~白井の局~ 考察第1回
今回は、考察回ですので、物語は動きません。
考察回なんか面倒くさいなぁと思う方は、飛ばしていただいて結構です。
白井の局は、最近のゲームでは、成田家の関係者というよりは、足利義輝関連の姫武将として扱われることが多い人です。
ただ、本当に足利義輝とともに討ち死にした姫武将なのか、という点は疑問は残ります。
まず、ゲームだと姫武将扱いだけど、本当はどうなの?って点。
これは、明確に間違いです。
成田氏長が、1542年生まれで、永禄の変は、1565年です。成田氏長と同い年で、23歳。
成田氏長のお母さんですから、当然、それよりも年上。
成田長泰と13~18歳頃結婚して、その数年後に子どもが生まれたと仮定して、15~20歳頃に成田氏長を産んだことになります。
そう考えると、永禄の変の頃には若く見積もって38歳、そこから5~10歳くらい年上でもおかしくはありません。
父、長尾景英が、1527年に亡くなっていますから、それ以降の出生は、考えてづらいと思います。
まあ、亡くなる数日前にご懐妊であれば、1528年までは、可能性はありますが。
兄弟の長尾景誠が、1507年生まれで、長子ということですから、1507~1527年の間には出生しているものと考えられます。
一番若いとしても38歳というのは、まず間違いないと考えます。
さて、白井の局ですが、成田家との婚姻は政略的な意味以上に厄介払いであったのではないかと思います。
なぜなら、父、長尾景英が、1527年に亡くなったあと、兄、長尾景誠が、家を継ぐのですが、何と父が死んだ翌年、1528年に21歳という若さで家臣に殺されてしまいます。
そして、山内上杉の重鎮、長野業正が、後継問題に介入、総社長尾家系統の長尾憲景を跡目に据えます。
ここで、疑問なのは、白井長尾家の姫、白井の局が居るのですから、そこに白井長尾氏縁戚の誰かを婿に取って跡目を継がせるのが筋なのに、あえて長野業正は、それをしていないのは、何故か?ということです。
ぶっちゃけ、長野業正は、白井長尾の勢力を自分の影響下に置きたかったので、正統な後継候補である白井の局を排除したということだと思います。
その状況で白井の局を白井長尾家に長く留め置くことは、反憲景派の家臣などが白井の局を正統後継者として担ぎ出す、あるいは白井の局を白井長尾家の血縁者と結婚させて担ぎ出す危険性がある、ということになります。
では、白井の局のあつかいをどうするか…
山内上杉の家宰職を務めることもある白井長尾家の姫と釣り合う程度の家の格があり、山内上杉の内部の勢力争いに直接的に関わらない家、しかも当主に正室がいないところに政略結婚で押し付けちまえ!ということになったと予想します。
で、たまたま、その厄介払いの条件にあったのが、成田長泰さんだった…ということではなかろうかと言うことです。
と、すれば、長尾憲景が、家を継いだというか乗っ取ったあと、白井の局が、結婚可能になった時点で可及的速やかに政略結婚という名の厄介払いのをしたのではないでしょうか?
1528年から数年以内に白井の局は、成田長泰と結婚したと予想されます。
1530年に12-15歳くらいで政略結婚したと仮定し、成田氏長を24-27歳頃出産、永禄の変の頃は47-50歳くらい。
以上から、現実的には、40歳代後半で永禄の変にて亡くなったと思われます。なので、姫武将とは、とてもとても…。
21世紀では、40歳後半でも、綺麗な方はたくさんいて美魔女何て呼ばれますが、戦国時代では40歳後半くらいだともう少しで亡くなってもおかしくはないお年頃ですからね…。
次に、白井の局は、足利義輝とどういう関係だったのか?という疑問です。
足利将軍家の女房については、「室町幕府女房の基礎的考察」という羽田聡氏の優れた論文があり、それを参照するに、足利義輝の側室、女房に白井の局の名前はないのです。
つまり、足利義輝に見いだされて、ラブラブってことはないわけですな。
で、論文を参照するに、足利将軍家の正室側室は、高位の公家の子女、側近や奉公衆の子女、細川、赤松、一色、山名など三管領四職の子女だけです。
ぶっちゃけ、白井長尾家の姫ごときでは、家格が足りない。白井長尾の主家、上杉家ですら足利尊氏の生母以降は将軍家の正室側室を輩出していないのですから。
ま、家格以前に歳が…となるでしょうが。
では、どうして、京都で永禄の変に巻き込まれるのか?
直接的に足利義輝の女房でないとすれば、あとは、女房の腰元として詰めていた可能性ではないでしょうか。
ですが、上野国に生まれ武蔵国に嫁いだ守護代クラスの家の出身の40歳代女性、白井の局に将軍家女房の方々に知り合いになれるどんなつてがあったでしょうか。
当時の京都と上野や武蔵をつなぐ人物が、実は、居るのです。
関白秀吉を除けば、史上最もアクティブな公家の関白殿下、近衛前久さん。
彼は、永禄2年、1559年の上杉謙信の上洛の際に面談し、意気投合。永禄3年9月(1560年)に越後に下向、そこから永禄5年8月(1562年)に京都に帰るまで、約2年間、上杉謙信が、小田原城攻めや唐沢山城の戦いなど関東を転戦している時に在陣し、謙信が関東にいない時期にも古河公方の御所や厩橋城にいたことが知られているのです。
近衛前久が、関東で活動していたいずれかの時点で白井の局は、近衛前久にコネができていたのではないでしょうか?
そして、成田家が上杉方から離反した際に白井の局は、何らかの理由により近衛前久のもとにいた。その結果、白井の局は、成田家から離れ、近衛前久に伴われて京都に行くことになったのではないでしょうか。
ここで考えられるのは、近衛前久が、古河公方の御所から厩橋城に移った時に、白井の局は、同行したり、尽力した可能性です。
ただ、夫、成田長泰は、せっかく小田原攻めに協力したにも関わらず、鶴岡八幡宮での上杉謙信(当時は上杉政虎)からの無礼な態度と暴力を受けたことを恨み、近衛前久が古河公方の御所を退去しなければならない程に上杉謙信の勢力が関東地方において弱まったのをみるや、北条方に寝返る決断をしたのです。
上杉謙信方の近衛前久のために尽力する白井の局と上杉謙信を恨み、離反する成田長泰。
夫妻は、ここで袂を分かつことになってしまうことになったのではないでしょうか。
で、京都では近衛前久の妹が足利義輝の正室に1558年になっているので、前久は、京都連れてきた白井の局を妹の腰元兼護衛役としてでも二条御所に送り込んだのではないでしょうか。
こうして、白井の局は、足利義輝の正室、近衛家の娘の腰元になります。しかしながら、わずか三年後、三好義継、三好三人衆、松永久通らによる足利義輝殺害、いわゆる永禄の変で討ち死することになってしまうのです。
以上、甲斐姫の祖母で、白井長尾家から成田家に嫁いだはずの白井の局が、はるか遠い京都で永禄の変に巻き込まれ討ち死にしたことを、どうにかこじつける考察の回でした。
ぶっちゃけ、白井の局が、永禄の変で討ち死にした情報を載せているのは、講談社人名大事典のみで、参考文献等も不明瞭、同時代のきちんとした資料である「言継卿記」での討ち死にした足利義輝主従に名前はないことから、白井の局が永禄の変で討ち死にしたとする人名大事典が、実は間違いって可能性もあるんですがね。
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追記
2018/8/22に国立歴史民俗博物館で、成田記などを参照してきました。
成田記には、「白井の局は、成田長泰と離縁したのち、鎌倉山内の寺にて死去した」とありました。
あわせて参照した論集 戦国大名と国衆7 武蔵成田氏 のなかでは、成田記の記載を正しいものとして、考察し、講談社人名大事典の記載は、たまたま永禄の変の期日と白井の局の命日が一致していたことから、安易な思い込みから発生した誤謬と結論づけていました。
個人的には、成田記、及び、論集 戦国大名と国衆7武蔵成田氏の方が正しいと思いますが、今作品では、よりおもしろい方の白井の局、永禄の変で死亡説を採用したままにしておきます。
ちなみに、白井長尾氏の菩提寺は、渋川市上白井にある空恵寺だそうですが、白井の局は、嫁に出された上、たぶん戻ってきてほしくない勢力がいたので、空恵寺に入れなかったのではないでしょうか。
そして、主家である山内上杉の旧邸宅があり、上杉氏、長尾氏と関連の深い、鎌倉山内地区、今の北鎌倉駅周辺に行ったのだと思います。
さらに言うと、長尾氏のもともとの本拠地は、北鎌倉から近い、鎌倉大船の近くにあった長尾城だと言われていますし。
北鎌倉の尼寺というと、東慶寺が真っ先に思い浮かびますが…
あれ、プロローグで出てきたな、東慶寺。
次回予告ぅぅぅぅ
(北斗の拳の次回予告の際の千葉繁さんのテンションで)
成田氏長に降ってわいたように起こる再婚話ぃぃぃ!
成田家と甲斐姫の明日はどっちだぁっっっ!
歴史の各種資料を深読みする考察回は、歴史推理みたいで楽しいのですが、話を動かせなかった分、後書きで遊びました。
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