エイティーンス・エイティ
ああ、そうか。今、ぼくの目の前にあるのは大きな大きな、青い空なんだ。
そうとも、空であれば仕方のない事だ。空に「愛してる(I love you.)」と
声をかけたことのある人がいたなら、そう思うはずだ。空は温かく、広い。
いつも見守ってくれてるけれど、「私も愛しているわ(I love you too.)」と
答えてはくれない。答えたくても答えられる訳がなかった。
目の前には、長いまつげを下に伏せて、壮大な青い空の一部が映ったよう
な色をした瞳の女性が、静かに呼吸を整えていた。
「そのブルーの瞳に映るのはぼくだけだったらよかった」
そう言いたいのを、ぼくが必死にこらえていたことだけはよく覚えている。
*
夏の終わりのこと。まだ半袖のジャケットを着ていても大丈夫な季節に
その女性に出会った。ブルーの瞳を持つ、レイチェルという22歳の女性。
彼女はアメリカ出身だが、日本に留学していたらしく日本語は堪能だった。
覚えている限り、第一声は
「ソレハ良イ言葉デス!」
運転席に座っていた日系カナダ人であるティムと冗談を言っていたのだろう、
ティムの言葉に
「喜んで!(My pleasure!)」
とぼくが返した後のレイチェルの言葉が、そうだった。
あ、ちなみにぼくも英語は独学で勉強はしているんだ。元々は英語が好きだったけれど、
二十代前半に映画館でアルバイトしたことで、英語に興味を持ったのだった。字幕無し
でハリウッド映画が観たい。そんな単純で壮大な気持ちがきっかけだったと思う。
レイチェルと出会った当日は、ティムの運転する車で群馬の居酒屋へ行き酒を飲んだ。
日本人がぼくを含めて最終的に4人、外国人が4人のグローバルな飲み会だ。
「So,I'm 27years old. How old are you?(ぼくは27才なんだ。君は何歳?)」
移動中の車の中で簡単に自己紹介を済ませていたレイチェルに、ぼくはたずねる。
「何歳ニ見エマスカ?」
おなじみ「質問に質問で返す」女性の得意技だった。この質問は男にとって非常に
難しい。ほとんどの女性は実年齢より上に見られることをよく思わないからだ。失礼に
感じつつも、レイチェルの容姿を見つめてみる。短めに整えられた茶色の髪を帽子で包ん
でいる。声は少し低めかなと思った。同じ席にいるアナスタシアとテリーは声が高めなの
で際立ってそう聞こえたのもある。背は低めで、顔立ちだけで言うと大人びた印象を見た
人に与えるだろうと思った。年齢は、はっきり言えばまったくわからなかった。
「25?」おそるおそる、僕は言った。
「No.」彼女は首を振った。やってしまった。
「24?」一歳下げてみた。
「No.」ああ、神様。
「うーん・・・・・」もうお手上げだと思って口をつぐむと
「22歳デス」
うおお、と思わず口から声が漏れた。年齢の割に落ち着いてると思ったのだ。老けてる
と思ったわけではない。日本で生まれて日本人をやってる以上、白人種の外見から年齢を
当てるなんて、神業に近いと思う。彼らは大人びている。27才のくせにいつまでも学生に
見られるぼくには羨ましい限りだ。
その日は所持金が少なかったので、自分が飲む酒は一杯だけにし、その場の会話を楽し
んだ。初めて知り合ったレイチェルとは音楽や映画の話をした。日本が好きで、日本で一
人暮らしをしている彼女はアメリカ人なのに、日本の音楽や映画にくわしく、ぼくが口に
したバンドや映画の名前をことごとく知っていて、そのたびにぼくは驚いた。そして、い
つも思う。異国の地で、異国の言葉で、働いて生きている彼女たちは皆例外なく努力の人
だな、と。ぼくは英語が好きだから、中学レベルの英語をさらに子供のように、つたなく
話すけれど、彼女たちは日本人と会話をして、人生の一部をここで生きているのだ。
尊敬する。そして、彼女達は初対面では警戒する日本人とは違って、初対面でもしっか
りと色の薄い瞳でこちらを見て、笑ってこう言う。「Hi.(やあ。)」
かしこまって「どうも」もいいかもしれない。礼儀正しいと思う。でもぼくは堅苦しい
日本の挨拶よりすぐに仲良くしてくれるアメリカ人達の方が好きだった。
飲み会自体はすごく楽しく幕を閉じたのだが、ぼくは素直に楽しかったなぁと言えない
面持ちで店を出た。和風チェーンの居酒屋を出ると、どうやら「それ」に気づいたらしい
アナスタシアがすこし眉を下げて、ぼくに言った。
「ねぇ、終電大丈夫?」
正直、二の句が継げない。返事が出なかった。飲みの席で終電自体は調べていた。帰ら
なきゃとは思ったものの、楽しさと駅まで車が無いと移動できないことを考えると運転手
のティムに声をかけるのを遠慮してしまった。夏とは言えど、季節の終わりかけた夜の外
の気温は少しだけ肌寒さを感じさせ、終電を逃したぼくを冷たく責める。心の中でああ、
またやってしまったと嘆く。英語で言うならファックとか、そんな感じ。
「また」と言う部分で引っかかった人は鋭いかもしれない。ぼくは過去にも一度ミスで
終電を逃し、地元に帰れなかったことがあったのだ。同じ夏にアナスタシアと行った花火
大会の日、友達との別れを惜しんだぼくは、降りるべき地元の最寄り駅で電車を降りず、
高崎線にそのまま乗り高崎駅でホームに降りた。せっかくだから彼女を見送ったあとに、
のぼり電車で深谷駅に帰ればいい。そうすればあと30分は話せるではないか。そう考えた
からだった。その思いつきを、すぐに後悔する事になる。
30分後に、のぼり方面の最終電車は、なかった。
そして、「よかったら、私のアパートに来ていいよ」というアナスタシアの好意に甘え
てその夜はアナスタシアのアパートに泊めてもらう事になった。きっと、今回の飲み会の
終わり間際にアナスタシアがデジャヴのようなものを感じたのではないか。わかってたの
だろう。この人はまた今日も終電を逃したのね、と。我ながらあっぱれだ。
そして、8人が居酒屋の前で円陣を組み、作戦会議が開かれた。お題はシンプルだ。
「誰がこの終電を逃した哀れな日本人を、家に帰すのか」
自分で言ってて実に残念だ。沈黙は続く。ぼくだけは心の中でうめく。
「私が駅まで送りましょうか?」
おそるおそる、沈黙を破ったのは日本人女性の真理子。ありがたいなぁ、良い子だなあ
と思った。でも、それに甘えてしまうのは気が引けた。方向的に、彼女の地元を通り過ぎ
ないと、ぼくの地元には帰れないからだ。ぼくは真理子を見て、弱く笑った。
そしてまたも沈黙は続く。時間がたてばたつほど、メンバーから「お前はなぜ、終電を
チェックしていなかったんだ」と無言ながらも、責められてくるように感じられた。いや
、違うんだ、チェックはしていたんだ。飲み会の雰囲気に邪魔されたんだ、と言い訳を、
やはり無言ながらぼくも思った。ただぼくは君たちと長く居たかっただけなのだ、と。
自然と肩がすくみ、パンツのポケット深くに腕が入り込む。後悔をし、絶望を感じ、今
の自分に落胆をした。外が暗くて助かった。細かいぼくの表情が見えてたなら、たぶんか
なりかっこ悪い顔をしていただろうと思う。英語で言えば、アグリーだ。
「アノ、私のアパートにゲストルームがありマス。もし良かったら、どうぞ」
顔を上げる。その提案をしたのは、他の誰でもない。今日初めて知り合ったアメリカ人
の女の子、レイチェル。Rachael Anderson、その人だった。午後11時を30分以上過ぎてい
た。外は暗闇に覆われぼくを含む8人を照らす光は、微々たるものだったが、多分ぼくだ
けがそう思っていたんだろうと、今思いだす。
あの暗闇の中でさえ、もうすでに君は、ぼくの心だけ明るく照らす青空だったんだ。
「ドウゾ」彼女が扉を開けて、笑う。
「おじゃましまぁす」ぼくはお化け屋敷に入る子供のようにゆっくり入った。
居酒屋の駐車場でハグを交わした後、ティムの若さに溢れた運転(ティムは居酒屋のメ
ンバーの中で一応は最年長だ)で、ぼくとレイチェルは高崎駅前の大型家電量販店に面し
たロータリーまで送ってもらった。そのまま、家電量販店の前に停めてあった自転車を転
がす彼女についていく形で、群馬県という土地に似つかわしくない西洋の雰囲気をかもし
だす協会や、小さな居酒屋を通り抜けると彼女のアパートへ着いた。駅から徒歩20分位だ
ったかなと思う。
「私が住むには少し、広いデス」そう言っていた彼女の言葉通りに、レイチェルの住む
アパートは、一人で住むというよりは子供を一人持つ3人家族が住んでも問題はないので
はないかと思うほど広く感じられた。少なくともぼくの家族が住むアパートより広い。
ダイニングキッチン、その手前にリビング。その奥には寝室があり、玄関入ってすぐ右
にはゲストルームがあった。ゲストルームにはきちんとベッドがあり、本棚もある。本棚
には、彼女が日頃勉強に使っているらしい教科書や、日本の映画のDVDが刺さっていた。
白を基調とした洋室は清潔感に溢れている。モデルルームのように、生活感があまり感
じられない。彼女はかなり綺麗好きの様だ、と思った。それでも「水場が壊れていて、近
い内に引っ越す予定がありマス」と眉を下げる彼女は、首を振りながら両手の平を天井に
向けた。それは残念だ、とぼくも言う。
不思議な時間だった。次の日に彼女は自分の仕事があるという事を確認していなかった
ぼくら二人は彼女のラップトップでSNSの写真を見ながら、ノンストップで話をした。ぼ
くは素人の絵描きで、その日はなぜかバッグにスケッチブックとペンケースを入れていた
ので、時々右手のペンを滑らせながら、彼女の話を聞いていた。ぼくの目と鼻の先には、
いつもぼくを包むブルーの瞳と、まっすぐ伸びた鼻もあった。ぼくは無意識に、開いてい
たページの一部に彼女の目をスケッチしていた。そのことに、彼女が気づいていたかどう
かはぼくにはわからない。
なんて言葉で表したらいいのだろう、と思う。初めて会ったその日に、22歳の女の子の
家に二人でいるという事実について、ずっと新鮮さを感じていた。飲み会で過ごした短い
時間で彼女から信頼を得たのか、それとも彼女がただただすごく優しい女の子だからなの
か、真実が見えない。はっきり胸を張って言える事だが、ぼくはその信頼にきちんと態度
で答えられる男だ。女の子と二人きりで夜を過ごすからと言って、人が安易に想像するよ
うな方向に持っていくなんて考えはないからだ。穏やかに時間は進み、彼女は微笑み、ぼ
くも笑った。
午前3時を過ぎたころ、彼女が口を開いた。
「明日は仕事は?」
「ぼくは、ないよ」
彼女の表情が一瞬だけ曇るのがわかった。
「ごめんなさい」目を伏せながら、言う。「私は明日仕事がありマス」少しぼくの顔色を
うかがうように、伏せた目はその次の瞬間に上目使いでぼくを捉えた。
「そ、そうなんだ!ごめん、何時に起きるの?」
左手にはめた腕時計を何度も見るぼくの耳に入った次の言葉が、ぼくをワンダーランド
からリアルワールドに引き戻したのは、言うまでもないだろう。
「6時位かな」
I've done.ああ、神様。ぼくの罪をお許しください。彼女に何度も謝ると、すぐにゲス
トルームに入らせてもらった。本当を言うと、この時初めてゲストルームに入ったのだ。
ドアの隙間から、レイチェルが顔を出している。
「おやすみなさい」と彼女が言い、
「Good night.」と、僕も返す。
どっちが日本人だよ。そう思って、一人笑った。
翌朝、携帯のアラームで6時過ぎに目を覚ましたぼくは、目の前に広がる白い天井に一
瞬戸惑った。ああ、そうだった。昨日は終電を逃してレイチェルのアパートに泊めてもら
ったんだった、とじわりじわりと思いだした。初めて会った人の家で寝たというのに、ス
ムーズに 眠りにつけた事をぼくの目覚めた体が物語っていて、驚く。
ゲストルームを出ると、すでに起きてスーツに着替えていたレイチェルが見えた。
「おはよう。よく眠れた?」
「おはよう。ぼくは大丈夫、君は?」
「少し眠いけど、大丈夫」
申し訳ないな、と思った。時間は勝手に進んでいく。彼女の出勤準備を待って、一緒に
アパートを出た。空は澄んでいた、ように思う。彼女の瞳の青さには勝てないけれど。
その内駅に近づくにつれて、昨晩も通った教会を通り過ぎる。夜とは表情が違って、そ
の存在を見せつけていた。静粛に佇むその姿に改めて、昨日とは違う感動を覚えた。
午前6時45分過ぎくらいに高崎駅に着いた。ぼくらの脇を、学生やサラリーマンが時々
通り抜けて行った。平日の朝だ。当たり前だが、ここにいることが不思議だった。
レイチェルは職場に向かうまでまだ時間に余裕があるという事で、駅の中のスターバッ
クスが開店するまで、つまり午前7時になるまで店の前で待つことに。スターバックスな
んて入るの何年振りだろうと振り返る。ぼくはいつもはドトールかベックスでコーヒー
を飲む。スターバックスはあまり庶民的な値段ではないというのもあるし、なによりぼく
の地元にスターバックスはいまだ上陸していない。だから行く習慣が無かった。
だけど、いつも思う。スターバックスは人気のお洒落なカフェだ。例えば以前アルバイ
トしていた映画館のある熊谷駅にもスターバックスがあって、毎日お金を持ってるとは言
い難い高校生がドリンク片手に勉強しているのを目にしていた。あの子たちは、毎月の携
帯料金以外の全てのこづかいをスターバックスに費やしているのではないか。ぼくにはそ
う思えてしかたがなかった。
バナナパンケーキにハニーメイプルをかける僕の目の前に、スプーンでマフィンをつつ
くレイチェルがいる。白人はマフィンをフォークで少しずついただくとは、驚いた。もち
ろんアメリカ人全てがそうなわけではないと思うが、ぼくなら紙カップをはがし、直に口
に運ぶだろうから、上品だなと思う以外になかった。周囲を見渡してみる。ドリンクメイ
クブースの陰、出入り口から入るとちょうど死角になって見えないテーブルに、ぼくら二
人は座っていた。ぼくから向かって右にはパノラマビジョンの窓が広がり、空と駅を行き
交う人を眺めることができる。開店から間もない為に、他の客も少ない。
スターバックスで、少しづつ静かにマフィンとコーヒーを味わうレイチェルを見て、ぼ
くは戸惑っていることに気づいた。現実と意識が離れていくような気がした。彼女は、と
ても画になっていた。彼女と一緒に食べる、バナナパンケーキとアイスコーヒーは特別な
味がする。
「パンケーキ、すごくおいしい」ぼくは、舌の上に広がる甘味に反応する。
「そう、それは良かった」彼女は白い歯を覗かせた。
「アイスコーヒーもね、昔熊谷で飲んだ時よりおいしいんだよね」
「えっ、なんででしょうね」
朝は本当にゆっくり静かに過ぎて行った。あまり会話を交わした記憶が残ってないのだ
けれど、多分人生で一番幸せで穏やかなブレックファーストだと思ったのは覚えている。
その時、ぼくはまだ彼女に恋心を抱いてはなかったはずだけれど、言葉にできない特別な
思いを胸の奥に感じたのは間違いない。その日店頭で手に取り持ち帰ったスターバックス
について書かれた小冊子を、思い出として今でも時々眺めていることが、何よりの証拠だ。
それを、もっと早く彼女に伝えていたら、今何か変わっていたのだろうかと考えてしま
う。あの時の事を、今まで一度たりとも忘れたことはないということを、だ。
この日は、駅で別れて、穏やかな気持ちのまま帰宅した。家に着くと、彼女にメールを
送った。居酒屋でメールアドレスはお互いに交換していた。ぼくは泊めてもらった事への
感謝と知り合えたことへの喜びを文章にして送ったと思う。彼女から返ってきたメールに
は「たくさん話をしてくれて本当にうれしかったんだよ。またいつでも私にメールしてい
いよね」とほんの少しだけ、言葉のニュアンスを間違えた文章が書かれていた。
すごく、嬉しかったのを覚えている。
*
彼女と知り合った年を越えて、新年になった。それまでにお互い友達として二人で会っ
て遊んだり勉強したり、仲良くやっていっていたが、ぼくはある決断をしたのだ。知り合
って5か月くらいになる。やっと彼女に対する素直な気持ちを自分の中で認めた。「お前
はレイチェルが好きなんだな」この問いかけに「そうだ」と答えたのだ。彼女にとって
それはタイミングが違ったということもわからずに。ぼくは大人として自信がなかった。
彼女を好きだと認めて、大事にしてあげたい、でもそれは今のぼくにできるのだろうか。
去年から、心の奥底で自分に問いかけてた言葉だった。周囲の人や、可愛がってくれてる
先輩に沢山相談した。レイチェルの人生にはこの何か月間で色々繊細な問題があって、僕
は友達以上になって、彼女を慰めるのをぎりぎりまで我慢していた。それはやはり、自信
の問題からだった。しかし、相談に乗ってくれた彼らは決まってこう言った「レイチェル
と付き合うべきだ」。
2013年1月17日木曜日、僕は彼女と共同でしている仕事の件で彼女と待ち合わせの約束
をスターバックスでしていた。思い出の朝の舞台である、あのスターバックスだ。
なんとか空いてる席を見つけて腰を下ろす。金曜の午後5時を過ぎたスターバックスは
溢れんばかりの高校生から老若男女、客層を広げていた。それを眺め、ぼくは苦笑いす
る。今日ぼくはこの雰囲気の中で、仕事の打ち合わせの後好きだと伝えるつもりだった
からだ。そんな事を考えている間も、僕のすぐ隣のおおきな丸いテーブルには女子高校生
が二人、ぼくの気持ちも知らずに鞄を下ろし、そして腰を下ろし始めている。
時間になると、レイチェルは姿を現した。
彼女を見ると、心臓がドクンと悲鳴を上げるのを感じた。
時はついに来た、しかも本来の約束より1日早く。
言葉を少し交わして、ぼくはとりあえずの今日の本題に入った。
「I can show you it.(ご覧頂こうか)」
「Yes,please!(はい、お願いします!)」
そういうと、仕事の途中経過を彼女に披露した。英語の教材用に僕が描いた漫画の下書
きだ。ぼくはフリーでイラストレーターをしている。彼女が書いた会話文テキストを僕が
ヴィジュアライズ化したのだ。彼女はどれどれと、その下書き原稿をまじまじと見た後「
完璧ね!」と笑ってくれた。すごいです、とも言った。仕事に対しての、細かい部分を口
で説明し、彼女に最終判断を求めた。彼女は、これでお願いします、と答えた。ふう、良
かった。本来ならばそこで安心できるのだけれど、今日は違う。きつく締まった唇を何と
かほぐす。頭の中で英語を探した。
「I can speak English not well.(僕はあまり英語がうまく話せない)」
彼女の顔が、またはじまった、という表情になる。ぼくはよく彼女にこういうからだ。
「まぁ、そうだけど」彼女は正直だ。否定はしなかった。
「But I wanna tell you about myself.(だけど、ぼくの事を伝えたいんだ)」
「Okay」
彼女はうなづいた。ぼくも続けた。
「Always,you said"君はナンパ英語だけは天才的に上手!".You know.But I know that
it is enough just only three words.(君はいつも、「君はナンパ英語だけは天才的に上
手!」とぼくに言うよね。だけど、ぼくだって愛の言葉に必要なのは実は3つの言葉だけ
でいいって事をちゃんと知っているんだよ)」
一番言うべき台詞。頭に浮かぶ、その3つを口に出すまで、少し時間がかかった。その
言葉を伝えてしまった後の世界を、知るのを恐れているのだと感じた。二人はどうなるの
か、それだけが知りたくて、でも知りたくない。彼女の顔を見た。心なしか、不安そうに
ぼくの次の言葉を待っている。そして、正直に言うとこの英語が文法的にちゃんと正しい
か、今もぼくは知らない。意味は通じるかもしれないが、おかしいかもしれない。
「I...like you.(君が好きだ)」口に、なんとか、出した。言ってしまった。さあ、
どうするのだ? これからどうなるのだ。
「But I don't know that what do you think about me.(でも、君がぼくをどう思って
るのか、ぼくにはわからないから・・・)」
さぁ、どうだ。ぼくの一世一代の愛の告白を、彼女はどう返すのだろう。
「....I like you too.(私もあなたが好きよ)」
彼女の口から、こぼれたその言葉がぼくの耳を通って、頭に届く。血液が、流れを止め
たように動けない。頭が真っ白になって、その次の瞬間止まってた血液が、一気に心臓に
流れていく。ようやく脳が働きはじめて、状況をぼくは理解した。めまいが起きそうな位
ふらふらする。ああ、これは病気なのだと思った。ぼくはずっと病気になっていたんだ。
目の前にいる、異国の女性に心を奪われるという病気だ。そうだ、いつも彼女だけがぼく
の気持ちを立て直してくれるただ一つの「万能薬」だった。
「Really?(本当に?)」
情けない位に弱弱しく言葉を発し、返事の真意を確かめていた。それは、嘘じゃない
んだよね?レイチェルは微笑みながら頷いている。そして、ぼくは肩と背骨と腰にその日
1日中張りつめていた緊張の糸が、ぷつりと切れるのを感じ、そのまま姿勢を崩した。
マリオネットが体につながった糸を切られたような、そんな感じだ。やった、やったぞ。
ぼくはやり遂げたのだ。やった!
「じ、人生で初めて英語で告白したよ・・・」
ぼくが、精神的な疲れを正直に顔に出し、そう言うと
「私も、初めて男から好きだと言われた」
レイチェルは両手で顔を覆って、そうぼくに恥ずかしそうに返した。
今日は1月17日だね、イイナの日だ。何がいいんだろうね、と答えがわかりきった質
問を彼女に尋ねた。ぼくはこの子を大事にしたい、心に強く誓いながらそう尋ねた。
今思うと、その日が一番幸せに終わった日かもしれなかった。
なぜなら、その翌日に彼女から来たメールには、彼女の過去の話とぼくの彼女にはなれな
いという旨の文章がつづられていたからだった。ぼくは、驚いて、落ち込んで、そして次
には「なぜ?」という疑問が浮かんだ。なぜ、そんな大事な事を昨日、ぼくがいる時に話
してくれなかったの、と。彼女の過去の告白に驚いた。でも、そのあと浮かんだのはそれ
に対する軽蔑でも、怒りでもなく、今彼女は大丈夫だろうかという心配だった。
傷ついていそうな感じがした。なぜ、目の前で教えてくれなかったのだ。目の前にいた
らいくらだって慰めてあげられた。抱きしめて、悩みを分かち合えたのに。
そんな気持ちを抱いて、彼女に対する気持ちだけが積もって、土曜日を挟んで日曜日。
ぼくは彼女に会いに高崎へ出向いた。きちんと顔を見て話すべき話題だと思ったし、彼女
の存在と温もりがどうしても欲しかった。たまらなく恋しくて、怖かった。
その日、彼女のアパートで話した。肩を寄せ手に触れて、気が付いたら彼女が時間を気
にするまでの間、実に5時間、キスをし続けていた。やはり、彼女の瞳は青空のように澄
んだブルーを映しててぼくはその大自然の魅力に逆らえずに顔を近づけるしかなかった。
吸い寄せられて、ぼくはただその唇に触れる事しか頭になかった。次第に日が落ち、静か
に部屋が暗くなっていくと、ちょっとした会話を繋ぐように、くちびるとくちびるを触れ
る甲高い音が部屋中に浮き彫りになる。そして、そのまま会話がなくなり、メインはキス
になっていた。幸せで幸せで仕方なくて、どうしようと思った。その日、彼女の口からは
っきりと「これは恋じゃないの」と聞いたけど、もう関係がなかった。だって、それはも
う覚悟をしていた。振り向いてくれる日を、ぼくのことを一番大事な人だって、彼女が認
めてくれる日をぼくは待とうと考えていた。それしか選択肢はなかった。
この数日の間でめくるめく変わった、彼女との関係はぼくらに何をもたらすのか、今は
まだわからない。そしてもう一つ変わったこと。時間がたつにつれてぼくの気持ちもどん
どん大きくなっていっている。決して弱くならない彼女への気持ちに、自分でさえ、怖い
なと思う。ぼくは彼女に恋をしている。その心はティーンエイジャーの、18歳の頃の自分
のようでがむしゃらにただ、心の真ん中に彼女がいるように感じる。彼女の存在が、10年
前の若い自分の感情を呼び覚ましていた。不器用で、自分に何ができるかわからない。で
もただ一つだけ、そんな若さしか取柄のない未熟者に約束できることは、いつだってぼく
なら彼女にとって一番近い位置で温かさのある何かを与え、守っていける。その唯一の存
在が、世界でぼくただ一人だけだという自信だった。ぼくの言葉は彼女の為に存在し、ぼ
くの持つペンは彼女を幸せにするためだけに、絵を描くのだ。良い作品が描きあがる自信
はもちろんある。自信は、彼女が持っていてくれる。
語るべき、レイチェルと過ごした日々の話は実はもっとたくさんあった。でも、この小
説まがいの独白文に書くべき出来事は、主には出会いの章のみで十分だとぼくは判断して
いる。思い出して書いてみる事にしたところで、ぼくは目の前に存在していた女の子が、
いかに素敵で興味深く、今までの人生には経験のない存在だったか、それをとうとうと語
ることしかできそうにないのだ。ぼくと彼女がいた場所には、太陽がぼくらを照らし、風
が時にはぼくらを責め、名前も職業も知らない人々がぼくらの横をすれ違い、もしかした
ら地面に接した靴底から5㎝離れた所には虫が生きていたかもしれない。もし、小説にす
るとしたらそれらの状況を、僕らの行動や心境とともに必要に応じて書きあらわす必要が
あるのだけれど、ぼくにとって大事な事は「そんなこと」ではなくて、時にはぼくの目の
前に、時にはぼくの隣に存在したRachael。その人の記憶だけなんだ。
違う国で生まれ、違う人種として育ち、いくつもの偶然を経て、このアジアの中でも一
番領土が狭い国で出会ったぼくらは、その全てを宇宙を通して見守っていた青空の下で、
それらの偶然を運命に変えた。青空は、確かにちっぽけなぼくら人間の些細な疑問に答え
をくれることはない。でも、そのブルーの瞳を持つ一人の女の子なら。
アルファベットの18個目の文字、R。中世ローマ数字では80を意味するそのRによって、
ぼくは心だけは若かりしころの、18歳に戻れる。Eighteenth,eighty.
そう、この物語は18という数字にまつわるぼくと彼女との出会いを語ったものだ。
80はなんの関係があるか、聞きたい? それは、80という数字がいつか二人で作る思い
出の数であれば、ぼくにとって嬉しいなと、そう思っている。ただそれだけの話だ。
そして、それがすべてなんだ。
The end.
最後まで読了いただけたことを深く感謝いたします。
このような余韻残る切ない物語は、好みが分かれると思うのですが、この後に二人がどうなったのか。それは読者様の中で好きに思い描いて頂けたらと思います。