奠(一)
空は晴れであるが、地上には嵐のような強風が吹き荒れていた。
朦朧とする意識の中で、苣乎は李空の歓喜の叫びを聞いていた。
腫れ上がった右尻は既に痛みを感じない。
狂走する馬に俯せで縛られた苣乎に激しい鞭が飛ぶ。連続で三発鞭が入ると、苣乎は今日何度目かの白目を向いて気絶した。それでも苣乎の身体には、容赦ない鞭が打たれ続けた。狂ったように奇声を発しながら鞭を打つ李空には、馬だろうが苣乎だろうが関係ない。ただ力いっぱい鞭をしならせることが、この男の楽しみであったのだ。
無茶苦茶に鞭を振り下ろす李空の腕が止まった。舌打ちした李空は、鞭に反応しなくなった馬と苣乎を睨みつけ、おもいっきり手綱を引いた。馬はもんどりうって転倒した。李空は素早く馬から飛び去ると、疲労で活力を失っている馬の頭部に蹴りを食らわした。
「駄馬が…役に立たねえ…役に立たねえ…役に立たねえ――」
苛々で頭を掻きむしる李空の目は正気ではない。腰の短刀を抜くと、奇声と共に馬の横っ腹に短刀を突き刺した。疲労で立つことも出来ずにもがき苦しんでいた馬が、小さく震えた後、力無く生き絶えた。
「糞が、また殺っちまった」
李空はかすれた声でそう言うと、薄気味悪く笑った。馬を殺したのは後悔だが、それ以上に馬を殺した快感が、李空に至福の時を与えているのだ。
殺しの余韻にしばらく浸っていた李空は、はっと我に帰った。馬の尻に縛られているずたぼろの苣乎を、恐る恐る覗き込んだ。
「死んではないだろうな…お前に死なれたら俺は…俺は…帰れなくなるんだからな……」
情けない顔で、苣乎の首に手を当て脈を調べる。
安堵の表情を浮かべた李空は、苣乎の小さな頬を平手で打った。李空は平手を打ち続けた。苣乎が目を覚ますまで止める気はない。五発、六発……李空の顔はにやけ、すっかり悦に入り、できればこの少年の目が覚めない事を祈るようになった。何発目だったろうか、苣乎は引き付けと共に意識を取り戻した。苣乎は激しく肩を揺らしながら、呼吸を整えた。
まだ生きている……。苣乎はまだ死んではいない事を先ず認識した。
この人は狂っている…正気ではない……。一見男の目は優しげであるが、奥に潜むのは残忍さである。苣乎は悪寒を感じて後退ろうとした。が、馬に縛られている身体は動ける筈がなかった。
「今縄を解いてやるから大人しくしてな」
そう言った李空の声や態度は優しい。それが苣乎の恐怖心を増大させた。身体が自由になった苣乎であるが、身体中の激しい痛みで、直ぐには動けなかった。
逃げなければ……。苣乎は痛みを堪えて逃げようとしたが、身体が言う事を聞かない。
逃げなければ…殺される……。苣乎の身体は恐怖の為に震えていた。李空がゆっくりと近付くと苣乎は小さく悲鳴をあげた。
「黙らないと、殺しちゃうよ。俺は人が恐怖に怯えているのを見ると、興奮して殺りたくなるから……」
黄ばんだ歯を見せながら李空が近付いてきた。両手が苣乎の首にかかる。声が出ない。涙がとめどなくが溢れ出る。
首にかかった震えた手に、ゆっくりと力が加わる。
――死ぬ。苣乎は恐怖で抵抗することも出来ない。呼吸が苦しくなり、意識が遠退く。苣乎は最後の力を振り絞り、ありったけの声で叫んだ。
荒れ狂う風が一瞬止んだ。無風状態の空間を、一筋の矢が切り裂いた。矢は李空の右足首に突き刺さる。李空は苣乎の首から手をはなし、もんどりうった。倒れている馬の陰に這い進んだ李空は、馬を盾にして体制を立て直す。
「誰だ、畜生、出てきやがれ」
李空は怒鳴った。その怒鳴り声を掻き消すかのように、強風が再び辺りに吹き乱れた。森林は風を受け、がさがさと音を鳴らしている。李空の声に反応はない。李空は矢が飛んできた方角に目を走らせたが、颯爽と繁る木々が視界を遮っていて、狙撃者の姿を発見することが出来なかい。
「畜生が……」
舌打ちした李空は、自分に刺さっている矢をがむしゃらに引き抜いた。矢傷は浅く、致命傷ではなかった。浅い傷に、思ったより遠方から放たれたかもしれない、と考えて、この風では次に放たれる矢があたることはないと断定した。
風が止まなければ弓は使えまい。李空は上空を睨み、あの一瞬を無風状態にした天を憎んだ。
生死を分けた苣乎であったが、既に気を失っており、まだこの世にしがみついている自分に会えなかった。李空は荷物をまとめ、片手で苣乎を持ち上げると、この場から走って逃げ出した。追い風にのった李空は、人間離れした速度でこの場を離れる。抱えられた苣乎の目は、まだ閉じられたままであった。
――怖い…怖いよ。嫌だ、嫌だ…嫌だ――。懸命に走る苣乎であるが、どれだけ走っても結局は捕まえられて殺される事は分かっていた。だが、苣乎はがむしゃらに走った。とにかく怖くて怖くて堪らないのだ。
助けて…誰か助けて…怖いよ――。鞭が苣乎の背中を激しく打つ。
痛い――。苣乎は前のめりに倒れ込んだ。立ち上がろうとした苣乎に、鞭が雨のように飛んできた。恐怖と激痛に苣乎は泣きわめいた。
苣乎は目を覚ました。全身が汗でびしょびしょであった。呼吸が荒く、心臓が激しく波打っていた。体中が焼けるように熱くて痛い。夢からは覚めたが、悪夢はまだ終わっていないのかもしれない。
生きている…のか。暗闇の中、縄で縛られ動けず、激痛に耐える自分はいかにも現実的で、記憶が頭を駆け巡れば巡る程、苣乎の心の中は恐怖で埋め尽くされる。
もう死のう。死ねば楽になれる。こんなに辛いなら母上もきっと許してくれる。うん、そうだ。そうしよう。死ねばいいんだ。簡単なことだ――。自暴自棄になった苣乎の頭に、突然母の声が聞こえた。
「人を助けることは素晴らしいことです」
苣乎が十歳の時である。
圭姫が苣乎を連れて与太へと外出した事があった。
与太は大京がある帯振の北にあり、夏奥山脈も与太の地に含まれる。山間にある幾つかの邑の内で、もっとも大きな邑が楽刹である。楽刹には昇王朝の歴代の王の墓があり、その為圭姫は苣乎の父親でもある苣王の墓参りに出掛けたのである。
道の途中、圭姫の一行を山賊が襲った。が、山賊は五、六人の小さな集団であり、護衛だけで倍の人数をようする圭姫の一団によって、簡単に捕えられたのである。
捕らえられた山賊の首領らしい男は大きな声で、
「貧乏で食べることも出来ず、一昨年産まれた子供は栄養不足の為に痩せ細り、もう長くは生きられない。牧畜で得た金の殆どは税金として納め、王は俺達に生きることも奪うのか。贅沢を続ける王室から少しぐらい奪って何が悪い」
と、息巻いた。王朝の一団を襲い、さらに王朝に対しての批判である。通常ならば死刑の中でも最も重い刑が言い渡されるところであったが、車から降りてきた圭姫が、
「その者達を開放し、今ある財貨を全て差し出しなさい」
と、言ったことで、事態は思いがけない方向へと進んだのである。
「圭姫様、ご冗談を。折角捕らえた賊に財貨を渡して逃がすなど、出来る訳がございません」
護衛長が半ば笑いながら圭姫に言った。
「この顔が冗談を言っている顔に見えますか」
「――しかし、それでは苣王にお供えする物が無くなりますぞ」
圭姫が真剣なのを理解した護衛長は、そう言って圭姫に再考を促した。
「苣王には心を供えましょう」
圭姫は呆れる護衛長らにこれ以上話す事はない、というようにさっさと車に戻った。残された者達は仕方なく圭姫の言葉に従った。
自由を与えられ、豪華な土産まで持たされた山賊は、自分の頬をつねり夢でないことを確認して喜びに跳びはねた。有頂天の仲間をよそに山賊の首領らしき男は、圭姫の乗る車が見えなくなるまでずっと地面に両手をついて頭を下げていた。男の目からは、ぽたぽたと涙が落ちていた。
「母上、賊に何故あのようなことをしたんですか」
車の中で苣乎は聞いた。
「確かにあの者達の行為は許されない事です」
圭姫は少し間を空けて、
「ですが、一人ぐらい味方になってあげてもよいではありませんか。きっと天も許してくれるでしょう」
と、圭姫は優しく微笑んだ。
「あの者が言うように、王は国民を苦しめているのでしょうか」
「全ての人を幸せにすることは、なかなか出来ることではありません。いいですか苣乎、人を助けることは素晴らしいことです。貴方はこれから困っている多くの人を助けなさい。そうすれば多くの人が幸せになれるのです。人の幸せを自分の幸せと感じられる人間になりなさい」
苣乎は大きな声で返事して、母の胸に飛び込んだ。何故だか無性に甘えたくなったのだ。
母上……。苣乎は自分でも気がつかないうちに泣いていた。涙が止まらない。あの時と同じように母に甘えたかった。
母上…苣乎は、苣乎は…母上に会えたら、褒めてもらえるようになります。母上の言った通りにしたと、褒めてもらえるように頑張ります。
苣乎は肩で涙を拭いた。もう涙は流れていない。苣乎の中で何かが弾けた。それは苣乎の体内に、勇気が生まれた瞬間であったのかもしれない。
苣乎の顔付きが変わった。恐怖に怯える少年はもういない。いるのは使命感に燃える勇敢な少年である。
苣乎は五感を働かせた。
先ず、血の臭いを嗅ぎ取ると、次に、微かな物音を聞きとった。そして暗闇に慣れてきた視力が苣乎に多くの情報を与えてくれた。苣乎は寝室のような室内にいた。その中央付近に苣乎はいるが、部屋の出入口に二人の人間が重なるように横たわっていた。寝ているようには見えない。明らかに死んでいるようである。
がさがさとまた物音がした。
と同時に、部屋に誰かが入ってきた。暗くて顔が見えないが、李空以外に考えられない。苣乎は目を閉じたが、寝ている振りをするつもりはない。上体は起こしたままであり、相手はこちらが起きていることに気がつくであろう。ここで自分自身に勝たなければ、一生弱い人間で終わる、と苣乎は決意を固めた。
気配で近付いてくるのが分かる。緊張で身体から汗が噴き出してきた。決して怖い訳ではない。苣乎の小さな心臓が波打つ毎に、苣乎は小さな勇気を積み重ねていた。
自分が死ねば孝傑殿が殺される。生きて必ず孝傑殿をお救いするのが自分の勤めであり、責任だ。苣乎は肚から声を出した。
「私に手を出す事は許さない」
声に気魄があった。闇の中、近付く男は動きを止めた。離れた場所から、
「まだ誰かいるのか」
と、李空の声がした。次の瞬間、闇の中の男は踵を返して部屋を出た。
「誰だ」
李空が叫んだ。男の逃げる足音を李空の足音が追う。苣乎は静寂の中に一人残された。
あの男ではなかったのか――。苣乎はおかしくて笑いそうになった。最大の勇気で放った言葉は対象者を間違えたのだ。こんな状況下だからより滑稽に思えた。苣乎は肩の力を抜いた。自然体であると言ってよい。暫くして、炬火を持った李空が姿を見せた。怖い顔をしていたが、正気を失っている時の目ではない。
「おい、誰と話していた」
全速力で走った後なのか、ぜいぜいと李空の呼吸が荒い。
「あの尋常じゃねえ足の速さはここの住民とは思えねえ。あの矢を放った奴だな」
「先程の人とは話をしてません」
苣乎の声は落ち着いている。
「何者だ」
「存じ上げません」
「てめえ、なめてんのか」
李空が声をあらげた。
「知らないものは答えられない」
苣乎の声は大きくて、口調には微塵の臆病さも感じられなかった。今までびくびくしていた少年の態度の変化に、李空は多少の戸惑いを見せた。
「さっきの奴に何を吹き込まれたかしれねえが、逃がしはしねえ。ちょっとでも変なそぶりしてみな、俺は容赦しねえぞ」
「逃げるなどとんでもない。生きて孝傑様をお助けしなければならないのですから」
時間が経っても苣乎が蓄えた勇気の大きさは変わらない。
「今後私に手を出さない事を約束して下さい。さもなくば……」
「さもなくば何だ」
「さもなくば、例え生きたまま奠に着けても、貴方の言う通りにはしないということです。孝傑様は既にお亡くなりになったと伝えましょう。金は渡しません。私を殺したければ殺しなさい。そうすれば貴方は手ぶらで戻ることになりましょう」
「生意気ながきが……」
「私の命には、いえ、私の言葉には金十万の価値があります。これ以上私に酷い事をするならば、孝傑様のお命と自分の命を捨てましょう。きっと孝傑様も許してくれます」
苣乎の目を見れば、脅しでないことは明らかであった。李空は少年とは思えぬ苣乎の凄みに、思わず後退りした。
「勝手にしな。だが、俺の役目の邪魔はするな。もう寝ろ。明日からは道を急ぐからな」
李空はそう言って部屋を出た。
孝傑殿待ってて下さい。苣乎は必ず助けに行きます。苣乎はすっと眠りに入った。体中の痛みは消えていないが、この時の苣乎にはさほど感じられなかった。
目を覚ますと、苣乎は馬車の荷台にいた。李空は荷台の前方で手綱を操っている。空は青々としていて、風もさほど強くない。春の暖かい風は苣乎の髪を優しく撫でる。昨日までの厳しい風はすっかりと様変わりしていた。
風が変わった――。
苣乎は風の変化を自分に重ね合わせて、最悪の状況は脱したと、一人ほっとした。実際もそうだと言えた。李空はひたすら先を急ぎ、苣乎を構うことがほとんどなくなった。奇行に走ることもなく、苣乎や馬、宿屋の人々を手にかけることもなくなった。連れている少年が怯えることで、興奮していたということだろうか。
「奠の店に着いたら役目を果たせ」
李空が苣乎に話す事はこれ以外には食べろと寝ろぐらいで、饒舌であったことが嘘のように李空は寡黙な男になっていた。
苣乎はある程度自由にされた。逃げられないように縄で縛られることもなく、移動中以外は自由に歩くことも出来た。
李空との四日目の昼ご飯を済ませた苣乎は、山の中で小川を見付けた。
「水を汲んできます」
李空に一声かけるが、返事はない。李空は苣乎に対して、駄目な事は駄目だと言い、してもいい事は何も言わない。返事のないのは許すということだ。苣乎は小道を下った。
小川の水は透き通っていて綺麗だった。苣乎は両手で水をすくって口にふくんだ。何とも言えない水の冷たさが、少年の小さな体に染み渡る。苣乎は口を直接小川につけて水を飲んだ。そして顔を水につけた。顔がひんやりし、水の流れに適度な刺激を受けて気持ちが良かった。
傷はまだ痛む。特に右足の付け根と背中の傷は深く、腫れも酷かった。苣乎は水で布を濡らして傷口を洗った。傷口がしみたが、苣乎は顔を歪めただけで声は出さなかった。苣乎が我慢強くなったのと、痛みに慣れたせいであろう。
苣乎は傷口を洗い終えると、背中をくねらせながら伸びた。
これぐらいの身体の痛みは何とかなる。本来ならば立っているのもやっとの傷である。鞭で打たれた痕は赤く爛れて腫れ上がっている。体中が火傷のように熱く炎症しているのだ。苣乎の気持ちは依然として強いということだ。
李空の所に戻ろうとした苣乎の背後で人影が動く。人の気配を感じた苣乎は辺りを見回した。
蝶が木から木へ、花から花へと踊るように飛んでいる。小鳥達は歌うように鳴き、あちらこちらを忙しそうに羽ばたいている。山を知らない苣乎にとって、動物や昆虫が暮らす長閑な風景はまさに至上の楽園であり、自分もこのような自然の中で生きてみたいと切に思うのであった。
確かに誰かがいたように感じたけど……。辺りに異常なしと判断し、一歩目を踏み出そうとしたまさにその時、苣乎は背後から口を押さえられ、あっという間に草村の中に引きずり込まれた。咄嗟のことで苣乎は抵抗出来なかった。
草村の中で苣乎は男と目を合わせた。
「ご安心して下さいませ。お味方でございます」
男は早口にそれだけ言うと、苣乎の体から手を放した。苣乎はあまりに唐突な事故、何も言えずに眉を寄せた。
「さあ、あの殺人鬼から逃げましょう。急いで私とお逃げ下さいませ」
苣乎が着いて来ることに何の疑いもなかったのだろう。男は戸惑う苣乎を見もせずに、苣乎の腕を掴むと走り出そうとした。
「待って下さい」
苣乎は慌てて掴まれた腕を引っ込めた。
「誰だか知りませんが、一緒には行けません」
振り返った男は苣乎の言葉に驚いたようで、唖然とした顔で苣乎を見た。
「今何といわれましたか」
「一緒には行かないと言ったのです」
「何故です」
「ある人を助けなければならないからです」
「ある人とは」
「奠の商人孝傑殿です」
男は暫くの間考え込み、
「奠へ向かっているのですね」
と、苣乎に聞いた。
「奠の孝傑殿のお店に行きます」
男は苣乎の両肩に手を置いて、
「お気をつけ下さい。あの男は人を殺す事に快楽を感じているようです。もしもの時にはこれをお使い下さい」
と言って、腰にさげた短刀を苣乎の足元に置いた。
「くれぐれも道中ご無事で。私も陰から見ておりますので」
男はそう言って、背中を見せた。男の背中には見事な弓矢が背負われていた。
「貴方は――」
苣乎が最後に、貴方は誰なのか、と聞くよりも早く、男の姿は草村の奥へと消えていった。