大京の乱(二)
孝傑の馬車が西門を通過したのと調度同じ時刻、東門に茗軍が到着した。
茗の首都である奠を出発してから七日の強行軍であった。
通常では十三日かかるのであるから、いかに兵を走らせたかがわかる。
さらに最後の一日は大雨の中での行軍であり、肉体的にも精神的にも兵の疲労は限界に達しようとしていた。今回の目的は大京にいる皇族を皆殺しにすることである。一人でも討ち漏らせば作戦は失敗である。茗軍の軍師であり今回の作戦の考案者でもある託岱は、万事は奠から大京への行軍時間で決まると考えていた。茗軍挙兵の報が大京に届くより速く、茗軍は疾風の如く見事に駆け抜けたのである。
「菟軍はまだか」
雷楽は菟軍の到着の報を苛立たしげに待っていた。
予定時刻は過ぎている。自軍だけでも攻め掛かりたい。雷楽ははやる気持ちを押さえるのに必死であった。雷楽の血走る視線が、大雨で霞む大京から外れることはなかった。
「待ちましょう」
軍師の託岱は雷楽に言った。しばし兵を休ませ、菟軍到着と同時に都内に攻め入るよう進言したのである。そして託岱は都内の雷明と打ち合わせる為に、二百の兵を率いて先行した。
天を見上げた託岱の瞳に、大粒の雨滴が突き刺すように降り注いだ。
「よく降る雨だ」
託岱の顔は自信に溢れていた。
夏元に於いて歴史上最も優れた軍師と言えば、先ず斗歌が挙げられる。昇王朝を開いた初代夏王に仕えた智将である。夏王の以前の名を龍昇と言い、現在の大京から東へ六キロ程の小さな集落の出身であった。農民から天子へと駆け上がる龍昇だが、それを大いに助けたのが斗歌である。
歴史書を紐解くと、
「龍昇の才は斗歌を旨く使った」
と、先ず記されている。それはそのまま斗歌の功績の大きさを示していると言えよう。
託岱は晩年になり、この斗歌とよく比較されるようになる。斗歌はその時代を作り上げた人である。託岱もまたこの時代を作り上げる人になるのであった。
雨脚が弱まった。託岱は頭上を見上げ、深く息を吸い込んだ。雷明が役割を十分に果たしているようなので一先ず安心した託岱は、さらに大京が完全に封鎖されているかを自らが確認する為に、僅かな従者を連れて都内の各門を回った。
視察中の託岱の足が西門で止まった。丹念に地面を調べた託岱は、近くの者に西門の警備の責任者を呼ぶように頼んだ。
託岱は目を細め、
「近しい時刻に一乗の馬車が此処を通った」
と、心の中で呟いた。
やや緊張した面持ちの双戈范が現れた。
託岱も小さい方ではないが、双戈范は大変な巨躯の持ち主で、背丈が託岱の倍近くもあった。
双戈范は深く頭を下げ、自分よりも十歳下の相手に向かって先に名を告げ、何か御用でしょうか、と相手が目上の人間かのように接してきた。託岱は茗軍の軍師であるが、下級貴族出身であり、現在の役職もさほど高くない。家臣や私兵を持てる大夫ではない。言うなれば大抜擢で、今回の大京攻略により一気に昇進する予定の武将である。双戈范は既に大夫であるので、身分も年齢も上にあたることになる。
「噂に聞く猛将双戈范殿ですね。先の京南での李兄弟との合戦での働きぶりと勇猛は、我が茗にも聞こえております。確かに双戈范殿なら、あの大賊の首領を討ち取ってもおかしくない」
「恐れ入ります…が、私が討ち取りましたのは、首領の弟で李兼と申す者でございます。」
李兄弟率いる賊は、長兄の李会と次弟の李兼、末弟の李空の兄弟が束ねる大京南方の大賊である。最大時では二百人を超える賊であったが、先日双戈范率いる大京軍の前に大敗して現在は二、三十人になっている。
勇猛であるが謙虚な男だ。双戈范に対する託岱の最初の感想であった。一般に勇猛な男は自分を誇り過ぎると思っている託岱にとって、双戈范の応対は意外であった。
「双戈范殿に一つお聞ききしたい」
相手を威圧するようなものではなく、むしろ親しみを込めた言い方であった。
「近しい時間に西門を通過した車がありますね」
車とは馬車のことである。
「いえ、ありません」
即答である。
「ではこれは何でしょう」
屈み込んだ託岱は、大雨でぐちゃぐちゃになっている地面に僅かに残る車輪跡を指して言った。そこは調度門扉の真下であり、雨が直接あたることはない。
「存じませんが…」
双戈范は言葉を濁した。その目は車輪の跡をじっと見ている。
「西門を通過した車がありますね」
託岱はもう一度聞いた。はっきりとではないが、車輪と判別するのに十分な跡である。恐らく双戈范自身この跡に今初めて気付いたのだろう。何かあったに違いない。託岱は断言した。
「双戈范殿…」
託岱は訴えるような視線で言葉を続ける。
「この跡は紛れも無く昨夜から今朝にかけてのものです。知らぬ存ぜぬでは通用しませんぞ」
「昨夜以前のものではない、とは言い切れないかと思われますが」
双戈范の声にも表情にも動揺は見られない。託岱には堂々とし過ぎているとすら映った。
「雷明殿はこの事実をご存知でしょうか。もしまだなら私からご報告致しますが」
「昨夜から西門を通過したものはないとご報告下さい。それ以前のことについては私の管理外のこと故、ご自由にして下さい」
託岱はこれ以上この男を追求しても無駄だと思った。多言を用いて隠蔽する者ならたやすいが…。託岱は必要限しか喋らない双戈范を前に苛立った。誰かが西門を通過したのは間違いない。その事実を隠すのが双戈范個人なのか、雷明の指示なのかわからないが、何と無く双戈范個人のように思えた。
金だな。託岱の直感がそう言った。例え雷明に報告しても無駄であろう。雷明が家臣の言を信用するのは明らかだからだ。
託岱は胸騒ぎを覚えつつ西門を後にした。
雷楽に拝謁した託岱は、万事が順調であり、先程到着した菟軍と共にいよいよ都内に進行すべきと告げた。雷楽は表情を引き締め、深く息を吸った。
「全軍に伝えよ。静かにそして迅速に行軍を開始する、とな」
託岱は行軍開始の伝達中に、趙孟の元を訪れた。趙孟は雷楽の片腕と言ってよいが、奥の手と言った方が分かりやすい。ようは暗殺等の裏の仕事を担当する汚れ役である。
「軍師殿がお越しとは、我が軍にとっては不吉ですな」
上背はないが、鍛えられた筋肉が盛り上がり逞しい。年齢は五十五歳だが血色がよく、どう見ても四十代前半にしか見えない。顔は精悍で爽やかである。この人ならば任務で何のためらいもなく人を殺せるだろう、と託岱は思う。この人が悩んだり苦しんだりしていることが想像出来ないからだ。
「危惧するまでもないことなのですが…」
託岱は趙孟に二人だけで話がしたいと目配せした。趙孟が配下を下がらせると、
「一つ頼みたいのですが」
と、託岱は切り出した。
「何分内密なことでして、主君にも秘密にて行って頂きたいのです」
「ほー、我が君にも秘密とは何事でしょう」
主君に秘密と聴いて、むしろ趙孟は嬉しそうであった。まだ家臣を持てる身分にない託岱には、主君に秘密で人を使うことができない。信用できる誰かに頼むしかないのである。
やはりこの人は信用できる。趙孟の反応に満足した託岱は、西門で見聞きした事について語り始めた。事実のみを話し、私見は一切加えなかった。託岱の話を最後まで聞いた趙孟は、
「双戈范については、人が知っているぐらいのことは知っている。おそらく金だろう。あの男は命令には忠実だが、金が絡むと人間が変わると聞いたことがあるからだ」
と、真面目な顔で言った。
「金ですか…。任務の重さを理解しているでしょうから、少額の金では動かないでしょう。やはり皇族の誰かが高額の金を使い都外に脱出したのでしょうか」
「どうだろうか。そうかもしれないが、違うような気がする。いくら金を積まれても、皇族を逃がすとは考え難い。後から露見する可能性も考えれば、双戈范が逃がしたのは皇族ではあるまい。ただ、皇族の関係者である可能性はある」
「双戈范の言が事実であり、車が西門を通過したのは昨夜以前ということはありますまいか」
「それはなかろう。昨夜からかなり降っているらしいから、雨の降る前にできた跡では消えておろう」
趙孟はにやりとして、
「貴殿はわしを試しておられる」
と、言った。
「自分の判断が正しいか確認している、が正解でございましょう」
と、託岱もにやりとした。ふんっと、鼻息を吐いた趙孟の顔は明るい。二人には通じ合うものがあるのだろう。
「それでその車の行方を突き止めてほしいと言うのだな」
「ご推察の通りです。具体的な探し方や見つけた後の処置についてはそちらにお任せ致します」
趙孟は頷き、
「息子にやらせよう」
と言い、両手を叩いた。
「趙孟殿…」
託岱は苦い顔で相手を睨んだが、直ぐに様相を崩して、親しみのある表情になった。天幕が二重構造になっており、中から一人の青年が現れたのだ。託岱と趙孟の話を聴いていたに違いなかった。
「息子の趙羽だ。わしの末子であり、息子達の中で一番出来が良い。わしが直接にするのと大差ない仕事をする奴だ。信用してやってくれ」
趙羽はまだ二十歳に達していない。
つまり成人していない若者を託岱に貸したことになる。
これには、将来の宰相になるであろう託岱とより深い関係を築きたい趙孟の狙いがあった。
この時代、息子が成人すれば将来性のある上司の子や次期君主になる大子、または君主の他の息子達に付けるのが普通であった。趙孟には他に息子が三人いるが、既に雷楽の息子達に付けている。残っているのは未成年である趙羽だけであった。趙孟は、趙羽が成人する三年後には既に託岱が夏元の宰相に就いていると考えている。
今のうちに趙羽を託岱の側に置いた方が良い。趙家にとって今日託岱が来た事は、正に天与に違いない。
趙孟は今日、趙家の未来が開けたように感じていた。実際に趙羽は息子達の中で一番見所があり、託岱を満足させるだけの自信もあった。
「今回だけでなく、この先も趙羽を使ってくれ。いろいろと役に立つはずだ。
羽よ今から託岱殿を主君とし助けよ」
託岱は予想もしない趙孟の申し出に戸惑った。私に家臣が…。しかも自分より身分が遥かに上の趙家の人間がである。最下級の貴族に生まれ、今日までの苦労を思いだした託岱の目が涙で潤んだ。
「申し訳ありません。余りに唐突な申し出に言葉を失いました。大変有り難いお話ですが、私は家臣を持てる身分ではございません。御子息はもっと他の有力者に預けた方が良いのではありますまいか。第一私の俸禄で御子息を養うことはできないかと存じます」
趙孟は豪快に笑い、
「こんな鼻垂れに俸禄などいらん。成人してからで十分じゃ」
と、趙羽の頭を押さえ付けた。趙羽は不機嫌な顔で父を睨んだ。
「わしは託岱殿の将来性に投資するのだ。素直に受けなされ」
深々と頭を下げた託岱の体が、感動で震えていた。託岱に初めての家臣ができた瞬間であった。
「東には我が軍、南には菟軍がおる。残りは北と西だが、北は夏奥山脈があり、この雨で地盤が緩んで通り抜けるには危険が伴う。素直に西に向かったと考えるべきだな」
趙孟の見解に託岱も賛成であった。
「羽よ、そちは西門より車輪の跡を追い西に向かえ。念のため北にも人を出すが情報を集めるだけにする」
趙羽は澄ました顔で、
「私の主君は託岱様です。もう父上の指図は受けません」
と、声を大にして言った。
「好きにしろ」
趙孟の声は明るかった。
大京に入った茗菟連合軍は静かに宮殿を取り囲んだ。雷楽の号令にて始まった宮殿襲撃は熾烈を極めた。
「宮殿内にいる人間は、皇族や従僕、女や子供に関係なく全てその場で首を撥ねよ。降伏する者にも容赦はするな」
雷楽の命令は徹底された。襲撃は茗軍が行い、菟軍は宮殿から逃げ出る人々を、宮殿の外で待ち構えて殺していった。
大京の乱では、雨であることとは別の理由で火は使われなかった。
普通火を用いれば、火と煙の両方で多くの敵を倒すことができ効率が良いとされている。
さらに退路で待ち伏せすれば、敵を捕虜とすることもたやすい。
宮殿攻めにおいて火計は基本であった。
が、今回の目的は宮殿内の人間を皆殺しにすることであり、捕虜は必要ないのである。また、一人の討ち漏れも許されない状況で、煙や火に紛れて逃走されることを恐れなければならない。その為今回火計は用いられなかったが、それが大京の乱を歴史上最も残忍な事件の一つに数えさせることになるのであった。
宮殿を護る役目の近衛兵は圧倒的な数の敵を前に戦意を喪失し、我先と逃げ出したが、結局は外で待ち構える菟軍の前に全滅した。
宮殿内では、おびただしい鮮血が床や壁を真っ赤に染め、散乱した赤黒い死体からは血の臭いやら悪臭やらが立ち上り、泣いて叫ぶ断末魔の声が途切れることはなかった。
降伏が許されないことは悲劇としか言いようがない。後宮内に進入した兵は、懇願する無抵抗の女子供に、戈と戟を浴びせ続けた。中には、悲惨な光景を目の当たりにして手を止める兵もいたが、次から次へと湧いて出る兵の流れの中では、何の意味もを為さなかった。
人一人の首が撥ねられて撒き散る血の量を想像できるだろうか。宮殿内は正に地獄と化したのだ。
襲撃から四時間半、宮殿の最も奥にて、昇王朝最期の天子昇虎の死体が発見された。悪政を尽くした虎王であったが、最期は自らの頚を切っての自害であった。虎王の死が確認された後も、茗菟連合軍の殺戮が止むことはなかった。結局宮殿に暮らす三千人以上の人間が殺され、身元を確認された。
宮殿の上空には、どんよりと重たい濁った空気が、風に流されることなく漂っていた。まるで死者の怨念が漂っているように。