《山妖精との出会い》
唐突な話だが、ここで少し、バルメースの街路区分の話をしようと思う。
バルメースはシルバーパレスと呼ばれる城と、ポルトシルヴァリアと呼ばれる港を中心として発達した臨海都市で、街を十字に切る形で『参道』と呼ばれるメインストリートが有る。因みに、シルバーパレスから見て、ポルトシルヴァリアは北西側だ。
更に、街の中心であるシルバーパレスから見て、内側から輪を描くようにガイエン通り、ウチボリ通り、ソトボリ通りという風に『通り』と呼ばれる区分が有って、大まかに言えば『参道』と『通り』の二種類で場所がわかるようになっている。
但し、前述のポルトシルヴァリアという港の在る、北西部一帯だけは、それとは別に『リンカイ地区』という呼び名で呼ばれていて、これはバルメースとポルトシルヴァリアが、復興前まではもっと小規模の別々の町だった名残だと、ザイアグロスにいた頃に学校や教師代わりに勉強を教えてくれた姉兄たちには教えられた。
今日のアスパーンたちのスケジュールで言うと、北の『女王参道』からバルメースに入り、東南地区ソトボリ通りの『踊る林檎亭』へ入り、同じ東南地区ウチボリ通りの『銀槌』へ移動。それから今度は北西、リンカイ地区の鍛冶工房『ソーレンセン』を目指しているという事になる。
休憩を挟んだとはいえ、街の中をそれだけ縦横無尽に歩き回れば、そりゃぁ疲れる。
土の上と較べてレンガ造りや石畳で舗装された道が多いので、衝撃が直接体に響く感じがして尚更疲れるのだ。
正直に言えば、ゼンガーにうっかり『後でまた来ます』なんて言うんじゃなかったと少し……いや、結構後悔しているくらいだ。
果たして、件の『ソーレンセン』という鍛冶工房にたどり着く頃には、『銀槌』を出てから三十分近くが経っていた。
しかし、こんなに時間が掛かるとも思っていなかったが、ティルトはホントにこんな寄り道をしていて大丈夫なのだろうか。
まぁ、所詮他人事なので、この後ティルトがギルドの幹部にどのようなお叱りを受けてもアスパーンの関知する所ではないのだが。
「中心部は通れないのね。……まぁ、お城だから仕方ないのだけど、この『ガイエン通り』というところも通れないのかしら?」
地図を持っていたシルファーンが、自分達の通ってきたルートを確認しながらラミスに訊ねる。
相変わらずフードの中に居るラミスは、シルファーンの差し出してきた地図の『ガイエン通り』と書かれた一角を指差して、首を振る。
「この辺は、貴族の家ばっかなんだよ~。誰も通りたがらないし、物乞いも多くて、通ってもあまり良い事ないよ、実際。それなら城のところまで行って、別の参道に乗り換えるほうが遥かにマシだと思う」
通りを真っ直ぐに突き抜けることが出来ないと判るや、アスパーンは思わず深い溜息をついてしまった。
ここから更に余計な遠回りをするのかと思うと、とても気が重い。
「何だ、疲れたのか?」
ティルトは溜息をついたアスパーンに寄りかかるように体を寄せると、アスパーンを見上げてからかうようにニヤリと微笑った。
「そりぁ、石畳の上を何時間も歩いてるからな」
「……道を覚えるなら歩いた方がいいと思ったんだけど、それなら帰りは乗合馬車か運河タクシーも有りだな」
「……乗合馬車? 街の中で?」
シルファーンが怪訝な顔をする。
「チラホラ走ってる馬車に混じって、有っただろ? 良く見てろよ」
「いや、どこかに乗り降り口があるだけで、街の内部に停留所があるとは思ってなかった」
乗合馬車自体はアスパーンも存在は知っていたが、基本的に近隣の街同士を結ぶ交通網であって街の中を行き来する物ではない。
因みに、アスパーンとシルファーンがザイアグロスからバルメースまで、ほぼ徒歩で来たのは、単に乗合馬車を乗り継いでここまで来ると金が掛かるというのと、実は乗り継ぎがある場合、乗合馬車の本数的に歩くのと然程掛かる時間が変わらない事が多いからだ。
そういう地域では、そのような交通事情からも個人で馬車を持っている人も多く、道で巡り合ったときに交渉すれば安価で乗せていってくれることも多いのが実情だ。金も時間も短縮できるのであればそれに越した事はないので、二人は専らその方法でバルメースを目指して来たのだ。
尤も、迂闊な失敗からとんでもない事件に巻き込まれたこともあったが。
「街の中で、人通りが多い場所に停留所があるんだ。入った時みたいにソトボリ通りを歩くと、北門から南門まで二時間くらい掛かるからな。同じ感じで、運河を利用した運河タクシーもある。こっちはホントに細かい場所向きだな」
「高いの?」
「うーん、定職がある人ならそう高くはないな。馬車は均一で十五CB。船は時給制で、初乗りから十分以内なら十CB、そこからは五分で十五CBずつ増える。」
『踊る林檎亭』で今日取った宿と食事代が込みで、二人で六SBなので、それほど高くはない。
SBはシルバーベニーという通貨で、CBはカッパーベニーのことだ。
通貨は上からMB、PB、GB、SB、BB、CBという順に名付けられていて、十進法で繰り上がっていく。
『定職がある人』の場合、その職業にも因るが、都会に住んでいる職人や事務員といった、所謂『勤め人』の平均で月に二十五GB程度らしい。
『勤め人』たちの多くは、その金額で一家八人ほどを養っている。
名ばかりの末席とはいえ、一応金銭的には不自由なく裕福な側で育った筈のアスパーンも、個人ではGBくらいまでしか持った事がない。
因みに、前回の事件の報酬は二人で二十GB、特殊性から出来高ボーナスも付いて二十五GBで、GBとSBを八対二の割合で受け取った。
道具の手入れや消耗品の入手などの手間を何も考えず、宿代だけ払い続けるのなら、一月ほどは暮らしていける額になる。
改めて、『住居費恐るべし』ということだろうか。
アパートメントの相場は調べた事がないが、一般的な家庭が二十五GBで一月暮らせるのだから、高く見積もっても十GBには届かない額のはずだ。
一方で、『林檎亭』のような宿の一泊の代金は四~五SB。
一月暮らせば十五GBにも届く。
やはり割高と考えざるを得ない。
加えて、腹が減ればパンを買うだろうし、服が破れて使えないほどになれば買う必要がある。アスパーンの場合は現実として、鎧がこの間の一件でボロボロなので、新調とまでは言わないまでも修理に出す必要があるだろう。その出費を考えれば、手持ちの資金は楽観できる状況とはいえなかった。
何しろ、防具の修繕費は板金工房にとっても手頃かつ件数も多く、素材費用の掛かる仕事なので、払いを変にケチると羽振りのいい輩に順番を取られてしまう。『修理する側の胸先三寸』とまでは言わないが、素材になる金属の相場を確認しつつ、値切りも適度にやらねばならないのだ。
「タクシー高いなー。……一時間も乗ってたらえーっと、百八十……いや、百七十五CB?」
「百六十だろ。素で間違えただろ、今」
ティルトに間違いを突っ込まれた。
最初の十分を五分と間違えただけじゃないか。
まぁ、そこが重大な違いなのだが。
「どちらにしても高いよな……」
桁が二つも上がるという事は、SBが必要になるということだ。
それは紛れも無く高い。
「あー、でも船の場合、大概馬車より多く乗り継ぐんだよ。大きな運河は乗合の大きな船に乗って、細くなる所まで来たらゴンドラに乗り換えるってわけ。それに、実は追加分の五分っていうのは切捨てで計算する決まりになってるから、十五分になる瞬間までは十CBで乗れるの」
アスパーンの独白にラミスが答える。
なるほど、それなら確かに初乗りを繰り返す時間が延びる分、安価で話がつくだろう。
「本来は、船の方が停まるのに時間が掛かるから決まったルールだけどな。まぁ、気が乗ったら馬車でも船でも、試してみるといいさ。取り敢えずソーレンセンで用事済ませてから考えようぜ」
珍しく金勘定の話を考えてショートしかけていたアスパーンの姿を見かねたのか、ティルトが言葉を添えながら溜息をつく。
どう見ても呆れているが、余計なお世話である。
「ちーっす」
ティルトがソーレンセンのドアを開く。
再びティルトを先頭に、何処か『銀槌』に似た佇まいのドアを潜ると、中からは鍛冶場特有の槌打つ響きと熱気が飛び出してきた。
アスパーンは思わず、熱気と鉄の焼ける匂いに眉を顰めた。
「アタシここ苦手なのよね。無闇に暑いし」
ラミスがティルトのフードから飛び出してくると、やや視線をめぐらせた後、狙いを定めたようにシルファーンの肩に取り付いた。
どうやらフードの中は暑くなるらしい。
「当の職人達も、涼しけりゃ尚良いと思ってるだろうよ」
自分の服の中と外で出入りを繰り返すラミスが少々邪魔に感じているのか、ティルトが悪態をつく。
正論だが何処かいつものキレがない気がするのは、要するにティルトも同感という事なのだろう。
「こんちはーっ!!」
いかにも職人の集まる場所らしく、一応用意されている受付はもぬけの殻だ。
来訪者用の受付ノートと、叩くと高い音のするのであろう、押すと鳴るタイプのベル。
それから何故か鉄琴のようなものが置いてある。
要するに、『俺達仕事で忙しいから、用事があるならお前が呼べばいいじゃないか。ベルで気付かなかったら鉄琴でも打ち鳴らしてみ?』という事だろう。
懐かしいというか、何というか。
ザイアグロスでは鉄琴の代わりに巨大な太鼓が置いてあった。
叩く場所で違う音階が出る、スチームドラムとかいう楽器で、それも親方の手作り。
何処に行っても発想は一緒だったというのは、バルメースとザイアグロス、双方の職人の矜持を傷付けかねないので、本人達には黙っていようとアスパーンは心に誓った。
アスパーンが心に誓っている間、ソーレンセンの職人が誰も応対に出なかったため、ティルトは舌なめずりをしながら鉄琴に手を掛けていた。
一足飛びでそれかよ。
ベルは無視する気かよ。
と、数種類のツッコミが脳裏を掠めたものの、どうせベルを鳴らして気付かなかった時の為に置いてあるのなら、元よりベルの存在には意味がないのだということに気付いてツッコむのを止めて置く事にした。
それなら元より鉄琴だけで良いのに。
「じーちゃんがーてつやーをしてーべるとーをつくってくれたー」
ティルトが妙に哀愁を感じさせるメロディと共に鉄琴を叩き始める。
ゼンガーの話が事実なら随分当意即妙な歌だが、続きが出てこないところを見ると即興で作ったものらしい。
若しくは、歩いている間に考えていたのか。
ティルトが同じ歌詞を三回叩く頃になって、ようやく奥の方から返事が返ってきた。
姿を現したのは、いかにも『仕方なく片手間にやってきました』という感じで、左手に面、右手に鉄の棒を持って頭にタオルを巻いたオヤジだ。
年の頃は四十ほどに見えるが、この手の職人が作業着を着ていると実際の歳より老けて見えることが多いため、もしかするともっと若いのかもしれない。
オヤジはティルトの姿を確認すると、ニヤリと笑った。
「あいよー。おう、ティルトじゃねぇの。……早速ヘマったんだって?」
「ヘマってねぇ! 誤解だっつーの!!」
ティルトが額に皺を寄せて否定する。
「お前さんも難儀な奴だよなー。入会金がないって言い張って値切りに値切った挙句、ようやく諦めてギルドに入る気になったかと思えば、入ったら入ったでいきなりコレか」
「うっせー。それより、アンタが出てきたなら丁度良いや。今日はその出先でツレになった奴紹介しに来たんだ。野郎の方がアスパーン、森妖精がシルファーンだ」
今度は挨拶から間尺を置かず紹介され、アスパーンは戸惑いながら頭を下げる。
どうやら、今度の人は自分の事は知らないらしい。
「おー、あんたらも災難だったな。俺はゼンガー爺さんからこの工房を預かってる、ボルダーだ。ボルダー・シュミット。まぁ、世間じゃ『工房のオッサン』とか『工房のオヤジ』で通ってる」
『オヤジ』ことボルダーはニンマリと人懐っこいがひと癖有りそうな顔で笑うと、左手の面をカウンターに置いて、服の布で乱暴に汗を拭ってアスパーンに差し出してきた。
ひと癖有りそうではあるが、裏の無さそうな、非常に職人臭い男に見えた。
特に、恐らく右利きであるにも拘らず、アスパーンの風体を見て左手を差し出してきたところが如何にも『ひと癖』と『気配りのよさ』を感じさせる。
「アスパーンです。よろしく」
アスパーンは差し出された手を握って頭を下げる。
「お嬢さんは、よしとくか。セクハラで訴えられちまうし」
次いで、シルファーンに手を差し出したが、直ぐに思い直したのかその手を下げる。
口で言っているような理由ではなく、汗臭い手で触られるのを女性が是としない事を十分承知して、一歩引いたようだった。
「あっ、と。シルファーンです。よろしくお願いします、ボルダーさん」
シルファーンはザイアグロスで育ったことも有って、汗だの血だのに抵抗感があまり無い。
それ故に、当たり前のように手を差し出しかけていたが、ボルダーの男らしくも紳士的な気配りを感じたのか、やや深めに一礼した。
「じゃ、挨拶済んだところで、オッサンはコイツの鎧見てやってくんねぇ? で、俺はこの新調した篭手とベルトの調整に来たんだけど、その職人に会わせてくれよ」
「篭手とベルト……。えーっと……あぁ、アレな? 二週間くらい前に出来たのに全然取りに来ないから、爺さんの所に流した奴」
「わーるかったよ、それについては」
ゼンガーに続いてボルダーにも似たようなことを言われて、ティルトが頭を掻く。
この分ではきっと暫くは言われる事だろう。
「じゃぁ、アイツか。ちょっと待ってろよ」
ボルダーは後頭部を掻きながら店の奥へと消えていく。
「……こりゃぁ、当分言われそうだな」
「自業自得でしょ」
ティルトの独白に、ラミスが突っ込む。
「何度も言ってるけど、アレはホントに誤解なんだぞ?」
置き引きにやられないように拾ってやろうとしたら、逆に置き引きに間違えられたという件は、出会った当初から何度も聞かされているが、ティルトは頑として誤解だと言って譲らない。
そろそろホントに誤解だと認めてあげても良いように思うのだが、世間のティルトに対する目は既にそれを認めない空気に出来上がっているらしい。
まぁ、それも含めて『自業自得』ということなのだろうが。
「誤解だと主張し続けるから却って話が尾を引いてる気もするけどね」
「……余程心外だったのよ」
アスパーンが小声でシルファーンに囁き、シルファーンが苦笑いしながらも首肯する。
「そこ、聞こえてんぞ」
ティルトが機嫌悪そうに突っ込んできた。
「一応店先だからうるさくない様にしただけだよ」
一応他所様の店先という事で小声にしていただけで、特に隠そうとしていたわけでもないのに、敏感な事だった。
「いや、一応聞こえないように言えよ、そういうのは!」
「だって、同行してる人間として、日に何度もそう言ってるのを見ると、今更ねぇ?」
アスパーンはシルファーンの方を伺うと、シルファーンも頷く。
「解ってるからもう隠しても意味ないし」
「……あぁ、俺に味方はいねぇってこったな」
ティルトが一人、がっくりと肩を落とした。
どうやら暫くの間は、誰かと出会うたびに、ティルトは落ち込むことになりそうだった。
「おーい。連れてきたぞ」
一人凹んでいるティルトの姿をラミスも交えて三人で妙に冷ややかな目で見ていると、奥の方からボルダーが一人の工夫を連れて現れた。
奥から現れた新たな人物は、ティルトよりやや大きいくらいの身長ながら、体重は倍くらいありそうな、分厚い体格の山妖精だった。
『大地の番人』とも呼ばれる山妖精は、山と鉱脈を守る守護者でもあり、その名の通り内陸でも奥深い山脈などに集落を作っている、人間とも親交の深い妖精族で、シルファーンのような森妖精、ティルトのような草原妖精と並んでジークバリアではメジャーな妖精種族である。
鉱脈を守護する者として人間と―――― 一族によっては積極的に――――交わり、その性格は実直にして頑固な者が多い。また、鉱脈や山を愛する故か、工作などに才覚を持ち、一様にそのずんぐりとした体型からは想像もつかないような繊細かつ美麗な細工を施す事でも知られている。
恐らく、目の前に居る山妖精も、その才覚を買われて工房に入った職人と見て間違いないだろう。と、いうより、工房に入るような山妖精は間違いなくその才覚を見込まれてのことなのである。
「ふー。……なんじゃい?」
ボルダーのグレーがかった色のツナギに対して、こちらは青のツナギを、上半身を露にした状態で着ている山妖精は、ボルダーと同じく頭に巻いていた白いタオルで汗を拭い、一堂を見回す。
露になった豊かな筋骨と、その顔をもみあげから口元、鼻の下、アゴまで覆う美髯が動きにあわせて揺れた。
アスパーンも剣士として、人間としては筋肉質な方だと思うが、当たり前のことながら種族としての差は大きく、この山妖精には全く敵う気がしなかった。
まぁ、元より、山妖精と競う必要など何処にもないのだが。
「紹介しとこう。コイツ、ウチの新しい職人で、ブラフマン。ブラフ、こっちはウチの小うるさい客の一人で、ティルトだ。フードの中に居るのが風妖精のラミス」
ボルダーが山妖精とティルト達にお互いを紹介した。
アスパーンが思っているよりはボルダーを通した関係が出来上がっているのだろうが、それにしても客を捕まえて『小うるさい』というのは大したものだ。
「小うるさいって」
「小うるさいじゃねぇか」
ボルダーは、ティルトの反応をからかうようにピシャリと一刀両断。
「……まぁ、否定できないわね」
ラミスが項垂れる。
どうも今日のティルトはそういう役回りが巡ってくる日らしい。
今日に限った話でなくなるのかは、今後次第だが。
「ふん。……そっちは?」
「あぁ、ティルトが紹介してきた一見さんだ。名前は……えっと」
「アスパーンと言います。こっちは相棒のシルファーン」
ブラフと呼ばれた山妖精の問いに、ボルダーが口篭るのを見て、アスパーンは自ら名乗る事にした。シルファーンを一緒に紹介したのは、森妖精を嫌悪する山妖精も居るからで、自己紹介させると不要な反発を買ってしまうことがあるからだ。特に他意はない。それに、所詮自分達は一見さんだ、名前がパッと出てこないのは仕方ないし、当面別行動を取る予定もないので二人纏めて覚えた方が記号化しやすいだろう。
「なるほど。記憶力は悪くない方じゃと思うが、一遍には覚え切れんの」
「ハハ、徐々に顔を覚えてもらえるくらい来る事になるかも……」
「まぁ、一見さんの話は俺が聞くとして、お前さんの相手はこっちのティルトのほうだ。ちょっと前にお前がやった、あの仕掛けのついた篭手とホルダーベルトの調整だとさ」
「あぁ、あのちっとも取りに来んかった、アレか」
「……いつまでも言われそうな感じになってきたわね」
「ご愁傷様」
ブラフマンにまで今までと同じ事を言われて、ラミスとシルファーンがティルトに哀れみの視線を送る。
多分、言葉には出さなかったが、アスパーン自身も鏡で自分を見れば同じ顔をしている事だろう。
「それで、今から調整か。解った、こっち来んしゃい」
ブラフマンはぶっといクビの上にがっつりとくっついたアゴをしゃくると、カウンターの脇にある扉を示した。どうやら、調整室らしい。
「あいよ。……じゃぁ、お二人さん。またな」
ティルトは反論をついに諦め、精魂尽き果てた幽鬼のような様子で投げやりに手を振り、ヨタヨタと調整室に向かう。
「帰りの時間が判らないから、二人は地図を見て、メモどおりに回りなさいな。明日にでもアタシ、また『踊る林檎亭』に顔を出すから、何か困った事が有ったらその時にね?」
ティルトを追いかけつつ、ラミスがアスパーンとシルファーンに微笑んで、軽く手を振ってくる。
「うん。ありがとう。じゃぁ、頑張ってね」
「ありがとう、ラミス」
アスパーンはシルファーンと二人、ラミスの背中に礼を言って手を振り返した。
ここ暫く、ずっと一緒に居た事もあって、いざ別行動を取るとなるとかなり寂しい。
……と、いうか、心細い。
右も左も解らないバルメースで、世話を焼いてくれるラミスやティルトの存在は本当に助けになるのだと、実感する瞬間だった。
「さて。じゃぁ、改めて話を聞きましょうか、お客さん」
ボルダーの声に振り向くと、ボルダーは両手を組んでカウンターに両腕をつき、商売人の顔で二人に微笑んだ。