(1)
「やっと気づいたか」
男は黒い中折れ帽を深くかぶり直しながら男が秋穂に声をかけてきた。
「あの、あなたは?」
「盗人だよ」
男はにかっと笑って見せた。
「えっ、盗人?」
男の答えがあまりにも現実離れしたものだったため秋穂は思わず聞き返してしまった。
「冗談だよ、冗談」
笑いながら男は答える。
「えっと、ここは?」
窓の外から見える景色は普段見ている景色とは違い、秋穂には別世界のように思えた。
「さぁ、僕にもわからないよ。そんなことより、腹減ったろ。なんか食べに行こうか」
男は秋穂の言葉など耳にもしていない様子のまま乗車口から鞄を持って別世界へと降りる。それを唖然と見ていた秋穂も慌てて長椅子から立ち上がり男の後について行く。
「あの女の人はどうするの?」
女は動きもせず、ずっと寝ていた。いや、まるで人形のように生きていないようにも見えた。恐くなって秋穂がそのことを指摘すると、
「あれなら、大丈夫だ」
男は女には振り返りもせずに言った。
「トラブルか……ここはイギリス、いやイタリアあたりか? とりあえず、あの店に入るよ」
男は秋穂の歩くペースなどおかまいなしに石畳を歩いていく。秋穂は不安とこの新鮮な場所にいるためか好奇心入り混じって周りをきょろきょろと見ながら男を見失わないように秋穂も必死についていく。煉瓦で出来ているこじんまりとしたお店に入り、席に座る。店員が秋穂たちの所に来て話しかける。学校の英語で赤点すれすれを取るような秋穂にはもちろん店員が何を言っているのかはまったく理解できなかった。が、男がメニュー表を指さして店員に答えていた。それを聞いた店員は奥に戻った。
「英語しゃべれるんですね」
秋穂は男のことを日本人だと思っていた。事実、彼は東洋人の顔立ちであったし、日本語で話していた。
そう、秋穂は男に声をかけると、
「僕は英語なんか喋れないよ」
「じゃあ、さっき何語で喋ってたんですか?」
秋穂は不思議そうに声を出す。
「何語なんだろうな……」
男はそう言って苦笑いした。
その時、料理が石で出来ている机に運ばれてくる。料理はどちらもパスタで、男には魚介類とトマトソースが絡み合っているペスカトーレ。秋穂には緑のバジルソースでバジルの風味が効いているジェノベーゼ、この二つが机に並べられた。
「これを注文したの?」
「ああ、おすすめを出せ、と言っただけだけど。苦手なものでも入ってたの?」
「あ、いや」
秋穂は大きく首を横に振る。
「そうか、なら良かった」
そう言って、男はフォークで麺を巻き取り、それと海老などの魚介を口に入れていく。
それに対し、秋穂は食べる気力が出なかった。
別にまずそうって訳でもないし、お腹も空いてるんだけども……。
それを見た男はフォークを机に置いて、
「うまいんだから食べといてよ、それに力も出ないぞ――そりゃ、今は疑問だらけだけども、これを食べ終わったらわかる範囲で答えるから」
「わかった」
秋穂は小声で答えて、食べ始めることにした。
これから、どうなるんだろ。
秋穂は食べている間も不安がアメーバ状に増えていった。
男は早々と食べ終えてフォークを置く。そして男は足を組んで椅子に深く腰掛ける。
「で、まずは何が聞きたい?」
その言葉に秋穂は咄嗟に答えられなかった。なぜなら、聞きたいことがありすぎてどれから聞いたらいいのか秋穂には分からなかった。
「まぁ、誰だってそうなるよな、いきなり自分がどことも分からない場所にいるなんてね。ここはイタリアのジェノバみたいだよ」
秋穂に同情の目線を男は向ける。
――わたしが聞きたいのはそういうことじゃないんだけどな……。
とにかく、秋穂は男に尋ねてみることにした。
「じゃあ、まずは、えっと、あなたは何者?」
「何者と言われてもなぁ。まぁ、ある人達に追われてるんだよ」
「ある人達って?」
「んーとね、」
少しの間、眉間に皺を寄せながら男は逡巡する。
「めんどくさい事になるし、止めておくよ。そういえば名前がまだだったね。俺はポール=レノン、レノンでいいよ。君は?」
秋穂は内心ビートルズじゃないんだからと思いつつも今は信じるしかない。
「わ、わたしは秋山秋穂です。あのなんでわたしはここに、よくわからない所にいるんですか?」
レノンは肩をすくめてみせる。
「それはこっちもびっくりしたよ、だって君があれに入ってくるとは思わなかったもの、あれはね」
レノンが何か言い欠けた時、
いきなり大きな窓硝子が割れた。割れた大きな硝子が飛び散って割れ、繰り返すように飛び散った硝子がまた割れていき、その音が店中に響く。
「伏せろ!」
その言葉のすぐ後に銃弾が秋穂達目掛けて向かってくる。レノンは机を軽々蹴飛ばして盾にする。すぐさま、レノンはホルスターから拳銃を取り出して一発、銃弾が飛んできた方向に撃つ。撃つといっても狙ったものではなく牽制のようなものだった。しかし、何もしないよりましではある。それでも撃った後すぐに弾が飛んでくる。
「マシンガンとかじゃないな、一人みたいだし。とにかく机が石で出来ていてよかったよ。木だったら弾が貫通して今頃あの世だよ」
どこか余裕のある声で彼は言う。一方秋穂は伏せたまま動けずにいた。
「このままじゃ……。死んじゃうよ。まだ、まだ死にたくないよ!」
秋穂はこの状況が飲み込めないまま、本能的に叫んでいた。
「大丈夫だから、取りあえず君を送り届けるまでは死なせないからさ」
なだめるように秋穂に言って鞄からタブレット端末を取り出す。そして彼は悠長にポケットからタバコを一本取り出して火を点け、タブレットをいじり始める。その間にも銃弾の音は激しくなり、煙で窓硝子の向こうは全く見えなくなった。
「ねぇ、何でタバコなんか吸ってるの!?どうにかして!」
先ほどよりもさらに声を大きくして叫ぶ。
そんな秋穂をよそ目に彼は煙を吐いてリラックスしていた。
「後、一分もしない内に銃弾は止むよ」
窓硝子の向こうから銃声がひっきりなし秋穂たちに聞こえる。しかし、秋穂達にはもう銃弾は飛んでは来なかった。銃声が止む。誰かが硝子を踏みながら秋穂たちに近づいてくる。
彼は先程まで吸っていたタバコを靴で踏んで火を消す。
「これが僕の相棒だ」
秋穂は何が起きたのかさらに分からなくなった。――さっきバスに乗っていた女性がマシンガンを持って、目の前にいるのだ。彼女は何発か弾が当たったみたいだが、かすり傷程度だった。
「まぁ、驚くのも無理ないよな、話はバスでするよ」
苦笑いしながら彼は言った。
バスの中に入ると女性は崩れこむように席に座った。――まるで誰かに殺されたと錯覚してしまうように――少なくとも秋穂にはそう見えた。
秋穂はその様子を見てなんだかこの女性が怖くなった。
レノンは操縦席を弄っていた。
「えっと、君は日本人でいいんだよね?」
「はい」
秋穂はこくりと小さく頷いた。
「あの人は、」
彼はその声を遮るように大きな声を出した。
「その前に一つ、君はどうやってこれに乗ったの?」
「家に帰ろうとバスに乗ったつもりが、何故かこれに乗ってたんですよ」
逆にこっちが聞きたいくらいなのに……。
秋穂はそう思いながら答える。
「分かった、話を戻そう。彼女は――人間じゃなくてアンドロイドなんだ」
――はっ? アンドロイド?
その言葉を聞いた秋穂は開いた口が塞がらなかった。
「まぁ、君がそう思うのもわからなくはない。でもそのうち分かるから。あれが人間じゃないってことがさ」
――確かにわたしが現在いる状況自体かなりおかしいのだから、彼女がアンドロイドでないとは断言はできないけど、信じるのも無理だよ。
「日本にはいつ帰れるんですか?」
バスの運転席は普通では考えられないほど至るところにボタンがひしめいていて、キーボードやモニターまでついていた。彼は座っていろいろといじっていた。
「帰すつもりはあるんだが一つ、急ぎの仕事が入ってたからねぇ」
ばつの悪い顔をしながら彼は言った。
「仕事って?」
「時期に分かるさ、残念だけどしばらくは我慢してくれ」
「……」
秋穂は黙り込んで席に着いた。
「まぁ、そんな落ち込まないでくれよ」
秋穂は顔を上げた。
「それでどこに行くの?」
「南米だ」
彼はそう言ってバスのエンジンをかけた。




