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奠(三)

二ヶ月前に六十歳を迎えた燈県は、白髪だが眉が黒々としており、いかにも頑固そうな大男である。孝傑とは実に二十五年の付き合いであり、孝傑が最も信頼し頼りにしている一人であった。店で孝傑に直接意見を述べれるのは彼だけであり、独断で物事を運ぶ権利も与えられている。各地にある店の状況を把握し、実質的に店を運営をするのは、家宰である燈県の仕事であった。

通された部屋で待つ弥と苣乎の前に、不機嫌そうな燈県が現れた。

「お待たせ致した。弥よ、お前には聞きたい事が山程あるが、先ずその子供は何だ」

燈県の一瞥は苣乎をいきなり威圧した。着席した燈県を、苣乎は真っ直ぐに見ることが出来なかった。

「燈県様、弟の弥乎でございます」

燈県の片眉が上がった。表情はいかにも訝しかしい。だが燈県は、苣乎についてはそれ程重要ではないと言わんばかりに、直ぐに視線を弥に戻した。

でん賀矯がきょうの情報を集めている筈のお前が帰ってきたのには、やはり旦那様と関係があるのか」

甸は奠より東に位置する邑であり、賀矯とは孝傑と同じように奠に本店を置き、広範囲の商圏を持つ豪商のことである。

静かに頷く弥に、

「また旦那様の悪い癖が出たのだろうが、今回はちと様子が違っておる。目的や行き先を告げずに行かれるのはいつもの事だが、あれ程の大金を持ってとなると、そうはあることではない。しかも頼みのお前が旦那様から離れて戻ってきたとなると、したくもない想像をせねばならん」

と、燈県は腹立たしく言った。燈県は孝傑が秘事を自分ではなく弥に聞かせることに少なからず不満を持っていた。何かあれば真っ先に自分に相談するのが当然であろうと、孝傑が単独で物事に当たる度に、その不快感を隠さなかった。

どうせ何かあれば、尻を拭くのは自分に決まっている。今まで孝傑が単独でした事で失敗はなく、したがって燈県が孝傑の後始末をしたことはなかったが、燈県にはその気持ちが強かった。

「茗を出発した兵が何処を攻めたか知っておるか」

「大京でございます」

「旦那様は大京にいるのではないだろうな」

燈県は眉間に皺を寄せた。

「旦那様は大京にはいらっしゃいません。ですが大京に向かったのは事実でございます」

予想が半分的中した燈県は、溜息と共に、

「お前は一緒に大京に行ったのか」

と、吐き出すように言った。

「私は一緒には行っておりませんが、替わりに弟がお供しました」

前以て苣乎と打ち合わせた通りに、弥は話を続けた。

「旦那様の目的は分かりません。急に大京に行くと仰せになり、私が奠に戻る迄待てないとのことで、弟を替わりに連れて行ったらしいのです。どうして弟を供に選んだのかは分かりませんが、多分誰でも良かったんだと思います。ただ供が必要だっただけでございましょう。弟が言うには、大京に向かう途中で、賊に襲われたということです」

「賊だと」

「はい、京南で賊に襲われたそうです」

燈県は腕組みし、

「まさか李兄弟ではないだろうな」

と、不安を声に乗せた。

「賊は李兄弟でございます。旦那様はさらわれ、弟は李空に連れられて此処まで来ました。賊は旦那様と引き替えに金十万を要求しています」

燈県は絶句した。孝傑が誘拐されたことでも驚愕なのに、さらに法外な要求額である。鈍器で頭を二度殴られたようなものである。

「金十万だと。いつまでにだ」

「今日から三回目の夜明けが期限でございます」

「馬鹿な……。そんな大金を集められる訳がない」

燈県は右手の爪を噛み始めた。考えに没頭している時にする彼の癖である。弥が燈県のこの姿を見るのは三回目であるが、何度見ても気持ちの良いものではなかった。苣乎は心此処に有らずという顔で、やや俯いていた。焦点の合わぬ苣乎の視線の先には、大京にいる母の姿があったのだ。

母上……。本当にご無事であろうか。必ず苣乎は母上の元に参ります。どうかご無事で――。苣乎は遠く離れた母の安否を心配し、弥や燈県に大京の様子を聞きたい衝動にかられたが、すんでのところで思い留まった。

我にかえった苣乎の耳に、燈県と弥の会話が入ってきた。

「幾つかの取引先に頭を下げて回っても、とても足りぬ。主立った大夫の方々も大京への軍に参加しておる。残っているのは、夏孝担かこうたん乾豚かんとん苓紀子れいきしぐらいか。これらもあたってはみるが、それでも金十万に足りるかどうか……。とにかくやれることは何でもしよう」

「旦那様の命がかかっております。どんなことをしても集めましょう」

燈県は慌ただしく部屋を出て行った。残されたのは弥と苣乎の二人だけである。弥は大きく深呼吸した。

「さあ、燈県殿の言うように、私達は明日の朝迄休みましょう」

苣乎は促されるままに、店の中にある客室に移動した。

今日は弥と此処で休むことになった苣乎であるが、隣で寝かかっている弥のようにはいきそうもなかった。

「今から寝ろと言われても、まだ陽が高い。とても寝れません」

「寝れないまでも、少しお休みになった方が良いでしょう。明日は早起きして、私達も金を工面しなければなりませんから」

苣乎は横になったが、気が乱れて落ち着かない。横になったまま迷いに迷った苣乎は、

「大京の事……母上の事で何か知っていませんか」

と、言えなかった言葉を遂に言った。もし母に何かあればと思うと、苣乎はなかなか言い出せなかったのである。

弥が答える前から苣乎の顔は青白い。弥ははっとして、なぜ今までその事に気付いてやれなかったのか、と、自分を責めた。

「大京は茗軍に占拠されました。詳しい情報はこれからになるでしょう。圭姫様については何も……」

相変わらず固い表情の苣乎であるが、

「ありがとうございます。また新しい情報が入れば教えて下さい」

と、苦しい胸の内を外には出さなかった。

苣乎は健やかな寝息をたてる弥の隣で、いつの間にか眠りに落ちた。疲れが溜まっていないはずはない二人である。翌日に燈県の使いに起こされるまで、二人は一回も目を覚ますことはなかった。


大京の乱から十日が過ぎようとしていた。大京から発した情報は大地を駆け巡り、各地で諸侯らの手に渡った。まさに時代のうねりへと突入する瞬間であった。様々な思惑にまみれながら、夏元は昇王朝時代から戦国時代へと移り変わるのである。


部屋に入ると既に燈県が着席していた。苣乎は燈県の顔を見て、状況が芳しくないことを悟った。

「昨日あれから主だった取引先を回ったが、集まったのは金四万だけだ。日頃の恩を忘れた酷い奴らだと言いたいところだが、いつこの奠に戦火が及ぶかもしれん現況で、よくこれだけ出してくれたものだと言いたい」

「全部でいくらになりましたか。店にある分とではまだまだ足りませんか」

「店にある分だと。馬鹿な事を言うな。此処には最低必要な運営資金しかありはせん。余剰金は旦那様が全て持ち出して、今頃は賊の枕にでもなっているだろうよ」

燈県は鼻息荒く続ける。

「今で金五万だ。店の者達に協力を頼んで得た分を加算した」

店の者達と言ったが、燈県は自分の財産を売る等、個人的に一人で金七千を孝傑の為に用意したのである。その事をおくびにも出さないところは、この男の人柄である。

「後は返事を保留にしている取引先と、ある程度の資金力がある大夫の方々だが……。大夫の方々には今日会ってもらえるよう頼んである。私が一人で行くより、お前達を一緒に連れていった方が同情を誘えるだろうから、今日は私と行動を共にしてもらうぞ」

燈県は青痣のある苣乎の顔に視線を移し、

「これから直ぐに出るぞ。急ぎ支度をしなさい」

と、胆力ある声で言った。燈県が自分の右拳で左掌を撃って気合いを入れると、弥と苣乎は素早く立ち上がった。


夏孝担は老いた身体をゆっくりと動かしながら、その丸い体躯を燈県達よりも一段高い敷居の上へと移動させ、気だるそうな表情をあからさまに腰を降ろした。顔の皮膚は皺だらけで、だぶついた脂肪が見ていて気持ちが悪い。夏孝担の許しを受けて面をあげた苣乎は、孝傑との道中に見た蛞蝓を思い出した。

弥は強欲で知られる夏孝担が、金を貸してくれるとはとても思えなかった。それでも僅かな可能性を考えて頭を下げる燈県の決意と行動力に、弥は複雑な思いでいた。

可能性が低くても、出来る事は全てするということか。

無駄を嫌い、常に効率的に行動する弥には、燈県が此処に来た事が理解しがたい。

しかしその一方で、自分には本当に旦那様を助ける気があるのだろうかと、自分に疑問を投げ掛けていた。燈県の後ろで、彼の背中を見ながら、弥はやはり自分は家宰のような大きな仕事は出来ない、と心に描いた将来の姿を否定した。自分にはやはり使い走りしか出来ないということか。いずれ自分が大軍の指揮を任される将軍になるなど、今の弥には想像すら出来なかったに違いない。

「話は分かったが、今回は力にはなれない。おひきとり願おうか」

切実に頼み込む燈県に、夏孝担は淡泊な態度で接した。

聞くつもりのない話を、なぜ聞こうとしたのか。一生懸命に話をしている人間に対して、なんという態度であるか。苣乎は大きな欠伸をする夏孝担を不愉快に思った。苣乎には、初めから夏孝担が燈県の話に耳を傾けるつもりなどなかったとしか思えなかったのだ。

「もう終わりだ。約束通り話は聞いた。例の物を置いて、とっとと帰ってもらおうか」

食い下がる燈県を群がる蝿でも追い払うように、夏孝担は苛々しげに退けた。

燈県は無表情で持参した小包を夏孝担の配下に渡し、足速に屋敷を出た。燈県は次の目的地まで、一言も喋らなかった。弥と苣乎も同じ様に、喧騒な通りを無言のまま歩くのであった。


乾豚の自宅の前で、弥は、

「先程の包みは何でございますか」

と、燈県に聞いた。

「大夏鏡だ」

燈県の答に弥は目を丸くした。大夏鏡と言えば、最上級の宝品であり、人から欲しいと大金を積まれても、金だけでは決して譲らない代物である。

「なぜそのような物を……」

「旦那様の命が何よりも最優先だ」

「しかし……夏孝担は初めから金など貸す気はなかったのですよ」

「結果がどうあれ、話を聞いてもらわなければ始まらん」

もうこの話はするな、と言う燈県に、弥は納得がいかない。

大夏鏡だぞ。分かっているのか。少なく見積もっても金二万にはなる。金二万をどぶに捨てたようなものではないか。以前から燈県の裁量に疑問を感じていた弥は、呆れるよりも、この非常事態に何たることか、と頭の血を沸々と沸き立たせた。

不満が爆発しそうな弥に気をとめるそぶりもなく、燈県は乾豚の屋敷の中へと足を踏み入れた。

「夏孝担殿が会ってやってくれとのことだが、いかな用か」

三人が通されたのは、さほど広くない一室であった。乾豚の歳は夏孝担と同じぐらいか。痩せ型で、体格とは不釣り合いな立派な顎髭をはやしている男で、夏孝担のような傲慢な所は見えないが、目は陰気であり、あざとさを含んだ様相であった。

「実は、私どもに金を貸して頂きたく参りました」

燈県は事情を伝えたが、金を借りたいと聞いた乾豚は、あからさまに嫌な顔をした。

「金はない。さっさと帰ってもらおう。夏孝担殿も酷い事をするわい。何か良い話だと聞いておったのに……とんだ無駄な時間を――」

「詳しくお話を聞いて下さい」

乾豚の言葉を遮って、弥の鋭く尖った声が室内を駆け巡る。

「旦那様を無事救出できましたら、きちんと相応の御礼を致します。勿論どちらにしましても借りた金には利息をおつけしてお返し致します。それ程悪い話しではないと思います」

「たかが商人のくせに黙れ黙れ。良い話かはわしが決める」

乾豚はそう言って席を立った。

「もう話は終わりじゃ。お引き取り願おうか」


「燈県殿、こんなことをしていても、旦那様をお救い出来ませんぞ」

追い出されるように乾豚の屋敷を出た弥は、不満を燈県にぶつけた。

燈県は弥の声が聞こえていないかの様に、

「次は苓紀子だが、残っている大夫では最後だ。次が駄目なら別の方法を考えねばならん」

と、誰に言う訳でもなく重々しく言った。

実は昨日燈県は、奠に残っている大夫の中で一番財力のある夏孝担を訪れていた。大夏鏡を買える程の金を出せるのは、奠には夏孝担と商売敵である賀矯しかいない。賀矯とは犬猿の仲であり、とても話を持ってはいけないのが現状であった。燈県は夏孝担に大夏鏡を金二万で譲る旨伝えたが、強欲な人間独特の勘とも言うべきか、夏孝担は、

「何かお困り事でもおありか。今は大夏鏡に大金を出す気にはなれんのだ。お困りなら話を聞いてやっても良いが、何も無しではのう。そうじゃ、大夏鏡をただで譲ってくれるなら、話を聞いてやるどころか、乾豚や苓紀子にも口を利いてやろうではないか」

と言って、強欲で傲慢な顔をにやにやさせた。

「断るのは構わんが、この奠では誰の協力も得られなくなるぞ」

次に夏孝担は語気を強めてそう言った。

燈県には抗う事が出来なかった。孝傑と縁のある大夫の方々は皆大京への軍に参加しており、奠に残る大夫に対し、夏孝担は大きな影響力を持っているからである。燈県は理不尽に腹を煮えたぎらせながら、大夏鏡を差し出す事を決めたのだ。

大夏鏡も金にならねば何の意味もないわい。燈県はそう自分を納得させるしかなかったのである。

さあ行くぞ、と言う燈県に、弥はついに怒りを爆発させた。

「大夏鏡を返してもらいましょう。あんな形で差し上げるような物ではありません。売って金にすれば二万にはなりましょう。はっきり言って、燈県殿のやり方では金十万は作れませんぞ。先程の乾豚様に対しても、もっと食い下がるべきでございましょう。夏孝担様も同様ですが、向こうは実際に金を貸しても損などないのですから。燈県殿がもっと――」

「それ以上は言うな。喧嘩をしている時ではない」

夏孝担にしても乾豚にしても、孝傑が無事に帰るなど考える筈はなかった。相手はあの李兄弟である。金をむしり取られて終わるに違いなく、金を貸すなどありえない話なのである。

さらにこの二人について言えば、国を思う気持ちなどなく、自分の財を増やす事しか頭にない連中であった。今回の大京への出兵に関しても、他の大夫が国の平和を願う気持ちや己の立身出世の為に立ち上がったのに対し、この二人は病気や財政難と称して自兵を出さないばかりか、他の大夫から金を借り集め、あわよくば茗軍が負けて皆死んでくれれば良いとさえ考えているのである。

燈県にもこの二人が金を貸さない事は分かっていた。が、それでも出来る事はしなければならない。例え大損や無駄に終わってもだ。燈県は弥以上に苛立ってもおかしくない自分を、懸命に押さえ込んでいたのである。


大通りに出て、苓紀子の屋敷に向かう途中、三人はいきなり数十人の男に囲まれた。苣乎があっと声を出す間もないぐらいに突然の事であった。男達の服装は邑を警護する役人のものである。男達の中心で命令を出す男は、奠の司冦しこう則ち警察長官である苓紀子であった。

「これはどういうことでございましょう。今から司冦様をお尋ねする予定でもございましたが」

燈県の声はうろたえていた。とても迎えに来たとは思えない。明らかにこちらを捕らえようとしているからだ。

「その子供を捕らえよ」

苓紀子の声は冷え冷えしており、犯罪者に対する声と目であった。

「後の二人はついてきても構わんが、邪魔をすれば容赦はせんぞ」

苓紀子の眼光に、苣乎を連れて逃げようとした弥も動けなかった。

苣乎は縛られ、役人の一人の肩に担がれた。苣乎は何が起きているのか意味が分からず、無抵抗になすがままであった。

「その子が何かしたのでしょうか」

困惑気味の燈県が聞いた。苓紀子はむっと顔を歪め、

「賊の仲間だ。お前達は素性がはっきりしている故、捕まえはしないが、事情がはっきりするまでは奠から出ることは許さん」

と、言った。

燈県と弥の視線が、苓紀子の後ろで隠れている男を捕らえた。

――賀矯。燈県と弥は心の中で同時に呟いた。



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