奠(二)
夏元のこの時代、邑は城と同意語で使われていた。
邑とは、貴族や市民の暮らす町を城壁で囲んだものであり、戦争ではこの邑を取り合うことが基本になる。邑の中央には政治や軍事を行う宮殿があり、その周りを貴族や市民の住居が取り囲む。通りに出れば様々な店が立ち並び、邑民の生活を支えていた。また、邑の周辺には農民が暮らす集落が点在し、農業や家畜に精を出していた。
邑は言わば国の最小単位であり、幾つもの邑を合わせた地域が州である。茗や菟、那や帯振、与太等がそれに当たる。各州には諸侯と呼ばれる領主がおり、彼らは昇王朝の天子に任命され、それぞれ独自に政治を行っていた。
奠は大京の乱の首謀者である雷楽が治める茗の首都である。茗は夏元のほぼ中央に位置し、東西南北に走る大きな街道が奠で交差するなど、交通の要所とされていた。奠は人口が二十万人と夏元で最も大きな邑であり、商業が盛んな大都市であった。
苣乎の前方に巨大な城壁が見えた。大京の城壁も立派なものであったが、前方に見える城壁は更に高い。苣乎は孝傑から奠についての話をよく聞いており、高くそびえ立つ城壁を見て、奠に着いたことを知った。
李空は奠の手前で馬車を停めた。
「奠にはお前だけで行け」
と、荷台の苣乎を見ることなく言った。奠に入る為には城門を通らなければならない。戦時以外城門は開かれているのが常であるが、往来者を監視する守衛兵が目を光らせていた。手配書に載るぐらい賊の中でも名と顔を知られている李空は、当然監視の厳しい大きな邑には入れないのだ。
「三日間だ。それ以上は待たない。三回目の夜明けに俺はこの場所に来る。同じ時、金十万を用意して此処に来い。一乗の車では無理だろうが、車の数は出来るだけ少なくしろ。金を運ぶ随伴者の数は車と同じだ。それから下手な真似はするなよ。ある程度経っても俺が戻らないようなら、兄貴は当然人質を殺すぞ」
李空は正面を見ながらそう言うと、苣乎を一瞥し、目で行くように促した。苣乎が馬車から降りると、李空は馬車を反転させた。
「間違えるなよ。今日から三回目の夜が明けた時だ。お前も必ず来い。金が十万に足りなければ、人質は死ぬと、店の者に伝えろ」
李空は手綱を動かした。馬車は苣乎を残し、燦々たる太陽の中を去っていく。苣乎は直ぐに馬車から奠に視線を移し、目的地に向かって歩き始めた。燦々たる太陽が、正午をちょうど指していた。
夏元随一の商業都市である奠の賑わいは、初めてこの邑を訪れた人が、今日は年に一度の祭なのか、と勘違いする程に凄い。路の両側には隙間なく露店が並び、あちらこちらで客の呼び込み合戦が行われている。路は通行人でごった返しており、なかなか前に進めない。慣れない者が数歩進む度に、品物を買わされる光景も、此処では当たり前のように見受けられた。
奠では各地方から争うように物資が運び込まれ、夏元全土の特産物が店先に並ぶ。またそれが、人々の足をこの邑に向け、人と物とが絶え間無く流れ動く図式を形成するのであった。
此処での日常であるが、今日も城門では奠に入る為に人々が長蛇の列をつくっていた。城門で監視を行う守衛兵は、慣れた様子で一人ずつの身元と荷物とを調べ、段取りよく邑内に通していた。それでも夕刻までは列がなくなることはないのだから、いかに奠に人と物資が集まるかが分かるであろう。
邑内から一人の男が城門の様子を窺っていた。歳は二十代前半であろうか。きりっとした眉に細い目で、顔全体はうすい印象である。服装は商人の物で、細い体によく似合っていた。
あっ、と言うのと同時に、男は城門へと走った。守衛兵を押し退けて、城門で質問にどう答えようかと考えている少年を、いきなり抱きしめた。
「よくぞ帰ってきた。もう安心していいぞ。後はこの兄に任せなさい」
男は少年を抱きしめたままそう言うと、
「すいません。帰りが遅くて心配で、弟の姿を見た途端つい足が勝手に動いてしまいました」
と、守衛兵の方を向いて言い訳をした。守衛兵は自分達が突き飛ばされた事も忘れて、兄弟の再会に微笑んだ。
「孝傑の店で働いております弥と申します。これは私の弟でございます。弟を連れて行ってもいいでしょうか」
「孝傑殿の店の者なら安心だ。行きなさい」
「さあ、行こう」
弥は少年の手を掴み、邑内の雑踏に消えていった。
自宅に戻った弥は、苣乎を室内の北側に座らせ、自身は南側に両膝を合わせて座り、頭を低くした。主従関係において北側に座るのが主であり、南側が従である。子供ではあるが、王室育ちの苣乎にはこの意味が分かる。弥が苣乎の名前だけでなく、苣乎が王族ということも知っているということだ。
「苣乎様、数々のご無礼をお許し下さい」
弥は更に頭を下げ、額を床につけた。
「無礼など……。先ず頭を上げてください」
弥はゆっくりと頭を上げたが、まだ頭の位置は低い。
「貴方が弥だったんですね。孝傑殿から、奠の店に着いたら、家宰の前に貴方に相談するように言われました。貴方と会うのは今日で二回目ですが、どこまでをお話すればよいのでしょうか」
「お会いしましたのは、正確には今日で三回目でございます」
そう聞いて、苣乎の頭にあの夜のことが浮かんだ。
「そうでございます。暗闇の中、農家で縛られていた苣乎様をお救いしようと近づきました」
苣乎に言うつもりはないが、殺しの快感に狂騒した李空が苣乎の首を絞めた時、神業とも言える弓の遠射で李空の足を貫いたのも弥であった。
「最初、あの者は行く先々で何の罪もない人達を殺していました。私は苣乎様をお救いする機会をずっと窺っていたのです。ところがです、あの小川でやっとその機会がきましたが、苣乎様に断られてしまいました。私は推測しました。もしや旦那様があの男の仲間にさらわれて、店の者だと思われている苣乎様が、その証人とされたのではないかと。だから奠に向かっているのではないかと。苣乎様、ご面倒かもしれませんが、大京を出られた時の事から全て、弥にお話し下さいませ」
苣乎は、圭姫を置いて孝傑と二人で大京を脱出した事、多額の財を積んだ車が盗まれた事、農家で食糧を分けてもらった事、賊に捕まった事、李空との旅の事を、時には詰まり、時には話が前後したりしながらも、弥の助けを受けて一生懸命話した。
苣乎から知りたい事を概ね聞き出した弥は、難しい顔で押し黙った。
「貴方はいつから私の近くにいたのでしょうか」
苣乎にも聞きたい事はあった。弥については何も知らないのである。
「私のこともお話しなければなりませんね」
と、弥は表情を緩めた。
弥は普通の人が徒歩で三日かかるところを一日で行く。早く情報を入手したければ、脚の速い者を情報員として雇う。これはこの時代の常識であった。類い稀な脚を持つ弥は、孝傑の店で貴重な情報員として働いていた。また、弓術を始め様々な武術にも優れていたので、孝傑が邑間を移動する際には、必ず弥は護衛として同伴することになっていた。
孝傑が雷楽の挙兵を知った時、弥は奠から東へ五○キロ離れた地で、別件での情報を集めていた。予想していたより雷楽の挙兵が早いことに慌てた孝傑は、出発の準備を急ぎながら、弥に手紙を出した。
「旦那様は、私を待たずに一人で大京に向かうとのことでした」
手紙を受け取った弥は、直ぐに孝傑の後を追った。孝傑は弥の脚を計算し、予め落ち合う場所をも手紙に記していた。
「手紙には、旦那様がどの道を通るかも記されておりました。予定では、旦那様らが大京を脱出した日には合流出来る筈だったんです。ですが、途中大雨で河が氾濫し、私は足止めを余儀なくされました」
弥は東方から、孝傑らを猛烈な速度で追ったのであるが、遂に会う事が出来ず、大京と奠の間を一日さ迷ったのだ。
「見覚えのある服を着た少年が、目付きの悪い男と行動を共にしているのを見て、もしやと思い、後をつけたのでございます」
弥は苣乎の顔を知らなかったが、少年の顔を見て直ぐに苣乎だと決め込んだ。少年の顔は気品に溢れ、どう見ても商人には見えなかったからだ。だがそれは同時に、何かの不幸が孝傑を襲ったことを暗示しており、弥は張り裂けそうな胸の痛みに耐えながら、苣乎救出を決意したのである。
「苣乎様、状況は余り良くございません」
弥は自分の知っている事を一通り話すと、最後にそう付け加えた。
「金十万を、三回目の夜明けまでに持って行かなければ、孝傑殿をお救いすることが出来ません。金十万とは、そんな大金なのでしょうか」
「三日の内で用意するには、大変な大金でございます。ですが問題は別なところにもございます。仮に金十万を用意したとしましても、果たして無事に旦那様を返してもらえるかどうか。相手はあの李兄弟でございます。最悪、相手の家に金を届けた瞬間に、金を運んだ者達は皆殺しにされるやもしれません。そして、何食わぬ顔で、新たな大金を要求してくる事も考えられます」
そこまで酷いことは、しないのではないか。宮殿内で温厚に育てられた苣乎には、弥の言っている事が半分理解出来ない。
「多少の駆け引きは必要でございましょうが、とにかく金を用意してから考えることに致しましょう」
金については、店の責任者である家宰の燈県に相談するのが早道であり、二人は先ず店に向かうことに決めた。
「旦那様は今回の件、燈県殿には何も告げておりません。言えば必ず反対されると仰せになり、私にしか話されませんでした」
と、弥の話は続いた。
「燈県殿は信頼できますが、旦那様が戻るまでは、苣乎様のことは一応秘密にしておいた方が良いと思います」
奠は王朝に引導を渡そうとする雷楽の本拠地である。
そんな邑の一商人が、その滅亡の淵にいる王族を匿うなど、誰が聞いても馬鹿げた話であろう。
店の責任を一手に背負う家宰ともなれば、そんな危険な事には反対せざるを得ない。孝傑は誰にも相談せずに今回の行動を決めたのである。孝傑はどんなに危険であろうが、圭姫への気持ちを一番に考えたのだ。孝傑はその唯一の協力者として弥を選んだのである。弥の非凡な能力は勿論であるが、信頼できる人間性をも見て決めたに違いなかった。
「苣乎様、恐れ多いことでございますが、暫くは私の弟ということにして下さいませ」
額をまた床につけて恐縮する弥に、苣乎は席を立って近づき、弥の両手をとって頭を低くした。
「今から私は貴方を兄と思います。何も遠慮することはありません。私に出来る事があれば何でも言って下さい。孝傑殿をお助けする為、これから共に頑張りましょう」
弥もまた世間同様に、王朝に対して悪い印象を持っていた。
王朝に席を置く苣乎に対しても、我が儘で傲慢な少年を勝手に想像していたのだ。
だが、眼前で頭を下げる少年は謙虚で優しく、天と地程の身分の差があるにも関わらず、自分に余計な気を遣っているのだ。
なんという子であるか。弥は苣乎の奠迄の道則が、決して楽なものではなかったことを知っていたし、李空に痛め付けられた全身が、直ぐに治るような浅い傷ではないことも知っていた。何より、小さな少年には過ぎる苦難にあいながら、更なる困難に立ち向かって行く姿勢に、弥は目を見開いて驚いたのである。
「お心づかいありがとうございます。苣乎様、やはり先に医者の所へ行きましょう。お体が心配でございますので」
「体のことは心配ありません。少し痛い所もありますが……。それよりも、時間はどれだけあっても余ることはないでしょう。急いで家宰の下に参りましょう」
苣乎は元気な声を出した。実際には、李空から受けた傷と旅の疲労が重なって、今にも倒れそうな状態であった。
頑張らなければ……。肉体的な限界に達している筈の苣乎を動かすのは、衰えをしらない気力であろう。孝傑を助けたいという強い気持ちが、苣乎の気力を支えているのだ。
「分かりました。とにかく燈県殿に会いましょう」
出来るだけ苣乎の気持ちを尊重したくなった弥は、一先ず医者の所に行く事を諦めた。
「名はどういたしましょう。本名では命取りでございます。何か適当な名でお呼びすることになりますが……」
何でも構わないと言う苣乎に、
「それでは、弥乎に致しましょう。私の字を入れた方が、呼び名としては自然ですので」
「弥乎ですか。良い名です」
これより苣乎は、実に十五年もの長きに渡り、この名を使うことになる。
「今からは弥乎か……」
考え深げに佇む苣乎も、この時消された苣乎と言う自分の名が、後に夏元全土を巻き込む大乱を引き起こそうなど、考えようもないのであった。
弥の家で簡単な昼ご飯を終えた二人は、喧騒な通りへと出て行った。
向かう先は、邑の中心でもある中央の大通りにある孝傑の店である。
足速に歩を進める弥と苣乎は、距離をとりながら自分達を尾行する影に、全く気が付かなかった。二人が孝傑の店に入って行ったのを見届けた尾行者は、満足した様子でにやりとし、直ぐにこの場から走り去った。苣乎の周りでは、まだ暗雲が漂っている。これから成人するまでを奠で暮らすことになる苣乎であるが、最初の三日間は奠での最も辛い時間になるのであった。