にとめどなく伝わってきて、体は温まったのに、心は酷く凍えていた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
シャトルバスに乗って、席に座ると、窓によりかかった。
窓に反射して映る自分の顔を見ると、何故だか目が腫れて、頬を伝う水があった。
ハッとなって拭う。涙である。
「…………泣いてたのか」
人の少ないバスの中で、俺は小声で言う。
今更ながら、坂本を心配する気持ちが湧き出てきて、何を考えてんだ、と自嘲してしまった。
詩音に、嫌われたかなぁ。
坂本は、俺にもう協力してくれないかなぁ………
1人きりの時ほど心は傷ついていくというもので、あっという間にネガティブな思考に支配されていた。
「はぁ…………」
何も考えていないのに、ため息ばかりが溢れる。
と、みんな帰る時間になったのか、結構な数の人が入ってきた。
このシャトルバスは無料で駅まで送って行ってくれるから、楽なのだ。だからみんな乗ってくる。
まあ、俺は2人席に座ってるし、誰も俺の横に座ってくることはあるまい…………
こくり、こくり、と倦怠感が体を包み込み、眠気が襲ってきてしまっていた。
少しなら、眠っても…………
「ここ、いい?」
一際よく通る声が、バスの中に響く。
あん?誰だよ?俺の安眠タイムを邪魔したのは……………と恨めしげに顔を上げると
どうやら俺に話しかけてきているようだった。
薄くしか開いてない目をゆっくり開いて、その人の風貌を今一度確認する。
冬なのにボクサーパンツくらいの短パンに長い足を誇示するかのような黒ソックス、肩を出した服にじゃらじゃらしたアクセサリーに金髪と、優等生日比野正樹からしたらギャルと呼ぶべき人種であった。
「あ、あへ?ぼ、僕っすか?」
怒っているのか、顔に笑顔はない。
そんな顔しないで!とばかりに俺がテンパっていると、今度はその顔に笑顔が浮かぶ。
「アハハ、何、自分の事僕って言うの!?チョーウケるんだけど!席、座るねー」
「あ、ちょ、ちょっと!」
有無を言わさないような強制的な感じで俺の横に座ってくる彼女は、スタイルの良さも然るに、背がとても高いようだった。
男の時の俺よりも高いように見える。
「どうしたの?そんな泣き腫らして。あ、アタシ泉梨花ね。梨花でいいよ。アンタは?」
「あ、ぼ、僕は、日比野咲と言います」
「アハハ!ボクっ娘可愛いー!」
よしよし!と頭を撫でてくる梨花は、どうやら見た目通り、スキンシップが多めの人のようだ。
そんなの俺じゃなかったらセクハラで通報してるぞ?
まあ?俺は心が広いから?通報なんかしないけど?
うわ!いい匂いだ!香水かなあ?てか!当たってる!柔らかいやつが当たってる!肩に!
と、もう頭の中はパニックだった。
「それで?なんで泣いてんの?」
うわぁ、ズケズケ聞いてくるなぁ。これがイマドキっちゅうやつか。コイツが可愛くなきゃぶん殴ってたね。俺が心広くてよかった。
…………え?いや違うよ。胸の感覚で人の良し悪しを決めたりしてないよ。ホントナニヲイッテルノカナ?
「あの…………友達と喧嘩しまして」
「喧嘩?喧嘩ね?だから1人なんだ」
「ええ、まあそんなところです」
喧嘩、そう言ってしまえばまだ救いがある。けどあれは、喧嘩なのだろうか?喧嘩と言えるだろうか?
あれは、確実に10:0で俺が悪い。だから、喧嘩というのは間違いだろう……………
訂正しようと顔を上げると、ポン、と頭の上に温かいものを感じた。
「ケンカは誰だってするよね。アタシも今日ちょーどケンカしてキレて帰ってきたんよ…………って、あれ?これってオソロじゃね?運命じゃね?」
かっかっか!と笑いそうなほど豪快な笑顔で俺の方を見つめてくる。
「お、オソロですか?」
「うん!アタシが機嫌悪くて一方的にキレてきた!」
本当に同じじゃないか。そう思うと、何故かまた、涙が出てきた。
理由は分からないけど、頭の上が温かかったのは、ずっと覚えている。




