95話 空から降り立つ者
王城の中庭には、普段では考えられないほど多くの騎士や文官が集まり、沈黙と緊張が混じり合った空気が漂っていた。
ネアは、まだ新しい騎士団長の礼服に袖を通し、中庭の端に立っていた。
これは成り立てで立場が低いため。
頭上では、巨大な影がゆっくりと王城を覆っていく。
(……大きい)
飛空船。
それは雲すれすれの高度から滑るように降下してくる。
白銀の装甲が陽光を反射し、船体にはリセラ聖教国を象徴する紋章が刻まれていた。
王都の誰もが息を飲むほどの存在感。
鞘に入っているレセルは不機嫌そうに呟いた。
『ちっ……面倒事の塊が来たわね。舌打ちしたくなるわ』
「もうしてるじゃん……」
ネアは小声で突っ込みを入れる。
飛空船が中庭へ影を落としながらゆっくり着陸する。
船底が開き、階段が伸び、数人の従者が静かに並んだ。
階段の上から姿を現したのは、一人の少女。
整えられた銀の髪が、風もないのに淡く揺れ、瞳も同じ銀色。
どこか神秘的で、人ならざる雰囲気をまとっている。
「……っ」
ネアは目を見開いた。
あの銀髪、あの銀の瞳。
聖都で一度だけ会った、あの少女を知っている。
あの時、彼女は言った。
私は女神教の偉い人、と。
(……偉い人どころじゃない)
いくらか予想はしていた。
あの落ち着きと、自然に周囲を圧する存在感。
尋常ではないとは思っていた。
けれど実際に、大陸に広まっている宗教の頂点として降り立つ姿を目にすると、驚きで体が固まってしまう。
レセルは小さく、しかしはっきりとした軽蔑を混ぜて呟く。
『ああ、間違いないわね。あれが女神教の最高権威。教皇そのものよ』
ネアの心臓が早鐘のように打ち始める。
まさか、自分が騎士団長として立つ最初の場で会うことになるなんて。
◇◇◇
飛空船の到着から少し時間が過ぎ、王城の大広間では、国王と教皇が正式に対面する場が整えられていた。
新設された騎士団の団長として、ネアも立ち会うことになっている。
広い大広間の奥、豪勢な王座にもたれるように座るのは、この国の王。
(……この人が、ベルフ王国の国王陛下……?)
黄金の装飾を施した豪奢な衣をまとってはいるが、顔色は冴えず、背筋はまっすぐどころか、王座に沈み込むようにゆるく傾いている。
目の下には深い隈。
だが、それが政務の疲労の結果なのかといえば、違う気がした。
やる気がなく、覇気もない。
城内で見かけた騎士や侍従たちの方が、よほど活力がある。
(……怠い、って顔してる……)
ネアは率直にそう感じた。
そして、大広間の扉が開かれる。
光が差し込むように、ゆっくりと歩み入る、白銀の髪と瞳を持つ少女。
その歩みには、一点の乱れもない。
穏やかで清らかな微笑みをたたえ、柔らかな気品を漂わせている。
しかし、その瞳の奥には、とても少女とは思えない冷たさがかすかに光って見えた。
「いやあ、遠路ご苦労であった、教皇殿。よくぞ我が国に来てくださった……ふぁぁ……」
国王はあろうことか、小さなあくびをした。
(えっ……?)
その瞬間、ネアの背筋が強張った。主に驚きから。
教皇は微笑みを崩さないまま、一歩前へ。
「陛下のために参りました。陛下の御心が安らかでありますよう……女神の加護が常にございます」
「おお……女神の加護か……。そなたがそう言ってくれると、心が軽くなる……いやはや、本当に……」
国王の声は、甘え混じりにどこか緩んでいる。
その横で控える宰相の表情は固く、視線を伏せている。
そしてネアは、気づいてしまった。
(……国王は、女神教に、完全に心を掴まれてる……?)
ただの友好関係ではない。
言葉一つ、視線一つで表情が変わる。
教皇の前では、国王はあまりに無防備に見える。
教皇たる少女はにこやかに続けた。
「陛下が清らかであられるよう、我ら女神教は常にお支えいたします。どうか、これからも女神の導きを……」
「うむ、うむ……頼りにしておる……。女神教なくして余は……いや、本当に助けられておる……」
(……え? え……??)
まるで依存。
国王が教皇に向ける目は、政治というよりはもっと別の、すがるような色を帯びていた。
ネアの喉が、無意識に鳴る。
すると腰の鞘に入っているレセルがすぐにささやいた。
『あのね、固まらないの。顔に出ているわよ』
「う……でも……」
『気持ちはわかるけれど、今ここで余計な動きを見せないこと。新米団長としての振る舞いをしなさい』
レセルの声は珍しく鋭かった。
ネアは必死に肩の力を抜き、表情を整えようとする。
(……そっか。私はもう、ただの旅人じゃない。騎士団長として立ってるんだ……)
国王は教皇に甘く笑い、教皇は王に清らかな微笑みを返す。
だがその微笑みの奥には、まるで何かをじっと観察するような、深い影が潜んでいるようにも見えた。
(……この国、もしかして……)
ネアの胸の奥は冷たくなった。
国王と教皇の挨拶が一通り終わり、大広間に静寂が落ちる。
その静寂を破ったのは、宰相だった。
「……フェリシア様。急遽のご来訪、誠に光栄ではございますが、いかなるご事情で、このように突然、我が国へ?」
遠回しでもなんでもない、真正面からの問い。
大広間の空気が張りつめる。
教皇は、ゆっくりと宰相の方へ視線を向けた。
そして、ひざまずいた。
国王の前に、そっと両手をつき、頭を垂れ、あくまで臣下のように振る舞う。
その所作は美しく、控えめで、完璧だった。
だが、とてもわざとらしい。
ネアには、そう見えた。
「突然の訪問……陛下と宰相殿を困らせたのであれば、深くお詫びいたします」
やけに柔らかく、丁寧な声。
「私が参った理由は二つございます」
彼女は顔を上げ、銀の瞳で国王と宰相を見つめた。
「一つは、女神が降臨される場所を確かめるため」
大広間がざわつく。
女神教において、降臨は最高位の奇跡。
その言葉を軽々しく使っていいはずがない。
「来たる儀式において、女神が依り代へ降りられる。その依り代となるのが、この私」
国王は目を輝かせると、玉座から身を乗り出した。
「おお……! なんと尊い……! 自分が生きている間に女神を見れる……女神が本当に……」
宰相は眉をひそめ、沈黙する。
貴族たちの多くは呆気に取られ、一部は顔を引きつらせた。
また厄介なことを……と表情に書いてあった。
教皇は続けて、あっさりと言った。
「そして、もう一つは」
銀の髪が揺れ、少女は微笑む。
その微笑みは清らかであるはずなのに、妙に鋭い。
「魔神教の排除です。ついでに」
空気が止まった。
「ついで……?」
「ついで……だと?」
後方の貴族席が騒ぎかけ、周囲にいた騎士に慌てて押しとどめられる。
宰相は乾いた笑みを浮かべた。
「フェリシア様……“ついで”とは、ずいぶんと軽く言われますな」
「魔神教など、女神の御心に比べれば些事です。この王国での影響力も、私がいれば容易に鎮められます」
さらりと言った。
まるで、“面倒だから片付けておくね”と言うような調子で。
ネアは背筋にぞわりと嫌な汗が浮かぶのを感じた。
教皇は少女でありながら、その内側にあるものは冷徹で、強引で、恐ろしく純粋。
(こんな人が、女神教の頂点……?)
そして一通りの儀式的会話を終えると、教皇は柔らかく一礼し、従者たちと共に大広間を去っていった。
銀の髪が視界から消えた瞬間、空気がどっと緩む。
国王はふらりと王座にもたれかかり、宰相は深く長く、重たい息を吐いた。
ネアは案内役に連れられ、別室へ向かう。
そこで礼服から普段着に着替え、ようやく肩の力が抜けかけた頃、背後から声がかかる。
「黄昏の剣騎士団の団長殿。少しよろしいかな?」
声の主は宰相。
彼の顔は、どこか疲れ切っている。
「……先ほどの光景、どう思ったかな?」
「どう、って……あんなの、驚く以外……」
「ならば十分だ。私は、あれを君に間近で見せたかった」
宰相の声は本気だった。
ネアは驚いて質問を返す。
「……だから、急いで私を騎士団長にしたんですか?」
「そうだ。騎士団長でなければ、あの場に立つ資格はなかった。あの少女がどういう存在か、王国と女神教の力関係がどれほど歪んでいるのか。君に見せる必要があった」
宰相は壁にもたれ、静かに続ける。
「……あの少女の名はフェリシア。教皇候補の中から選ばれた者で、女神教の中でも特別な才能と権威を持つ」
「特別……って、あの……依り代になるって話の……?」
「そうだ。魔神教への敵意は本物だ。だが同時に、彼女は“あまりにも奔放”でな」
宰相の表情が苦く歪む。
「女神教に忠実でありながら、誰の制御も受けない。王よりも、司教たちよりも、敬意より直感を優先する。彼女は、味方であっても危険だ。だからこそ、警戒すべき存在だと私は見ている」
ネアは思わず呟く。
「味方で……危険……?」
「ああ。そして今、王国は彼女に──いや、女神教に依存しすぎている。陛下があの調子ではな」
宰相はネアを真っ直ぐに見た。
「君には、彼女を外から見て判断できる立場がある。だからこそ、君が必要なのだよ」
ネアは固い表情になり、レセルが小さく言う。
『面倒事の中心に巻き込まれるわね』
「うん……」
その様子を見た宰相は小さく頷いた。
「覚悟しておいてくれ。彼女は、必ず君に何かを求めてくるだろう」




