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出来損ないの妹の話

私、生まれ変わっていたのね。 

そんな言葉が頭に浮かんだのは、"今"の家族と食卓を囲んでいる最中だった。前世を思い出して胸に込み上げてきたのは、ただただ深い自責の念と安堵。

「どうしたの?アンナ?」

姉であるマリアが、私の目元にハンカチを優しく当てながら心配そうにこちらを覗き込んでくる。そこでやっと自分が涙を流していることに気づいた。

「…お姉様、私はあなたの妹になれて本当に幸せです」

「あら、いきなりどうしたの?私も貴女の姉になれて嬉しいわ」

少し動揺しながらも、照れながら私を抱きしめてくれる姉。優しい手つきで背中を撫でてくれる母。ただ黙ってそばにいてくれる父。

ぼやける視界に映る“今の家族“を生涯大切にしていこうと私は誓った。


前世の文明はここよりもっと発展していた。空を飛び人や物を運ぶ鉄の鳥、世界中の知識が詰まっていて、離れていても会話ができる手のひらサイズの不思議な板。病にかかれば誰でもすぐにみてもらえる充実した医療環境。今の生活からは考えられないほど便利な世界。だけど私は戻りたいなんて一切思わない。だってあの世界には彼らがいるから。


私の前世の家族はかなりおかしかった。

警察官で責任感が強い厳格な父、教育熱心な中学教員の母、そして誰もが振り向くほど美人な姉の杏音。そんな理想の家族のもとに生まれてしまったのが、なんの取り柄もない私、杏奈だった。

虐待されているわけではない。教育はきちんとされていて、身だしなみも綺麗。側から見たら、なんの不自由のない幸せな双子の妹に見えていた。ただ私の容姿は、双子の杏音より劣っていた。

姉の隣にいると私はパッとしない、いるかいないかもわからないほど影の薄い妹になる。姉はいつも一人でいる私を心配して、健気に気にかけてくれる優しい存在。そんな優しい姉を持つ妹の私は恵まれていて感謝するのが当たり前、拒否するなんてあり得ないというのが周囲の認識。例え、それが姉によって仕組まれたものだとしても。

自分でも捻くれた性格だったと思う。でも、私だって最初はこんな性格ではなかった。理想の家族の一員になれるよう私なりに努力していたし、妹として生まれたことを誇らしくさえ思っていた。でも今までの恨み辛みが積もりに積もってもはや家族とは思えなくなった。


七歳の時、両親が買ってくれたお揃いのクマのぬいぐるみ…姉にはピンク、私には水色。だけど杏音は水色も欲しがって、「なんで私がどっちも貰えないの?」と言い出した。両親は泣き喚く杏音をあやし、機嫌をとるかのように二つとも彼女に与えてしまった。

「杏奈には、違うものをあげるからね」

杏音の目を盗みながら母親は私にそういった。“あの子“を貰えなかったのは悲しかったけど、その言葉を信じ待つことにした。当時の両親はかなり忙しく、家政婦を数人雇うほどだった。だから、誕生日でもないのにお願いを言えなかった。声をかけると“今度はどんなわがままを言い出すのか?“という表情を向けられるから。

「そういえば、あのクマのぬいぐるみは大事にしているか?」

久しぶりの家族全員が集まった食卓でそう聞かれた。だから私は、「クマのぬいぐるみ?持ってないよ」と返した。怪訝な顔で両親は杏音の方を見た。

そこで杏音の嘘が発覚した。

「やっぱりクマさんは返すから。杏奈には何も買わなくていいよ」

そんなことを杏音は両親に言っていたらしい。

ここで両親が杏音をしっかりと叱れば彼女の性根は悪化しなかったかもしれない。でも彼らが諭したのは被害者である私の方。

「お姉ちゃんは毎日勉強や習い事を頑張っているのよ。それくらい許してあげて」

「そんなことで腹を立てるなんて、杏奈、お前は本当に狭量な子供だな」

あの時は言葉の意味はわからなかったけど、全て自分が悪いのだと言い聞かせて無理やり納得させた。だってこの状況を疑問に思う人間がいなかったから、それが“当たり前“だと思っていたのだ。

でも、今思えば忙しいからって、妹のものを取り上げて良い理由にはならないし。ましてや、自分の意思を踏みにじられて声を上げた幼い子供に対して“狭量“だなんて、全くもって的外れな言葉だ。

彼らはただ、神童である姉の機嫌を取るために、私の幼い心を蔑ろにして良いものだと判断したのだ。妹の私のものを奪わなければ気が済まない、姉の杏音こそが“狭量な子供“だったと思う。

後日、杏音から渡されたのは薄汚れたピンクのクマ。私がもらえるはずだった水色の綺麗なクマのぬいぐるみを抱きしめ満足そうに笑う杏音を見て初めて怖いと思った。


習い事だってそうだった。二人とも同じように色々なものにチャレンジさせてもらっていた。何でも器用にこなせる杏音とは違い、私の特技は限られていた。同じ時期に始めても、杏音はメキメキと上達していく。対する私は、少しずつ、けれど確実に上達させて、やっと楽しくなってきた、ここからもっと上手くなる、というところでいつも、杏音が「飽きた」と言い出す。

そして、杏音が飽きると、なぜか私も強制的に辞めさせられた。もっとやりたい、出来るようになったから、と何度言っても通わせてくれることはなかった。

自分の上達具合を見せても、結局は天才の杏音と比べられ続けた。

両親は二人とも天才型で、効率重視な人間だった。だから、成長の遅い私は最初から才能がないと決めつけ、無駄な投資だとばかりに切り捨てる。

おまけに杏音は、「杏奈と二人じゃないとやらない」と無邪気に拗ねてみせた。

そんな彼女の姿を見て、両親はまるで美しい姉妹愛に感動したかのように「なんて妹思いのいい子なの」と涙ぐむ。

多分、二人は親にはなれない生き物なのだろう。どこまでも効率重視。きっと子供のことなんか、ただの育成ゲームのキャラクターとしかみていない。思い通りのステータスに育て、自分達の理想を叶えてくれる杏音にしか興味がない。最初に結果を出さなければ、私の意見なんか聞かないですぐに切り捨てる。それが私の両親。


本当に…心底、気持ち悪い。見たいものしか見ない目なら何も見えなくなればいいのに。


母はいつも、私を見ると嫌な顔をする。

「出産の時、死ぬほど痛かった。」"なんであなたまで生まれてきたの?"

言葉の裏から、まるでそんな声が聞こえるような響きだった。幼い頃、言われ続けたあの言葉はいつまでも消えない私の傷になった。父から当時の母は育児ノイローゼ気味だったから許してあげてくれと言われた。許すつもりなんてない。だって、高校生の頃も時折そんな目で見られていたから。私だって貴方みたいな母親いらなかった。


杏音は多才な分、飽き性でもあった。中学の頃、彼女はミサンガ作りにハマり学校中の生徒から依頼を受けていた。彼女が作るミサンガは普通のものと違い太く凝ったものだった。忙しいスケジュールの中、少しでも時間を作り友人たちのために編んでいる姿を見て感心した。何より杏音が自分の事に気を取られている最中はこちらに絡んでこないから。けれどそれも最初の十件までだった。姉にしては長くもった方だとは思う。

「杏奈、暇ならミサンガ作り手伝って」

突然、部屋の扉を蹴破るような勢いで入ってきた杏音は開口一口そう言ってきた。私だって暇ではない、ただでさえ多い課題の上、特進クラスに通う杏音の分も一部引き受けている最中だった。

「そのお手本通りやっておいて、色は個人個人違うから間違えないでね」

まるで見えていないかのように目の前にあった課題の上にミサンガ作りのセットを置き言い放った。一瞬思考がフリーズしたが、部屋から出て行こうとしていた杏音の手首をつかみ必死に抗議した。彼女にとってはすぐに終わらせてしまう事だろうが、私にとっては違う。習い事、勉強、課題で一杯一杯な私に編み方も知らないミサンガ作りを?リストには数十人のリストがあり、期限は一ヶ月後。おそらく体育祭のためのものだろうことがわかった。気づいたら言いくるめられ部屋には私とミサンガ作りのセットと大量の糸が残された。流石に理不尽だと思い、帰宅した両親に杏音を説得するように訴えた。

「作りきれないなら断ってきて欲しい、それにみんなは杏音が作ったものが欲しいのであって私のものじゃない」

杏音にも言った内容をそのままぶつけた。なんとか理解してくれ杏音を説得してくれる事になり、杏音の部屋に行くと、彼女はお菓子を食べながら誰かとビデオ通話していた。私たちに気がつくと、通話をやめ両親に抱きついた。当時二人は責任のある役職についていたからか、この一年帰りが遅く、父に至っては帰ってこない日もあった。久しぶりに家族が揃ったからか、杏音の起源はかなり良いようだ。期限のいい今なら聞いてくれるかもと思い、両親を促した。しかしいざ説得を始めると、杏音の表情が徐々に泣き顔に変わっていった。結論を言うと両親は逆に杏音に言いくるめられ、結局家族全員が手伝う羽目になった。

今後、安易に請け負わないことを前提に。

なんで私が手伝わないといけないのかモヤモヤしたが、あまりにもうるさいのでさっさとやってしまう事にした。

体育祭前日、なんとか作り終わり、やっと解放されるんだと心底安堵した。

結局、仕事で忙しい両親はあまり手伝ってくれず、逃げ出そうとする杏音を捕まえ黙々と作業した。最初の頃は、不格好になってしまい、編んで解いて編んでを繰り返したが、この頃にはもう見ないで編めるほどになっていた。

体育祭当日、杏音が大広場でミサンガを配っているのを見かけた。関わりたくないのでそれを無視して通り過ぎようとした。

「これ、少しよれてない?」

その声を発した男子生徒の手元を見ると赤色がベースになっている柄のようだった。杏音は色に変なこだわりがあるみたいで、好きな色である暖色系を担当していた。だからあれは杏音が作った物だとすぐにわかった。

仮に不格好だとしてもみんなの前で面と向かって良く言えたなと言われている杏音に同情した。

「あ、それは妹の杏奈が作った物だから」

「はあ?」

前言撤回、同情する必要なんかない

「そりゃないよ、杏奈ちゃん!俺は君のだから欲しいのであって、妹の方が作ったものなんていらないよ、ましてや他より下手ときた。別のやつと交換してくれない?」

その男子生徒は見事、私たち二人の怒りをかった。現に杏奈の表情は笑顔なのに口元だけがピクピクと痙攣している。

なんだか怒りより呆れのが勝ってしまって、その場を後にした。

その後、杏音はなんとか男子生徒を言葉たくみに言いくるめ何事もなかったかのようにミサンガを配り続けたそうだ。

傷つかなかったわけじゃないけど、わざわざあの場の中心にいって「それは杏音が作ったの!私だって作りたくなかった!」なんて言ってみろ、忽ち多くの非難が飛んでくる。


こういった皺寄せは何度かあった。その度に私は両親に嗜められてきた。

私が何か良い成果をあげれば、それは“杏音の助言があったから“と言われ、逆に杏音の習い事や勉強が少しでもうまくいかなくなると、全て私のせいにされた。

「杏奈が邪魔したんじゃないか」

「お腹の中で杏奈が杏音の才能を吸い取ったのよ」

私の成果はすべて姉のものになり、姉の失敗はすべて私のせいになる。

あまりにもとち狂った理論に悲しみを通り越して、涙すら出なかった。

そんな理不尽が幼少期何度かあって、私の心はすり減っていき、いつしか“些細な出来事“に感情は揺さぶられなくなっていた。


そんな“当たり前“が崩壊したきっかけは友人だった子に言われた一言。

その日私は、廊下に張り出された取材記事を眺めていた。

一カ月前に行われた全国の高校生向け論文コンテスト。私はそこで優秀賞をもぎ取った。一番じゃなかったけれど、自分の努力がきちんと評価されてすごく誇らしかった。

「あれ?杏奈ちゃん、この論文お姉さんと一緒にやってたんだね?」

記事に書かれた私と杏音の名前を見て、友人は不思議そうに呟いた。

「ほとんど一人でやったよ?でも杏奈も手伝ったのだから名前を入れてあげなさいってお父さんが言うから…」

「…それってなんか変じゃない?」

「え?」

「だっておかしいよ、なんだかそれって横取りみたい」

「…どうし」

疑問を口にしようとした、その時だった。

「杏奈、どうかした?」

透き通るような優しい声音と共に、杏音がすっと私たちの間に割って入ってきた。その瞬間、友人の意識も美少女の姉に吸い込まれ、話に夢中になり、友人は私に投げかけた問いかけなど忘れたかのように頬を紅潮させ興奮気味に話し始めた。

どうしてそんなことを言われたのかわからなかった。胸の奥で蓄積され、燻っていたモヤモヤが消えず、放課後、友人に何が変なのか理由を聞いた。そしたら、周りをキョロキョロ見た後、小声で話し始めた。

「ごめんね私、勘違いしてたの。杏音ちゃんは習い事や塾ですごく忙しかったんだね?そんな杏音ちゃんを助けてあげることは当たり前のことだよね。それに有名な杏音ちゃんの名前を借りたから、入選できたって聞いたよ…だからさっきの変だって言った事は杏音ちゃんには言わないでおいてね?」

友人は満面の笑顔で私の手を引き、「ねえ、家での杏音ちゃんってどんな感じなの?」と熱心に尋ねてきた。

またいつもの流れ。私に友人ができても彼らはいつも、最終的に私ではなく、杏音の話ばかりをしたがる。私の努力も、私が得た成果も、全ては“優秀な姉“のために消費される。

過去の嫌な出来事が、濁流のように頭の中に溢れ出してきた。その時やっと今まで目を背けてきた現実と向き合った。


あの日、私の論文が表彰され、学校に取材に来たテレビ局のキャスターに私の成果をさも、自分が考えたのだと自慢げに話す杏音を見て私はジクジクと痛む胸を勘違いだと思いたかった。確かに姉の成績は高校に入ってから悪くなっている。それを焦ったのか、両親と一緒にしつこく説教された。危うく夕ご飯を抜かされそうになったから嫌々ながらも了承するしかなかった。

だからあの時の友人の“横取り“という言葉に、否が応でも自覚するしかなかった。私はただ、杏音を引き立てるためだけに扱われる都合のよい搾取子だったのだと。

自覚したとて何かが変わることもなかった、優しい保健室の先生も、仲良くしてくれた友人達も、憧れの先輩も全て片っ端から杏音に奪われていった。まるでそれが当たり前かのように。私の周りには、もう何も残っていなかった。奪われ続けた私はいつしか誰にも踏み込ませないように一線を引いて接するようになった。

私が明るい純粋な主人公だったらここで、家族に歩み寄り、誤解を解き、仲良くなろうと頑張るんだろうけど、そんなのは真っ平ごめんだ。

たとえ、仕方ない理由があってお互い誤解しあっていたとしても、本当は想われてとしても今更あいつらと家族ごっこしたくない。だって、明らかに杏音は異常だったし、両親は私を見ようとしなかったから。育ててくれたことには感謝してる。でも良い加減解放してほしい。都合のいい搾取子の未来なんて目に見えているのだから。


だから杏音から離れることを決意した。

大学進学を機にこの家を出る。杏音に邪魔されない、私だけの居場所を手に入れるために。

入試の成績優秀者だけがもらえる特待生制度。いろんな大学にあるそれは、在学中の内申、実績は勿論、入試の成績も考慮され学費が免除される。

生半可な気持ちじゃ絶対勝ち取れない。杏音は天才だ。他人を魅了し、努力を奪っていき、努力をしないで成果を叩き出す。けど私の全国模試の成績だって上位に食い込んでいる。内申だって悪くはないはずだ。


バレればきっと、杏音は同じ大学に行きたがる。

都合のいい引き立て役である私を手放したくない杏音は両親に“お願い“するのだろう。そして私の意見なんか聞かない両親は姉の機嫌を取るために、私の進路をねじ曲げ杏音の言うとおりにするに決まっている。

「姉妹で同じ大学だなんて、なんて素晴らしいんだ。お前も誇らしいだろう」

なんて両親の押し付けがましい常套句と、ひどく楽しそうに顔を歪ませる杏音の笑顔が頭に浮かぶようだ。

だから、絶対に知られるわけにはいかない。

これは私の人生を取り戻すための、精一杯の足掻きだった。

自分の手で望む未来を掴み取るために、私は自身の部屋で、誰にも見つからないよう祈りながら、杏音の大学から遠く離れた大学への出願書類を書き始めた。

もちろん出願には保護者である両親のサインや同意が必要だった。だから私は嘘をついた。

「杏音と同じ本命の大学に落ちたら困るから、滑り止めの大学も受けさせてほしい」

そう言って渡した私の書類は、ろくに中身も見ないですぐにサインをした。そうなるように、疲れて帰ってきて杏音の進路を吟味する父にしつこく頼み込み、ようやくサインを騙し取った。杏音のパンフレットを真剣な目で見つめる父にとって、私の未来などその程度の価値でしかなった。手に入れた出願書を握り込み暗い廊下を歩きながら静かに泣いた。

悔しくて、悲しくて、そんな奴らのせいで泣きたくなくても出てくる涙をゴシゴシと袖で拭きながら、完成した出願書を封筒に入れた。


何はともあれ、受からないと意味がない。

受かるために私は家から離れた図書館や学習室、空いてなければさらに遠くにに行き杏音にバレないように必死で勉強した。

そんな中で出会ったのは同じ大学を目指す他校の男子だった。いつものように図書館の片隅で勉強していた時、私の机に開かれた赤本を見て声をかけてきたようだった。

「それって〇〇大の赤本だよね?もしかして受けるの?」

突然のことに驚いて顔を上げると、そこには見慣れない制服を着た男子が立っていた。

私の机の上の赤本と、彼の腕に抱えられた同じ大学の赤本を交互に見つめながら、彼は少し照れくさそうに話しかけてきた。

それが私にとってたった一人の友人、優斗との出会いだった。

その日からこの図書館であったときは二人で勉強することが二人の暗黙の了解になっていた。一人で隠れながら勉強するのには限界があったので、わからないことを教え合ったり、互いに励まし合える相手ができたことに、ひどく嬉しくなった。誰にも言えない秘密を抱え、一人で黙々とする受験勉強に彼という仲間ができ、いつしか私にとって大きな心の支えになっていた。

だから私は打ち明けた、学校のこと、友人のこと、家族のこと、そして姉の杏音のこと。彼はただ黙って話を聞いてくれた。感情が溢れて涙ながらに話した内容はどのくらい伝わったかわからなかったけど。話し終えた後、彼は私の目を見て静かに言ってくれたのだ。

「頑張ってきたんだね」

その一言を聞いた瞬間、胸の中のモヤモヤが解けて薄くなっていくのがわかった。

私はずっと誰かに共感して欲しかった、吐き出したかった…私という人間を見て欲しかった。

彼の手の温もりを感じながら、私はまた静かに涙をこぼした。

「打ち明けてくれてありがとう…うん…僕も話さないとフェアじゃないよね。聞いてもらってもいい?」

「うん、聞かせて」

物静かで、いつも穏やかな彼の口から語られたのは、私と違う、けれど少し似た家庭環境だった。

「僕の両親、離婚してて、今は父親と一緒に住んでるんだ」

彼は、ストローの抜け殻を小さく小さく折りたたみながら、話を続けた。離婚後、すぐに籍をいれ半年後にはお互いに子供ができたという。

淡々と語る彼の横顔から、一瞬だけ、生々しい嫌悪の感情が透けて見えた。

「…書類上の家族とは別に浮気相手がいたんだ。外面的には仲の良い家族を演じながら裏ではそれぞれ別の相手と関係を持っていた。それにお互い耐えられなかったんだろうね、感情が爆発してよく喧嘩をするようになった。それで離婚してすぐに結婚。本当に気色悪くて反吐が出る」

爪が食い込むほど強く握られた手は小刻みに震えていた。

「家にはさ、その再婚相手との間に生まれた弟がいるんだ。学校から帰って、その三人の空間にいるとさ、“理想の家族“に紛れ込んだ異物のように思えてくる。でも、まだ高校生の自分は、あいつらに保護してもらわないと今の時代、生きていけない。その環境が、たまらなく惨めで、息が詰まるんだ」

彼の静かな告白が、私の胸の奥深くにまで突き刺さっていく。環境は違うけど、家の中に自分の居場所がなく、誰かの幸せの影で"異物"として息を潜めている苦しみ。そして、どれだけ嫌悪していても、まだ自立できない子供だからこそ従うしかないという、あのどうしようもない無力感。

「あの場所から、どうしても抜け出したい。だから、家を出るためにこの大学を目指してる。……君があの席で必死に頑張ってるのを見てたからさ。勝手に、同志を見つけたみたいで救われてたんだ、勝手だよね」

私をまっすぐ見つめる彼の静かな瞳が、今にも泣き出しそうに潤んでいる。それは暗い廊下で泣いていた自身の姿重なって見えた。彼も地獄のような毎日から抜け出そうともがいてきた。そんな彼に私が伝えたい言葉が口から漏れた。

「優斗も頑張ってきたんだね」

それから彼の手に自身の手を重ねた。

「絶対合格して、二人で抜け出そう」

環境や状況は全く違うけど私たちは同じ地獄から抜け出すために、もがきながらも戦っている。互いの傷の深さを知った私たちの間にはより強固な絆が生まれた。

これまで絶望しかなかった人生に光が差し、これから明るく、楽しい人生が待っていることを願う私たちとってあの瞬間は、人生最大の不幸な出来事と言っても過言じゃないと思う。


体の芯まで凍えそうな寒い日だった。受験前に会える最後の日に私たちはお互いを鼓舞するため、待ち合わせをしていた。いつもの図書館に向かう道の途中にある錆びた歩道橋を上がっていた。

「杏奈…!!!」

下から勢いよく上がってくる杏音に驚きながらも、ああバレたのかな?と内心は何故か凪いていた。今からじゃ杏音には何もできない。もう出願期限は過ぎたのだから。

「あんた、私と違う大学に行く気なの?!」

「…なんで知ってるの?」

「家に受験票届いてたのよ!!!」

杏音の手には私宛の封筒が歪な形になって握られていた。私の未来をどこまでも自分のために消費しようとする生き物にもはやこれが本当に血を分けた自身の片割れなのかと腹の底から煮えたぎる怒りで前がぼやけていく。

「こんなの許さない!あんたは一生私の引き立て役でいなさいよ!!!」

あまりに身勝手な言葉に受験票を取り戻そうとして手を伸ばした。泣き叫ぶ杏音と、激しく揉み合う。

「杏奈!!!」

その時、聞こえたのは私を探しにきてくれた優斗の絶叫と、歩道橋の手すりが砕けるバキッという聞きたくない音だった。視界が急激に傾き、足元が宙に浮いた。

下を走る車の急ブレーキと鼓膜を引き裂くような激しいクラクション。その一瞬で見えたのは、私を抱き止めようとする、必死な優斗の表情。

それが最後に見た光景だった。

私と杏音はもつれ合うようにして冬の冷たいアスファルトへと、真っ逆さまに突き落とされ、助けに来た優斗と一緒に、こちらに走ってくるトラックに轢かれた。

次に私が目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、真っ白な病院の天井だった。

身体の感覚はほとんどなく、ただ自分がもう長くは持たないことだけが、本能的に理解できた。

微かに視線を動かすと、すぐ隣のベッドには、人工呼吸器をつけられて昏睡状態のまま眠り続ける杏音の姿があった。そしてその傍らには、杏音の手を必死に握りしめている両親がいた。

彼らは、私が目を覚ましたことにすら気づいていない。

けれど、私の視界に入ったのはそれだけではなかった。

少し離れたガラス越し、隣の集中治療室に置かれたベッド。そこには、家族らしき男女数人と白い布を被せられ、微動だにしない優斗の身体が見えた。

すべてを察した。彼はあの瞬間まで私を庇って、私をこの地獄から救おうとして、巻き込まれて死んでしまったのだ。私のせいで、優斗の未来までも奪ってしまった。胸に渦巻くのは、引き裂かれる深い後悔と、彼に対する終わらない懺悔だった。

「……お父、さん。お母、さん」

消え入りそうな声で呼ぶと、両親がハッとしたように私を振り返った。

駆け寄ろうとする彼らを見据え、私は残された最後の力を振り絞って、ずっと胸の奥底に秘めていた言葉を、一文字ずつはっきりと紡ぎ出した。

「私の……最大の不幸は……」

呼吸が震え、視界がぼやけてくる。

「お前らクズどもの子供に、クズの双子の妹として……生まれてきたことだ」

両親の顔が、見たこともない絶望と驚愕に染まっていくのが分かった。

私の人生を、奪い続けたやつらへ、ずっとずっと耐えてきた恨みを放った。

言い終えた瞬間、胸のつかえが綺麗に取れたような、不思議な解放感が私を包み込んだ。どうせあいつらはこれから現実を直視することになる。私が何もしなくても落ちぶれていくだろう。

私は、自由だ。

(待たせてごめんね……今、行くから)

私は静かに目を閉じ、優斗が待つであろう暗闇の先へと、そのまま二度と目覚めることのない深い眠りへと落ちていった。


そして私は生まれ変わった、前世と同じ名前を持つ公爵令嬢のアンナに。

あのあと、かつて家族だった人たちがどうなったかは知らない。知る由もないし、興味すらない。だって彼らはもう赤の他人なのだから。今の私には私を無条件で愛し、大切にしてくれる本当の家族がいる。


ただ…ただ、願わくば、奴らが、私みたいにもがいてももがいても抜け出せなかった、あの理不尽な地獄に落ちますように。私が味わったあの搾取と絶望を、そっくりそのまま味わいながら生きていけばいい。

深い深い呪いを願い、そっと息を吐く。そして過去を振り払うかのように頭を切り替えた。


私が一番願っていることは奴らのことではない。

根拠なんてないけれど、なんとなくわかる。彼もこの世界で生まれ変わっているのだと。もし、彼に出会えたら、私の出来うる限りで彼を幸せにする。たとえ忘れていても、彼が前世の私にしてくれたように。

次回、姉の話です。

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