大京の乱(一)
三国志や古代中国史が好きな方にお勧めの架空歴史小説です。英傑が沢山登場します。
東からの突風が一万の兵を薙ぎ倒した。昇王朝六七九年、歴史上最も残忍な事件に数えらる大京の乱の3時間前の事である。
兵を率いるのは大京より東に一五○キロ程にある茗という地方の諸侯雷楽である。
男として最も脂の乗った五十代に差し掛かった雷楽は、豪気の人であった。
「皆の者、今の強風を見たであろう。春には決まって西風が吹くが、強風は東から吹いた。我等が東方からの正義の一団であるならば、天は正に我等を後押ししてくれようぞ」
暗闇の中、大雨と強風に負けそうな兵一人一人の耳に、雷楽の声は実によく響いた。兵達は一斉に元気を取り戻す。
「これで良いか」
軍師の託岱に問うた雷楽の声は興奮していた。
大京の乱に参加した兵は一万五千。
首謀者である雷楽の兵の他に、茗の南の隣国で菟と呼ばれる地方の諸侯雷何が四千を率いて大京の南の道を北上している。さらに大京には都内の警備を朝廷から任されている大夫の雷明が、千の兵で各城門を押さえる手筈になっていた。雷楽、雷何、雷明は遡れば同じ先祖にあたり同族である。
雷氏のように名門で、王朝と良好関係にある諸侯が反乱を起こすのには、やはりそれなりの理由がある。
今の昇王朝の天子の名を昇虎と言い虎王と呼ばれている。虎王は六百年以上続いた王朝の繁栄を貧り続けた愚王と言えよう。歴代の王達が自国、則ち夏元の内政に努めたのに対し、虎王の興味は外国にしかなかった。
夏元は北を魁と呼ばれる騎馬民族、東を夙清と呼ばれる高度な文化国、西と南を海に囲まれた広大な土地に、約三百万人が住む大国である。四十歳で即位した虎王は、直ぐにそのギラついた目を北に向けた。
遠征は毎年行われ、昇王朝の巨大な財も度重なる魁への出兵で底をつき、そのつけは各諸侯へ、そして当然国民への負担増に繋がった。遠征が失敗する度に、諸侯らと国民の昇王朝への不信感は、怒りへと変化していったのだ。
こうした中での雷楽の挙兵でる。正に時代の流れだと言えよう。雷楽の謀叛を知った近隣諸侯は、王朝への忠義立てはせず傍観者であることに終始した。勿論雷楽が各諸侯への気配りを忘れなかった事は言うまでもない。
「君よ、心配されますな。明日には、君が発した号令は天下を駆け巡りましょう」
今日三十歳になった軍師託岱の表情は、若さと自信に溢れていた。
夜明けが近付いている。急に起こされた圭姫は、侍女の声がこれまでにない切迫したものであることに気がついた。直ぐに身なりを正し、侍女に動かされるままに面会を求める男に会った。
「孝傑殿ではありませんか。こんな時間にどうされました」
先程まで熟睡していたとは思えない、はっきりした口調だった。
孝傑と呼ばれた初老の男は、明らかな緊急事態にもかかわらず、日頃と変わらない落ち着いた物腰で、
「圭姫様、早朝の面会謝する時間がございません。都は既に茗主力の兵に取り囲まれております」
と、静かに告げた。圭姫は大きな瞳をゆっくりと閉じた。
ついにこの日が…。
圭姫は虎王の第五婦人で娼の一人だが、もとは虎王の兄、則ち前王苣の第一婦人であった。
虎王は兄を弑した後、兄嫁を犯した。それに飽きると今度は圭姫を野に捨てようとした。たまりかねた重臣らは虎王を説き、圭姫を娼として相応に扱うことを認めさせた。
この重臣らの行動は、何も圭姫への同情からくるものではない。彼女が魁から夏元に嫁いだ経緯があったからであった。
前王苣の時代、北国の魁は三万の大軍勢で夏元に進行してきた。原因はその年の魁が大寒波に襲われたことにある。
雪に覆われた大地を見た魁の人々は、争うように南へと直進し始めた。魁は古来よりの遊牧民族である。牧畜でしか生活出来ないこの国は、食糧の備蓄に疎く、大寒波の度に夏元の北方に侵入してきた。
苣王は先ず使者を立て、食糧の提供を申し出た。争いを好まない苣王らしい決断である。しかし魁には他民族との約束はあてにならないという風習があり、夏元からきた使者の首をはねたのである。苣王が魁から送られてきた無惨な使者の首を見て、大きく失望したのは言うまでもない。
苣王は自から二万の兵を率いて夏元北方に向かった。かつて夏元と魁は何度も戦を交えているが、魁にはしばらく大きな飢饉がなく、両国が顔を会わすのは実に二百年振りである。
両軍は乾という夏元の北方領内で激突した。騎馬中心の魁は、兵の多さと機動力に勝るが直進することしか知らず、引いては囲んで撃破してくる夏元の巧みな戦術の前に、歴史的な大敗をきっした。
魁軍の後方には非戦闘員である女や子供、老人が大列を成している。魁の退却は思うようにいかない。猛追してくる夏元軍が撒き散らす砂塵に、魁の人々は生きた心地がしなかった。
恐怖で顔を強張らせた魁の首長らは、自分達が夏元の使者の首を切ったことなど忘れて、夏元に和平の使者を出すことを決定した。この和平の使者に選任されたのが、圭姫の父である呂乎であった。
呂乎は若いが有能だ。魁の首長らの間でよく聞く言葉である。六十代後半がほとんどの魁の首長の中で、四十三歳の呂乎は最も若い。二番目に若い首長とも十違うことから、いかに異例の昇進かが分かる。
魁には大小十六の部族があり、大河夏推の下流北部地方が呂乎の治める呂である。魁と夏元との国境になるこの地域は非常に重要で、夏元軍は魁へ攻め入る時には必ず呂を攻略しなければならないし、魁にとって呂は、夏元への主な侵入路であった。歴史を見れば、魁と夏元の軍用地は常にここが中心となっている。
呂乎は若くして呂の首長になったが、生臭い権力争いをした訳ではなく、むしろ呂民の圧倒的な支持に推されての選任であった。
呂乎と会った苣王は、彼の誠実な訴えと心底からの謝罪に心を動かされ、直ぐに兵を引き揚げさせた。呂乎が苣王に好意を持ったことは言うまでもないが、それ以上に苣王が呂乎を気に入ったのである。歴史上類い稀な二人の英傑を引き合わせたこの出来事を、乾の会合という。この後二人の関係と共に、夏元と魁は急速に接近することになる。
呂乎は和平の条件として、自分の娘を苣王に贈った。
ほとんど交流のない国に人質として差し出された十六歳の娘を不敏に思った苣王は、魁と友好関係を築きたいこともあり、この娘を第二婦人にしたのである。この娘が、苣王の寵愛を一身に受け、後に正妻となる圭姫である。夏元と魁が和解した十年後に、呂乎が魁の首席となり、圭姫の外交上の価値がさらに上がることになる。
静かに廊下を進む圭姫の顔には、強い決意が刻まれていた。
「起きるのです」
圭姫の強い口調に、少年は身体を捩った。なおも眠りに引きずられそうな少年を、半ば強引に起こした圭姫は、我が子の目を真っ直ぐに見た。
「直ぐに出発の準備をします。急ぎなさい」
眠たそうな眼を手で擦っている少年を前に、孝傑の声は柔らかい。
「苣乎様、お久しぶりでございます。奠の孝傑でございます。外はあいにくの雨でございますが、正に恵みの雨となっております」
「朝早く起こされたのは孝傑殿の差し金ですか。出発するのに雨ではもどかしい。何故恵みの雨ですか」
孝傑は苣乎の問いには答えず、にこっとしただけであった。
出発の準備が整うと、これまで黙々と準備をしてきた圭姫が、強張らせた顔で、
「いいですか苣乎。母は後から追い付きます。先に孝圭殿と出発しなさい」
と、不平は受け付けないという口調で苣乎に迫った。苣乎は不満げに母を見たが文句を言わず、こくりと頷いた。
今日の母上はいつになく怖いが、眼は何故か淋しそうだ。苣乎は母の横顔を見ながらそう思った。
空はまだ暗い。もうすぐ夜明だが、厚い雲が日の出の陽光を遮っている。雨は時間と共に勢いを増している。
豪雨の中を突き進む一乗の馬車は、大きく揺れながら猛然と直進する。
「止まれ、止まれ。そこの馬車よ止まれ」
都の西門で守衛兵に呼び止められた馬車は、馬が大きく前足を宙に投げ出して急停止した。
「奠の商人孝傑でございます。雷明様にはいつも御ひいき頂いております。急ぎの用にて今から奠に舞い戻る次第でございます」
西門の守衛兵は通常十人程度であるが、大雨の中現れた数は実に二百を超えていた。見るからに堅固な陣形で、大雨にもかかわらず兵士一人一人の士気も高そうである。隊長らしき巨漢の男が前に進み出てきて、
「私は主君雷明様から西門の守備を任されております双戈范と申します。御高名な奠の豪商孝傑殿が、こんな早朝に御出発とは如何な御用でございますか」
と、腰を低くして言った。見た目の厳つかさとは違い、双戈范の応対は丁寧である。
「むしろそれはこちらが伺いたいものです。この時間に、一匹の蟻をも通さぬこの大袈裟な警備はいったい何でしょうか」
孝傑は興味津々といった口ぶりで続ける。
「私どもは商人でございますから昼も夜もありません。儲け話があれば寝るのも忘れて駆け巡るのが普通でございます。儲け話を教えろと言われて、どうして教えることができましょうか」
孝傑は両手を広げて頭を振り、にこりとしてさらに続ける。
「しかし今回はお答え致しましょう。何でも西海岸に鯨という大変大きな魚があがったということです。滅多にないことでして、もし手に入れる事ができましたら大変な儲けが期待できるということでございます」
双戈范は聞き終えると、眉をへの字にし、浮かない顔で、
「う…ん。困りました。今朝は何人足りとも都の外には出すなとの命令がでております。いかに孝傑殿とて許す訳にはいかんのです」
「都内に他国の密偵でも潜伏しましたか。それともどこぞの大夫かが、都内で一暴れでもするのでしょうか」
理由は申し上げれない、と浮かぬ顔の双戈范に、
「勿論ただでとは申しません。御通し頂けましたら、相応な謝礼はお約束致します」
と、孝傑は声を潜めて付け加えた。
双戈范の表情が緩んだ。それを言われると困るなぁと、言葉を濁した顔には、早く次の孝傑の言葉を聴きたいとはっきりと記されていた。
「今は急な事ゆえ余り手持ちがございませんが、手付金と致しまして金二千をお渡し致します。また、無事奠に着きましたら直ぐに御自宅に金二千をお届けしましょう」
と、孝傑はさらりと言った。双戈范の顔がみるみる明るくなった。
「おー、そうまでして此処を通りたいという方をどうして留められましょう。分かりました。お通し致しましょう」
満足した顔の双戈范は部下を呼び、馬車の積み荷を調べさせようとした――。
「お待ち下さい」
孝傑は半ば叫ぶような声を出し、積み荷を調べようとした兵士を制し、やや速い口調で、
「やましい物は積んでおりませんが、儲けの種は幾つも積んでおります。積み荷をお調べになるのでしたら先程のお話もなくなりましょう」
と、額にうっすらと汗を浮かべた。双戈范は今まで落ち着いて見えた目の前の男が、狼狽している様を見て取った。金の事は頭の片隅に追いやり、忠勤な男の顔が表れる。双戈范は威圧するように孝傑の眼前に進み、
「もしや誰かをお匿いではないでしょうな。孝傑殿を通すのには目を潰れましょうが、都にお住まいの方となると話は違ってきます。ましてや皇族関係者をお匿いとなれば、孝傑殿、貴方も此処で拘束せざるを得ませんが」
と、丁寧ではあるが感情を押し殺した声で言った。と、同時に双戈范は部下に合図し、積み荷を調べさせようとした。孝傑の返事を待つつもりはないようである。
上司の命令を受け、二人の兵士が馬車の後部に回った。積み荷を調べる為に馬車の垂れ幕を上げた兵士が、驚嘆の声をあげた。
「ん、どうした。誰か隠れておったか」
双戈范はそう言うが早いか、馬車の後部へと駆け出した。
「なっ、これは、これはまた――」
思わず唾をごくりと飲み込んだ双戈范は、目の前の光景に一時言葉を失った。
馬車の中は、大量の金と豪華な宝品で埋め尽くされていたのだ。
各都に住む市民の平均的な一年の所得は金三百程度である。孝傑が示した金二千とは、上級貴族に属す双戈范にとっても二年は遊んで暮らせる程の大金である。それを孝傑は倍差し上げると言ったのである。しかし孝傑の馬車には、金二万とさらに総額でそれを超える沢山の宝品が積んであったのである。双戈范が今までに見たこともない大金であった。
孝傑は罰が悪そうに、
「まあ、そういうことでございます。積み荷が何か分かれば、お渡しするとお約束した金の価値が下がってしまいます」
頭を掻きながら孝傑は続ける。
「実はあがった鯨は一頭ではないのです。何頭もあがっておりまして、一頭だけを買うにしても多額の金が必要なんですが、数頭買うとなればこれぐらいは必要なんです」
一呼吸置いた孝傑の声が小さくなる。
「あがった鯨を全て買い取ることが儲けの秘密でございます。全ての鯨を競り落とすことができましたら、次に鯨を売る際に手前の好きな値段を付けることができます。鯨の肉は必ず孝傑から買わなければならない。そんな状況を作り上げれば、利益は思いのままとなりましょう。また、孝傑が鯨を独り占めすると知られれば、何とか阻止しようとする連中のおかげで、出さなくてもいい金を出さなくはならず、急遽かき集めた金の多さも知られたくなかったのでございます」
さらに孝傑の指が大雨が降りしきる天を指し、せっかくの宝品が雨に濡れて台なしになった場合、誰がその損を補償するのか、と回りの兵士にも聞こえぐらいに声を張り上げた。
「これがお約束の金二千でございます」
戸惑う双戈范に苛立ちを隠さない孝傑が、
「どうか今回の事は御内密にお願いします。勿論此処にいる部下の方々にも他言しないようお約束して頂きます。その分の金はまた別でお送りすることに致しましょう。ただ、此処をすんなりと御通しして頂くことが、今お渡しした金を始め、全ての前提でございますが」