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氏長、再婚 その1

日曜日中に投稿できませんでした…


しかも、今回、甲斐姫出てこない…


早く継母との対面や関係性が書きたいのですが…

天正二年、1574年の冬、忍城は、上杉謙信に攻められる。


が、小田原城を囲むも、落とせなかった上杉謙信である、忍城を辛抱強く攻略できるはずもなく、城下を焼いてしばらくと引き上げていった。


上杉謙信は、野戦においては、勝機を嗅ぎ分け、果断に最善手を打てる戦術の天才であるが、じっくりと取り組まねばならない攻城戦ははっきり言って不得手である。


事実、小田原城や唐沢山城などの名城クラスには、手こずっている。


また、1561年に関東管領に成り、当時の関白である近衛前久も伴うなど、当初は、関東の国人諸将もその権威と武威になびいたが、謙信の城攻めの下手さとすぐに越後に引き上げる様子、古河公方や鶴岡八幡宮での成田長泰への高圧的な対応、上杉謙信がいなければ実はさして強くない軍事力など、1560年代後半以降、北条の勢力圏に近いの関東諸将は、謙信が来たときだけ上杉軍に協力する有り様であった。


上杉謙信は、1563年には、先代である当時の領主、成田長泰が籠る忍城を大軍をもって降したが、その時とは違い、関東諸将の協力が得られないことによる不十分な兵力と謙信の城攻めに向かないメンタリティ、すぐに引き上げることが知られた上杉軍の状況では、関東七名城の一つに数えられ、堀や沼、湿地を利用した堅城である忍城は、落とせるはずもなかった。


しかしながら、城下や領地が、荒らされたのは、事実である。

成田氏長以下、成田家の面々は、復興作業に取りかからなければならなかった。


明けて、天正三年の1月、正月が過ぎ、通常の評定が、忍城の大広間にて行われた。


「皆の衆、先日は、年賀の挨拶、大義であった。

年賀の挨拶の席にて、述べた通り、昨年は、上杉謙信の軍が攻め寄せるも、皆の合力にて、これを退散せしめた。

重ねて、礼を言う。

また、此度の戦では、人死にも無く、重畳であった。

名うての戦上手の上杉謙信といえども、忍城と皆の合力があれば、恐れるに足りんことがわかった。これからも、宜しく頼む。

しかしながら、上杉謙信とその一党は、城下に付け火して回りおった。

戦と新年の支度で大変かとは思うが、燃えた城下や周辺の村々のことを思えば、復興を急がねばならん。

担当部門や地区については詳細は追って沙汰するので、各々がたにおいては、まずは、領地の被害状況の把握に努めてくれ。」



「「「はっ」」」

氏長の挨拶に合わせて、広間につめる家臣一同

が答える。


「さて、話は変わるが、先日、小田原にて、御本城様に新年の挨拶に伺った。

挨拶自体は恙無く終わったが、挨拶の後、川越の大道寺政繁殿より呼び止められてな。

睦月下旬の小田原評定の後、岩槻城の扱いについて関係各位を呼んで別途評定が有る故に、馳せ参じろとの言であった。」


「はて、岩槻城と言えば、岩槻太田の持ち城のはずですな。

太田氏資どの亡き後、跡目が保留され、今は江戸太田の輝資殿と宮城政業殿が、交代で城代を勤めているはずじゃが。」

成田家の宿老、手島美作守がすかさず解説する。


「さよう、岩槻のこととなれば、太田の跡目話となりましょう。

比較的距離が近いとはいえ、直接は成田家は関係ないはず。

資正殿の兄、資顕殿に我が姉が嫁いではいましたが、資顕殿が亡くなって既に二十年以上が経ちますればぁ、今さら縁戚だから太田の跡目を決める評定に来いと言うことにらならないかと存ずるがのぉ。」

成田家の長老格、叔父の成田泰季が首をひねりながら言う。


「わしも合点がいかぬことではあるが、御本城様の呼び出しじゃ。

とりあえず、小田原に行って話を聞くしか有るまいよ。

小田原での評定の結果を持ち帰り、また臨時の評定を開くかもしれぬ。

各位、その旨、胸に留め置くよう。」


「「「はっ」」」


氏長は、家中には言わなかったが、岩槻太田との転封や川越衆との三方領地替えの可能性などを考え、表情は冴えなかった。


氏長は、このとき、まだ知らない。

今回の呼び出しで、自分の再婚話が決まることを。

追加解説など。


小田原評定と言うと、なにも決まらない会議という意味での格言のイメージが強いかと思いますが、後北条氏は、月二回、小田原で評定を行い、各種方針の決定をしていたのです。


これを本来の意味での小田原評定というようです。


信長みたいなトップダウンの専制君主タイプの戦国大名とは違い、きちんと皆の意見を出させて、意見集約していた上で、一丸となって何事にも取り組んでいたのではないでしょうか。


織田信長や長宗我部元親みたいに一代でものすごく飛躍する事はないけど、代を重ねるごとに着実に大きくなっていく後北条氏らしいシステムだと思います。


上杉謙信を野戦の天才、城攻めの凡才としていますが、当時の上杉謙信の軍は兵種ごとの管理は導入済みですが、兵農分離が進んでいない上に、兵力の三割から四割がいつ裏切るかわからない揚北衆ですから、時間のかかる城攻めには向いてないのだと思います。


自分が上杉謙信に城を攻められたら、春まで粘りつつ揚北衆を調略するか揚北衆に越後に帰りたくなるような偽情報を流しますもん。


あと、謙信以外に代理で方面軍を指揮できる将がいないのも痛いですね。結果的に謙信が越中、北信濃、関東の三方面を飛び回ることになり労多くして功少なしと言うことに…


次回は、小田原での氏長の嫁取り話になる予定。


後書き調子に乗って書きすぎた… しかし、後書き長えな…

字数稼ぐのに、無理にでも本文に組み込めばよかったかなぁ…


歴史好きの方々、ブックマークや評価など宜しくお願いします。

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