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京南の狼(二)

孝傑と苣乎はの北方に入った。那はめい、大京のある帯振たいしんと同じような地方の名称である。那の真ん中辺りにある首都新那には孝傑の店はないが、取引のある豪商劉馬りゅうまの本店があった。孝傑は奠に行くのに、劉馬の援助を受けようというのである。

新那に行けば何とかなる。孝傑はそう考えていた。

遠くに小さな集落が見えた。

思ったよりも早く集落が見つかり、孝傑は胸を撫で下ろした。太陽はまだ頂上に達していない。正午過ぎには食にあり着けそうだと見当した孝傑の足は、棒のようになっていた。早朝から二頭の馬を引き、休むことなく歩き続ける孝傑も、六十四歳という年齢には勝てなかった。それでも、苣乎に足の疲れを悟られることなく、孝傑の足は前へ前へと出続けた。

何としてでも苣乎様を守り抜く。車が盗まれたことで、奠に着くまでは安心できぬという気持ちがより強くなっていた。

近付いてみると、集落は一軒家であった。家は粗末であったが、周囲の田畑は広くて手入れが行き届いており裕福そうであった。一世帯で賄うには広すぎる田畑であるが、質は非常に高いと孝傑は思った。

普通集落はまちの周辺にできるものである。邑には人と物資、情報等様々なものが集まる。主に農耕で暮らす集落の人々にとっても、邑が近くになければやはり不便であった。

一番近い邑まで歩いて二日はかかろう。頭の中の地図に照らし合わせると、前方の集落は常識はずれの位置だと言えた。何か訳ありの人物が住んでいるかもしれないと考えなくもないが、良く行き届いた田畑を見る限り、悪人が住んでいるとは思えなかった。

田畑に人が見えた。孝傑は苣乎を素早く馬から降ろし、

「全て孝傑にお任せ下さい」

と、笑顔で優しく頷くと、苣乎も笑顔で返事した。

二人の男が田畑にいた。孝傑と苣乎の姿を見取ると、二人の内大きい方の男が近付いてきた。岩が動いていると苣乎が錯覚する程に、男は大きくて厳つい体躯の持ち主であった。

「何かご用か」

眉が太いが顎も太い。身体と同じような厳つい顔である。左頬には十字の傷痕があり、それが勇ましさをより増していた。

「おい、何か言ったらどうだ。耳が悪いのか」

男の風貌に圧倒されて返事が遅れた孝傑は、

「失礼致しました。奠の商人で孝傑と申します」

と、商人らしい腰の低さで相手に対した。

「商人が何か用か」

見た目と同じ、声も武骨である。

「はい。申し訳ありませんが、食を分けて頂けませんか」

「食だと――」

男は胡散臭そうに孝傑を観察した。

「まあいいわい。害はなさそうだから主に合わせよう。ついてこい」

男は背中を見せ、歩き始めた。

「主よ、客だ。迷子にでもなったのか知れねえが、食を分けて欲しいだとよ」

大男が三十代前半なのに対して、主と呼ばれる男はまだ二十歳そこそこの青年と言ってよかった。眉目に涼しさがあり、青年の顔は秀麗である。才能を鼻にかけるのではなく、むしろ隠しているが溢れ出てしまうかのような印象を受けた。農民の服装をしているのが、かえってこの青年の才を際立たせている。胆知に優れているとはこういうことであろう。青年を一目見た孝傑はそう思った。

「此処には十分な食糧がございます。好きなだけお持ち頂いて構いません。さぞお疲れのことでしょう。差し出がましくなければお泊り頂いて、ささやかな宴を設けましょう。旅の話をして頂ければ幸いです」

気持ちの良い声だ。孝傑は好感を持った。丁寧に御礼を述べた孝傑は、

「昼ご飯のみで結構でございます。先を急ぎますので」

と、宿泊については断った。青年は特に気分を害したようには見えず、ただ残念そうな顔をした。

孝傑と苣乎は青年に招かれて食事をとった。食事は質素なものであったが、その分量が多くて豪華とも言えた。苣乎は初めて食べる田舎料理に大いに喜んで、箸を忙しく動かした。

「まだお名前を伺っていませんでした。必ず御礼を致しますので、お聴かせ願いませんか」

「地方のしがない農民でございますので」

青年は苦笑いで答えた。

「此処で私が貴方達にしたことは、何も見返りを求めてのことではございません。縁があればまたお会いもしましょう。その時に私が困っていれば、お助け頂ければ有り難い事です」

青年の謙虚な姿に感動した孝傑は、落ち着いたら必ず御礼をしよう、と心に誓った。孝傑は後に青年に金を贈るが、この青年の自宅には既に誰も住んでおらず、結局青年の恩に報いることができなかった。青年への恩返しは、後に苣乎が意外な形で果たすことになるが、それは此処にいる誰もが想像すらできないことであった。

「新那の劉馬殿をお尋ねでございますか」

孝傑から行き先を聞いた青年はそう言って、隣の大男と目を合わせた。

劉孟りゅうもうが留守で良かった」

と、ぽつりと言った大男は、しまった、という顔で青年から目を逸らした。青年の片眉が少し上がった。青年は孝傑の方を向いて、

「今のは聞かなかったことにして下さい」

と、言った。

「最近歳のせいか耳が急に遠くなることがございます」

孝傑は素知らぬ顔でそう言った。劉孟について、孝傑は口外するつもりのないことを暗に伝えた。

劉孟は劉馬の嫡男である。

何よりも利を求める父親の姿勢に反発して三十歳で家を出た。

それから十八年の歳月が過ぎたが、その間劉馬はずっと行方知れずの我が子を探していた。

劉孟の行動が、劉馬に利より大切なことがあることを気付かせたのである。劉馬ができれば劉孟に家督を譲りたいと言っているのを、孝傑は耳にしたことがあった。劉馬に劉孟の所在を教えてあげたいが、劉孟にも事情があり、実際に彼と会って話をするまでは軽率な行動はしない方が良い、と孝傑は考えた。勿論恩ある青年から口止めされている為でもあったが。

「そろそろ出発致します。このご恩は必ずお返しを致します」

大雨の為に地面が緩く、車が大きく揺れたこと等、差し障りのない事柄を選んで話をした孝傑はそう言って立ち上がった。

別れ際に孝傑は、

「どうかこの馬を受け取って下さい。今は疲れていて覇気がありませんが、召來しょうらい産の良く走る馬でございます。一日休めばきっとお役に立ちましょう」

と、言って苣乎を此処まで乗せてきた馬の方を青年に差し出した。

「今は他の者が使っているのでいませんが、二頭の馬を持っています。三頭は必要ありませんので、そのままお持ち下さい。それにこの食糧を運ぶのには、馬は二頭あった方が心強い」

孝傑と青年はなかなか折れなかったが、孝傑は遂に青年に押し切られて馬の手綱に手を伸ばした。

腹を満たした孝傑と苣乎は、二日分の食糧を得て集落を後にした。青年の名が先清せんしん、大男の名が勝郤かつげきであり、先清の父の先尚せんしょうと劉孟も共に此処で生活していたことを孝傑が知るのは、これから五年後のことであった。

孝傑と苣乎が出発した一時間後に、先尚と劉孟が帰宅した。

「父上、奠の商人で孝傑という方をご存知でしょうか。なかなか立派な人でございました」

「奠の孝傑と言えば、義に厚く、庶民から絶大な人気を誇る大商人だと聞く。何故孝傑は此処を訪れたのか」

先清は孝傑が車ごと積み荷を盗まれ、食に困っていた事を父に話した。

「孝傑は北から来たのか」

先尚は何かに思い当たったようで、

「誰かお連れがいなかったか」

と、先清に聞いた。

「そう言えば子供の使用人を一人連れておりましたが、この子供もなかなかの人相をしておりました」

先尚はしばらく考え込んでいたが、

「大京が茗菟連合軍に占拠されたらしい」

と、それだけ言うと、後は自分で考えろとばかりに、先清に背を向け会話を終わらせた。

孝傑殿と何の関係があるのだろう。先清は訝しげに父の背中を見た。

夕食の支度をしている時に、勝郤は近くで米を炊いている劉孟に罰の悪い顔で話し掛けた。

「実は孝傑とか言う商人が居る時に、うっかりお主の名を出してしもうてなぁ。なあに、先清様が口止めしてくれたから、大丈夫だとは思うがのぉ……」

劉孟は一瞬むっとしたが、直ぐに笑い顔を作って、

「先清様が口止めして下さったなら間違いはなかろう。奠の孝傑と言えば大人物だ。約束は守ろうよ」

と言って、心配顔で見詰める友人を安心させた。口ではそう言った劉孟であったが、内心穏やかではなかった。

己の利益の為なら平気で約束を反故するのが商人というものだ。父の薄汚い商いを思い出して、劉孟は憂鬱になった。

そろそろ新たな旅に出る時期なのかもしれない。

少し前まで、夏元かげんには三人の賢者がいると言われていた。

華西かせい諸侯大旻師たいびんししゃ宰相漕雷そうらい、そして那の宰相先尚である。先尚は一年前に引退して、今は那の北方で静かな隠棲生活をおくっている。自らの家を出た劉孟は何処に落ち着くでもなくずっと旅をしてきたが、以前より尊敬していた先尚が人里離れた山間部で土にまみれて生活していると聞いて、是非教示を受けたいと先尚の元を訪れたのだ。

あれから九ヶ月が過ぎた。劉孟は旅立つべきか迷っていた。


食糧を一方の馬に括り付け、もう一頭に孝傑と苣乎が乗る道すがら、苣乎はすっかり明るさを取り戻していた。苣乎は初めて見た農民の生活に驚いて、興味津々といった感で孝傑に質問を浴びせた。

孝傑が話し上手なこともあり、二人の間には笑いが永遠に止まないように感じられた。が、後方からの急接近する騎馬の群れが出す騒音に、二人は会話を止めて振り向いた。


「見えたぞ。あれだ」

一人が狂喜の雄叫びをあげた。つられて何人かが大声を張り上げる。賊は全員が騎馬である。二十騎の騎馬が前方の孝傑と苣乎を猛追する。怒声をあげながら突き進む騎馬の群は、草木を荒々しく踏み潰しながら一直線に獲物を目指す。

「命を拾ったわ」

先頭の男が叫んだ。賊の頭は李会りかいである。李会は先頭を走る五人に、

「見つからねば死ね」

と、言葉を投げていた。

先頭の五人は夜半に進む馬車を見つけて、ひそかに後を追った。孝傑と苣乎が眠るのを見届けると、五人は車を馬から引き離して持ち出したのだ。暗闇の中で積み荷を確認することはなかったが、まさかあれ程の財が積まれていようなど考えもしなかった。

「おまえら、こんな大金を持ち歩く奴を誘拐しないでなんとするか」

住家に戻った五人は積み荷を確認して発狂せんばかりに喜んだが、李会にそう言われて顔色を変えた。大手柄が一転して、命懸けで積み荷の主を見つけなければならなくなったのだ。少し前に大京の軍に大敗し、多くの部下と片腕である弟を殺される痛手を被った李会は、大量の財を前にしても機嫌が悪かった。五人にとっては予期せぬ不運であったと言えよう。

前後に挟み込もうと、五人は馬の速度をあげて孝傑らの前に出た。

孝傑と苣乎に逃げる術は見当たらない。抵抗は虚しく、二人はあっという間に囲まれた。

「昨夜こそ泥の不運にあったのはお前だな」

李会の問いに孝傑は無言で答える。

「本当の不運はこれからだ。馬から降りろ」

孝傑は苣乎を降ろして自分も馬から降りた。

「財は全て盗まれ、僅かな食しか持ってませんが、どうするおつもりか」

「あれが全財産でもねえだろ。家にはあの何倍も持ってんだろ」

孝傑は身代金目的に誘拐される事を理解した。

「あれだけの財だ。有名な商人に違いねえ。名乗れ。言わなければ先ずがきを殺る」

李会の声には凄みがある。孝傑が言う通りにしなければ、躊躇することなく苣乎を殺すであろう。

「奠の孝傑と申します」

「ほう、奠の孝傑だと。こりゃあ大物が網にかかったわ。何万金稼げるのか楽しみだ」

李会は大声で笑い、残忍な顔付きで踵を返した。苣乎は恐ろしさで身体が震えた。これまでの人生で最大の恐怖と言えよう。

「孝傑は住家に連れ帰れ。がきはこの場で殺せ」

李会は去り際に部下に命令した。

此処で死ぬのか――。苣乎は小さ過ぎる自分の存在に呆れ、泣いた。母に別れの挨拶が出来なかった事を悔やんだ。

母上、親不孝な苣乎をお許し下さい。

賊の一人が懐から短刀を出して苣乎に近づいた。

「その子に手をかけてお金が入るとお思いか」

背中に両手を結ばれた孝傑が、李会に向かって言葉を投げた。李会の足が止まった。振り向いた顔は鬼の形相で、

「俺に指図するんじゃねえ。てめえも殺すぞ」

と、怒声をあげた。孝傑も負けていない。

「私はまだ死にたくない。お金を貴方に与えなければ助からないから、その子を殺すなと言っている」

孝傑の気魂は決して李会のそれにも負けていない。むしろ気迫は孝傑の方が上であった。李会はむっとしたが、これが豪商と呼ばれる男の胆力なのかと、孝傑の鬼のような気迫に押された。

「どういうことだ」

「私が助かる方法は一つ。奠の家に身代金を支払ってもらうしかありません」

孝傑は、それにはこの少年が証人となり奠に帰る必要があると、声を大にして言った。少年を殺せば誘拐を裏付ける証拠に乏しくなり、店の者はお金を用意しないであろう。今回の運搬予定では奠に帰るのにまだ日にちがあり、今から出て奠の店に誘拐を伝えても、孝傑が帰る予定の期日を過ぎなければ誰も動かない、と孝傑は必死に力説した。

「身代金が届かなくては私は殺される。貴方が得をすることもありません。この少年を無事に奠の店に送り届けることが、貴方に巨万の富をもたらすことだと、お思いになりませんか」

「お前の持ち物が証拠になるだろうが」

「生きた証人なしで、誰が巨額の金をだしましょう」

李会は小さく唸った後、

「がきを殺すな」

と、部下に命令した。それから少しの時間考えて、

李空りくう、お前ががきを奠まで連れて行け。奠で金十万を手に入れたら真っ直ぐ帰ってこい。いいな、寄り道するんじゃねえぞ。金十万だ。一切まけるな。間違えるなよ」

と、李会は賊の中で一際美形な男を指して言った。命令された美形な男は、苣乎の元に歩み寄り、

「よろしくな」

と、爽やかな声で苣乎に話し掛けた。

李会率いる賊は孝傑を連れて住家に向かった。

「奠の店に着いたら、家宰の前にに相談しなさい」

去り際に孝傑は、心配顔で見送る苣乎に言った。孝傑の目はもっと多くの事を言いたそうであったが、状況がそれを許さなかった。

苣乎と李空をおいて出発した賊は、未練がましく苣乎に視線を送る孝傑とは反対に、誰も振り返ることなくさっさと馬を進めた。数十頭の馬の足跡と二人の人間が、広い大地にぽつりと残された。強い風に煽られた木々は、まるで苣乎が孝傑を呼び叫ぶのを代弁するかのように、大きな音をたてていた。苣乎は奥歯を噛み締め、そして涙を流した。

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