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第1話 パンドラの箱【上】

エデン隊員のジャックは、自分が隊員として約二十数名の包囲網の一角に立っているという事実を、まだ現実として受け入れきれていなかった。


作戦区域は第七管理区画南端。


再開発途中で放棄された高層ビル群。

ガラスはほとんど割れ落ち、露出した鉄骨は夜気に冷やされて鈍く光り、崩落を免れた外壁には煤と焦げ跡が幾重にもこびりついている。


数時間前まで残っていた住民は全員避難済み。


残っているのは、瓦礫と、焼けた臭い……自分たち制圧部隊。そして─────標的。


”罪人”と呼ばれる者達である。


(…………なんだ?)


ジャックは底知れぬ違和感を感じとっていた。

百メートルほど先。

崩れた道路の中央。

街灯の死んだ暗がりの中に、三つの人影が立っている。


彼らが放つその異様な雰囲気に、ジャックは本能的な拒否反応を覚える。


逃げていない。


隠れてもいない。


ただ、そこに立っている。


ただ、立ち方が妙だった。警戒している様子がない。これだけの人数に包囲されているというのに、緊張がない。


まるで、自分たちが待たれていた側であるかのような、そんな錯覚を覚える。


「なんだあいつら…気味が悪いな。」


「……なぁ、本当に、三人だけか?」


誰かと誰かが小さく呟いた。


(確かに…妙な気配がする。)


本当に三人だけか、という発言に、ジャックは心の中で共感する。


増援の気配はない。レーダーの熱源反応も三つだけ。


なのに。


なぜか、数が合わない気がした。


理由は分からない。三つで正しいはずだ。


それなのに、本能が何かを見落としていると叫んでいる。

まるで、影の中にもう一人、別の何かが潜んでいるような─────


『制圧班、構え』


通信機越しから聞こえる雑音混じりの隊長の声が耳に入り、ジャックは我に返った。ライフルを肩に当て、照準を覗き込む。スコープ越しに、人影の一つが鮮明になる。


髪の長い、黒いドレスを着た女だった。


気味が、悪かった。

どう考えてもこの状況に似つかわしくない服装。

戦闘用の装備は何もない。露出した腕も、首筋も、無防備なまま外気に晒されている。


女は、笑っていた。


口元が緩んでいる。


誰かと話している。


音は聞こえない。


ただ、笑っていることだけは、はっきりと分かった。


『撃て!』


隊長の命令と同時に、ジャックは引き金を引いた。

反動が肩を打ち、銃口がわずかに跳ねる。発射炎が夜を裂く。


弾は、命中した。


スコープの中央で、黒いドレスの女の体が揺れる。肩口が弾け、血が噴き出す。


──────だが、女は倒れなかった。


後ろに半歩よろめいただけで、すぐに顔を上げた。


そして。


笑みを、深くした。


寒気が背骨を這い上がった。


(…………は?)


理解が遅れた、その一瞬。


女の姿が、消えた。


視界から、完全に。


スコープを動かしたわけではない。目を逸らしてもいない。


それなのに、消えた。


「ぅあっ────」


それはあまりにも突然だった。


が起きた。


ジャックの右隣にいた隊員────訓練校で同期だったマルコの体が、内側から膨れ上がり、次の瞬間には破裂していた。

骨も肉も区別のつかない破片になって周囲に飛び散り、赤黒い霧が空中に広がる。

衝撃でジャックの頬に何かが叩きつけられた。生温かい感触。反射的に触れた指先に、粘つく液体が絡む。


血だった。


マルコの血だった。


三日前、食堂で隣に座って飯を食ったばかりの男の血が、自分の頬に張り付いている。


理解が追いつく前に、女の声が届いた。


「あはっ」


さっきまで百メートル先にいたはずの黒いドレスの女が、マルコだったものの上で腰をかがめ、こちらを覗き込んでいた。無邪気な子供のように目を細め、口元を押さえて笑っている。


「ちゃんと当ててくるんだ。」


黒いドレスの女の声は、思っていたより普通だった。

甲高くもない。低くもない。

ただただ、楽しそうだった。


「でも遅いね。そんなんじゃ死んじゃうよん?」


次の瞬間、また爆発が起きた。

今度は左側。

悲鳴が途中で途切れる。

ジャックの視界の端で、銃を握りしめたままの誰かの腕が宙を舞った。


「おい阿呆。」


別の声がした。

落ち着いた、感情の薄い女の声。


手前テメェ何時いつから家畜とお友達になった?仲良くお話してる場合じゃないだろ。」


その女が一歩前に出たとき、ジャックは目が合った。その瞳は、内側に熱を閉じ込めたまま滲み出しているような赤だった。怒りとも興奮とも違う。

ただ、獲物を前にした捕食者だけが持つ部類の光が、静かに宿っている。


「そんなお堅いこと言わないでよリンネちゃん、せっかくの晴れ舞台なんだし派手に咲かせちゃおうよ。」


五月蝿うるさい黙れ。手前テメェの頭ん中は爆発しかないのか。」


赤い瞳の女の両手は腰の高さで止まっていた。五本指を広げ、力を抜いているように見えた…が、その指がゆっくりと閉じていく。


拳が形作られるにつれて、銀色の光が指の隙間から現れた。


短い刃だった。


それも、一本ではない。


人差し指と中指の間に一枚。中指と薬指の間に一枚。薬指と小指の間に一枚。左右の手、それぞれの指の隙間すべてに、同じ長さの小刀が挟み込まれている。柄は握り込まれて見えず、刃だけが外へ突き出していた。


まるで、拳そのものが牙を持ったみたいに。


赤い瞳の女が拳をわずかに傾けると、刃についた血が重さに耐えきれず、雫になって落ちた。


その仕草に一切の力みはない。


長年そうしてきた者だけが持つ、自然な構えだった。


赤い瞳が、まっすぐにこちらを捉える。


逃げ場はない、と理解した。

刃先から滴り落ちた血が、アスファルトに黒い染みを作っていた。


「爆発物を撒き散らすな阿呆女。無駄に血肉が飛散るんだよ。汚れちゃうだろうが。」


「はいはいアホでーす爆発脳でーす。」


黒いドレスの女は、不満そうに頬を膨らませる。


戦場に不釣り合いな彼女らの空気がとても気味が悪かった。まるで別の空間、別の時間に閉じ込められたかのように。


遊んでいるのか、と。


本気でそう思った。


この状況で。


殺し合いの最中で。


(なんなんだこいつら……!)


ジャックの喉が無意識に鳴り、冷や汗が頬を伝い落ちる。恐怖という感情が、ようやく形を持って意識に浮かび上がる。


そのとき、彼女らの間をすり抜けるように、ヌルりと別の男が前に出た。


かなりの長身で、眼鏡をかけた痩せ型の男。白いカソック…所謂 神父服を着ていた。


場違いなほど清潔な白だった。

周囲の血と煤の中で、異様なほど浮いて見える。


「ほう、ほう、ほうほうほうほう。」


その男は、顎に指を添えてこちらを見ていた。


いや、正確には─────観察していた。


「興味深いですなぁ。うん、非常に。」


独り言のようにブツブツと呟く。


「恐怖による硬直。交感神経の過剰反応。筋繊維の微細振動─────」


何を言ってるのか、言葉の意味が、すぐには理解できない。


「典型的な生存本能の発露だ。実に興味深い。」


彼もまた、笑っていた。

理解の外側にいる笑みだった。


(クソッタレ、ぶち抜いてやる!)


隙だらけな男に、ジャックは照準を合わせ、迷わず引き金を引いた。銃声と共に、弾丸が神父服の男の側頭部を撃ち抜いた。


男の頭部が弾けた。

それはあまりにもあっけなく。

骨が砕け、脳が飛び散り、白い服が赤く染まる。


(…やった……か…?)


神父服の男の体が、崩れ落ちる。

倒れた。

動かない。


死んだ、確実に。


その瞬間。


「邪魔だ、役立たず。」


赤い瞳の女の声が、凍てついた刃のように響いた。彼女は仲間の男の死体を一瞥もせず、それどころか男の死体を踏み越えた。

神父服に靴底が沈み込み、血が靴を汚す。まるでそこに何もないかのように、躊躇なく、自然に。


「木偶の坊が」


吐き捨てるように言って、彼女は前に出た。指の間に挟まれた刃が月光を反射し、銀色に光る。


「あはははっ!」


それを見た黒いドレスの女が笑い転げた。


「ひっどい、ひどすぎ!普通仲間の死体踏んでく?」


両手で腹を抱え、肩を震わせて笑う。涙を浮かべながら、息を切らしながら、それでも笑いが止まらない様子だった。


五月蝿うるさい。貢献するつもりがないなら手前テメェも黙って死ね。」


赤い瞳の女は振り返りもしない。

ただ、低く、氷を削るような声で呟いた。


「わかってるよーん。爆破すればいいんでしょ。」


彼女は笑いながらそう言って、赤い瞳の後を追った。二人とも、神父服の男の死を気にする素振りすらない。まるで、道端に転がった石ころを避けるのと同じ温度で。


ジャックは、その光景に言葉を失った。


(何だこいつら…仲間が死んだのに…)


狂っている。完全に、狂っている。


その時、ジャックの視界の端で、何かが動いた。


地面に転がった神父服の男────頭を半分吹き飛ばされた、あの死体。


その残った片方の目が、微かに動いたような気がした。


(────?)


見間違いだ、と思った。

思いたかった。

潰れた頭蓋の隙間から、脳の断面が覗いている。薄い桃色をした中の組織が外気に晒され、血と脳漿が地面に流れ出している。

どう見ても、死んでいる。

人間として、機能しているはずがない。


なのに。


その片方だけ残った目が、確かにゆっくりと────こちらを、向いた。


焦点が、合っている。


ジャックを、見ている。


そして。


口が、動いた。


頭の半分がないまま。


脳が露出したまま。


それでも、唇だけが形を作る。


音は、出なかった。


だが、唇の動きだけで、読み取れた。


()


ジャックは、この夜、二つの間違いを犯していた。


一つは、彼らをだと思ったこと。


もう一つは─────相手が三人だと思ったこと。


崩れたビルの影。


瓦礫の陰。


月明かりの届かない、最も深い闇の中に。


─────”それ”は、そこにいた。


ジャックはまだ知らない。この夜見た光景が、恐怖の底だと思っていたものが─────ほんの表層に過ぎなかったことを。本当の深淵は、が口を開いた瞬間に始まる。


「そろそろ出ようか。」




(第1話『パンドラの箱 上』終)

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