《走る妖精たち》
盗賊ギルドに張り巡らされている地下回廊を疾風の如く駆け抜け、アスパーンが居る筈のウチボリ通りに一番近い出口から飛び出したティルトだったが、直ぐに立ち往生する事になった。
乗合馬車をタッチの差で逃したのである。
「くそっ! こんな時に……!」
次の乗合馬車を待つべきか、ダッシュして追いつける距離ではないが走ってみるか。
逡巡する間にも、遠ざかっていく馬車の背を見送る自分に苛立つ。
「これでアイツが間違って誰か殺しでもしたら、全部『終わり』だ……」
そんな事になれば、新人に面子を潰されたと思い込んだ幹部は上の意向など関係なく意地になってアスパーンを潰しに掛かるだろう。
そうなれば、何れアスパーンが『アスパーン・メリス』という『メリス家』の人間であることが発覚する頃には総てが取り返しようもなく動き出してしまっている。
加えて、組織という物は、幾ら個人の力量が優れていた所で勝ち目がない部分が存在する。
例えば寝込みを襲われたら、例えば食事中、入浴中など、人員が居ればこそ可能な襲撃方法が実現できるのだ。
そうなれば、幾らアスパーンが、『メリス家』の名に恥じぬ力量の持ち主といえども、個人では勝ち目がないし、ギルドとしてもアスパーンを排除するまでは矛の収め所を失うだろう。
しかも、そこまで事態が動くであろうということは、アスパーンが危険どころか、それを引き連れてきたティルトにも累が及ぶ。
「……余程の事がない限り人間相手に無茶はしないとは思うけれど。……必要だと思ったら躊躇しない子なのも良く解っちゃってるしねぇ」
ラミスが頭を振る。
アスパーンが『とんでもない事を躊躇せずに行う』というのは、前回の『財布放り込み事件』でよく解っていた。
そういう性格でなければ、幾ら自信があっても、あんな方法であの『魔弾の雨』を止め、その後即座に決死の攻撃を仕掛けようなんて考えない。
だが、アスパーン・メリスは、そういう環境に育ち、そういう感性を求められ、そういうことを実行してきた……つまり、アスパーンとは『そういう奴』なのだ。
ティルトとラミスにしてみれば、『そんな事をさせないため』にも、急ぐしかない。
事態が及ぶ範囲やら、今後の対応やら、まだ起こっていないことまで考えてしまう自分がじれったくなり、ティルトは今自分がやるべき事に特化した、即効性のある折衷案を採る事にした。
乗合馬車の通るルートを走りながら追い、馬車が来るようならそれに飛び乗るというやり方だ。乗合馬車の方が速いのは当然だが、短い時間なら停まっていなくても追いつく自信も有るし、飛び乗る自信も有る。
「……やってみるか!」
自分の足のほうが確実に速いとは思わないが、来る時間がはっきりしない乗合馬車に頼るには些か問題がある状況だ。
「……えぇっ!? 走んのっ!?」
「ラミス、後ろ見て乗合馬車が来そうなら教えろ。そうなったら飛び乗るから」
「無茶苦茶ね、アンタも。アスパーンのが感染ったの!?」
「……んな事言ってる場合かよっ!?」
やり取りする間も惜しく、ラミスはフードから後方へ視線を向け、ティルトは猛然とダッシュを始める。
停留所を二つほど過ぎても、一向に後方から馬車が来たという声は掛からなかった。
やはり、走った方が早いか。
そう思ったところで、大きな交差点に差し掛かる。
本来なら馬車もティルトも右折するルートだ。
「あっ!」
右に折れようとしたところで、ラミスが声を上げた。
「来たか!?」
「違うよ、右! ……じゃないや、そっちからだと左!」
ラミスに言われて左手を見ると、交差点を直進する乗合馬車が通過しようとしていた。
アレに飛び乗れれば、かなりの時間が短縮できる。
「うぉ、行けるか!?」
大きな交差点は非常に交通量が多い。
しかも、この時間はかなり混みあうため、憲兵が交通整理をしていた。
何だか笛を吹かれているような気もしたが、敢えて無視して交差点を斜めに突っ走る。
交通量の多い交差点は流石に小石や埃が舞っており、暫々顔に当たる。
だが、それらを敢えて無視して、ティルトは乗合馬車に手を伸ばした。
もう少し。
乗合馬車の荷台に手が掛かった、その瞬間。
「……ティル! 危ないっ!!」
不意にラミスが叫ぶ。
「がはっ!?」
衝撃と共に、ティルトの視界が反転した。
空が見え、肺から息が強制的に排出される。
横合いから突然、別の荷馬車に跳ねられたのだと気付くのに二秒。
身体のダメージは即死するほどではない。
だが、乗合馬車の荷台にはもう、手が届かなかった。
受身を取らなければ……フードの中にはラミスが居る。
ラミスは無事なのだろうか。
自分より深刻なダメージなど受けていないだろうか。
上下の感覚を掴んで足から着地する間に思ったのは、そんな事だった。
「ぐっ……」
「バカヤロウ! 死にてぇのかこの腐れチビ妖精! ウチの馬になんかあったら只じゃおかねぇぞ!」
二度、三度と回転して勢いを殺してから、更にたたらを踏んで着地したティルトに、横合いから罵声が浴びせられる。
恐らく衝突した馬車の御者だろう。
『ふざけるな』と言おうとしたが、衝突した脇腹の痛みで声にならない。
思わず、片膝をついてしまった。
いけない。
こういう時に一度ネガティブな行動をとってしまうと、体の痛みがより大きく感じられてしまうことを、ティルトはよく知っている。
「ティル! 大丈夫!?」
何とか怪我はなく済んだらしい、ラミスが近付いてくる。
どうやらフードから脱出していたようだ。
「あぁ。……でも、ちょっとキツイかな」
時間的にも、体力的にも。
迂闊な判断で致命的なミスをしてしまった。
最悪のケースを考えて行動しなければならなくなってしまった。
そう思った、矢先だった。
「おい、大丈夫か、ガキんちょ!?」
ティルトが見下ろしている地面に、不意に上から影が伸びると、馬車と衝突した脇腹に、不意に掌が押し当てられ、そこから何か温かいものが流れ込んでくる。
神聖魔術。
神の信徒の中でも、その声を聞くことが出来たものだけが使うことができるという天与の魔術だ。
(……一体誰が?)
ティルトが視線を巡らそうとした、その時。
「ブラフマン!?」
ラミスが驚愕と共に、掌の主を教えてくれた。
「何じゃいな? 荷卸しの帰りに出くわしたと思ったら、いきなり右折馬車に跳ねられおって、この馬鹿ガキが!」
「荷卸し? ……てことは、馬車かアンタ?」
その単語を聞いた途端、脳細胞がフル回転した。
「あぁ、幾らワシでも、この両腕に納まらん数を一遍には持ち運べんしのぅ」
山妖精はやや不服そうに、大きく息を吐きながら肩をすくめる。
「……た、頼みがある!」
それは、救い主の登場を、明らかに感じさせる負傷だった。