87話 女神教の少女
数日が経ったが、聖堂への潜入計画はまったく進展しなかった。
「ここで商売しながら、機を待つべきですわ」
シャーラはそう言い切る。
商人として溶け込み、そこから情報を引き寄せる方が安全。
それは理屈として正しい。
だが、ユニスは硬い表情で首を振る。
「時間をかけすぎると、計画が頓挫しかねない。金庫は移される可能性だってある」
「焦って罠に飛び込むよりはマシですわ」
二人が見事に平行線のままでいる中、リュナがぼそりと呟く。
「地下道とかないの? 教会の下とか、絶対あるでしょ、秘密の通路」
その可能性に、ネアの胸が一瞬だけ高鳴る。
女神教の施設に魔神教の者が出入りするなら、隠し通路の一つや二つはあってもおかしくないからだ。
「あるなら、魔神教が見張ってますわよ。わざわざ敵の施設内に金庫を置くのだから」
しかし、シャーラは即座に切り捨て、リュナは口を閉じた。
(確かに……それはそう)
女神教と魔神教は争っている。地域によって温度差はあれど。
結局答えは出ないまま、ネアたちは商売の手伝いに従事した。
◇◇◇
その日。
露店に立つネアの前に、小さな影が立った。
長く整った銀の髪に、銀の瞳を持つ少女。
年齢はネアと変わらない。
だが雰囲気は大人びている。
黄金の刺繍が入った外套は、一般人の着るものではない。
そしてその瞳は──レセルを見ていた。
ただの装備を見るのではなく、見定めるように。
「ちょっと、お話が聞きたいの。あなたと、その剣のことで」
子どもらしい調子で言うのに、声の奥は澄み切った水のように冷静だった。
「え、えっと……」
返答に迷うネアを放置し、少女はシャーラに近づく。
「この護衛の人、借りたいんだけど。いくら?」
シャーラが満面の笑みで言う。
「金貨一枚でございますわ~♪」
即座に少女は値切り始めた。
「そんなに高いのは困る。銀貨五枚」
「それですと、劣悪な護衛しか紹介できませんのよ?」
「じゃあ、銀貨十枚までなら」
「契約成立でございますわぁ~♪」
狐の尻尾が喜びに揺れる中、ネアは呆然と立っていた。
「行きましょう」
少女は当然のように歩き出し、ネアは引きずられるようについていく。
カルセラの街角を歩く二人。
少女は特に警戒せず、楽しげに建物や露店を指差していた。
「ここ、どう思う?」
「……思ったより普通の街だと思います。人が多くて、商売が盛んな場所」
少女は満足げに頷いた。
「信仰は、お金になるから。巡礼も、観光も、商売も。神を信じてる人は財布を開くの。いい国でしょ?」
その言葉に、わずかな違和感が走る。
信仰を語っているのに、口調は商人に近い。
そして、少女の視線が剣へ戻る。
「その魔剣。意思がある? ない?」
ネアの背筋に冷たいものが走る。
(……この子、魔剣なのを“見ただけで”わかるの?)
普通の人は、魔剣をただの武器として見過ごす。
握ったり、強烈な力に触れたりして、初めて認識できるものだ。
だが、少女は迷いなく問いかけてくる。
「ねえ。その剣は、話す? それとも、ただの道具?」
ネアは息を呑んで答えを考えた。
不用意に肯定すれば危険。
嘘をつけばすぐに見破られそうだ。
すると少女が微笑む。
「私は女神教の偉い人。答えは、嘘でも本当でもいい。興味があるの」
その瞳は、好奇心と純粋な危険性を含んでいた。
まるで自分の研究対象を見るような学者の瞳。
ネアはゆっくりと、慎重に言葉を選んだ。
「……意思があるかなんて、わかりません。ただ、私は剣を信じています」
少女は唇に指を当て、くすっと笑った。
そして耳元でささやく。
「ふふ。当たり障りのない答え。気に入った。その魔剣、壊したらどうなるのかしら?」
ぞくり、と背筋が震える。
(この子、危ない……)
『こいつ、普通じゃない。気をつけて』
レセルは警戒混じりの声を出す。
少女は笑顔のまま、ネアの手首を軽く引いた。
「大聖堂に連れて行ってあげる。あなたと、剣と、少しお話をしたいから」
少女に導かれ、ネアは聖都の中央にある大聖堂へ向かって歩く。
しかし、正面の巡礼路ではなく、少女は迷いなく横の細道へ折れた。
「こっち。人目が多い入口は面倒だから、好きじゃないの」
その言葉通り、少女は堂々と、しかし誰にも見られないような動きで裏門へ向かう。
裏口には厳つい鎧を着た兵士が立っていたが、少女の姿を見るなり深々と頭を抱える。
「……またですか」
困ったような、諦めたような声。
だが、抵抗はしない。
鍵を開けると、少女を通しながら苦言を漏らした。
「お一人で外に出ないでください。本当に。こちらにも責任が──」
「怒らないで。今は帰ってきたんだから良いでしょ?」
軽い言葉に、兵士はさらに重い溜息を落とした。
そのやり取りを見ながら、レセルが小声で呟く。
『……相当な大物ね』
(気軽に話していい立場じゃない気がする)
喉がひりつくほどの緊張が走る。
裏の廊下を抜けると、大聖堂の内部が目に飛び込んだ。
黄金色に輝く天井の装飾。
磨き抜かれた大理石の床。
絵画を囲む色とりどりのガラスが、陽光を宝石のように広げる。
信仰心のないネアですら、思わず見とれるほどだった。
(ここが……この国の中心……)
荘厳さに圧倒される中、近づいてくる影があった。
白銀の鎧に身を包んだ騎士だ。
その目は真剣で、剣より鋭かった。
「聖──」
言いかけて、舌打ちするように咳をする。
「昨日も、無断で外出されたと聞きました。危険なのですから控えてください。護衛の者にも迷惑が──」
「うるさい。怒られに来たんじゃないもの」
小言を少女はあっさり切り捨てる。
騎士の顔はぴくりとも動かないが、その眉はひどく歪んでいた。
(聖……? 何って言おうとしたの?)
ネアは聞き覚えのない呼称に戸惑う。
(女神教の……聖職者? それとも……もっと偉い?)
少女は気に留める様子すらない。
「話したいことがあるの。盗み聞きがされない部屋、空いてる?」
一拍置いたあと、騎士は重い息を吐き、頷いた。
「……こちらへ」
その声は、諦めと覚悟の混じったものだった。
少女が勝手に外へ出るのは、日常なのだ。
そしてそれを止められる者がいないほどの身分なのだ。
『聖下……なるほど』
レセルの低い声が、ネアの耳だけに届く。
『つまり、女神教の最高位……この国で一番、力を持つ立場の可能性があるわ』
ネアの背中に冷たい汗が流れた。
(……そんな人に、魔剣のことを聞かれてる?)
恐怖を抱くと共に、少女の小さな手がネアの袖を軽く引いた。
「さあ、行きましょう。あなたと、その剣の話を聞きたいの」
無邪気な声とは裏腹に、瞳は鋭い光でネアとレセルを見ていた。
まるで、研究対象を前にした、興味と支配欲に満ちた目だった。
「話が終わりましたら、扉を叩いてお呼びください」
重厚な扉が閉ざされると、そこは静寂だけが支配する小部屋。
装飾はなく、ただ質素な机と椅子があるだけ。
少女は椅子に座らず、立ったままネアに向き直る。
「まず、聞かせて。あなたはその剣といつ出会ったの?」
唐突な質問。
だが、その瞳には一切の冗談がなかった。
ネアは短く息を整える。
「……村が滅んだ時です」
少女は瞬きもせず、続きを促す。
「初めて、剣で何かを殺したのは?」
心臓が跳ねるような問い。
少女の声は冷静なのに、どこか残酷な鋭さがあった。
「街で……檻から逃げた魔物を」
「魔物だけ?」
ネアは一瞬、言葉に詰まった。
回答を濁すネアを見ると、少女はそれ以上追及しなかった。
ただ、別の言葉を投げる。
「その剣。意思があるでしょ?」
ネアの背筋が凍った。
「……どうして」
「使い手にしか聞こえない魔剣の声を聞いてる人はね、表情が少しだけ変わるの」
(そんなことで、わかるの……?)
レセルが忌々しそうに呟く。
『……本当に厄介だわ』
少女はじっとレセルを見た。
その眼差しは、美しさよりも観察者の冷たさを帯びていた。
「握らせてくれる? その剣を」
「……ダメです」
少女は一歩だけ近づく。
小柄なのに、その存在感は異様に大きく感じた。
「ふむ。なら泥棒さんが欲しい情報を、こちらが持っているとしたら?」
ネアは思わずレセルを見る。
レセルは小さく、しかし明確に唾を吐くような声を出した。
『向こうはこっちのこと知ってて連れてきたってわけか。最低の取引ね。……渡しなさい。少しだけよ』
「本当に、いいの?」
『よくないわ。でも、必要でしょう?』
渋々、ネアは剣を少女の前に差し出す。
少女は両手でそれを持った。
その瞬間──剣であるレセルはかすかに震えた。
少女の手がほんのわずかに押し返されたように、持ち上がった指が震える。
「……そう」
無表情のまま、一拍置いて返す。
「この剣、私を拒否した。あなた、愛されているのね」
ネアの背筋を冷たいものが走る。
レセルがゆっくり言葉を紡ぐ。
『ネア以外の手に握られたくないのよ』
少女はネアを見つめたまま、静かに告げた。
「三日後。東の聖堂から人がいなくなるわ」
「それって、どういう……」
「大事件が起こるの。その混乱で、東の聖堂はほぼ無人になる」
唇には、静かな微笑。
起こるのではなく、起こすのだろう。
「その機会をものにできるかどうかは、あなたたち次第。泥棒さん」
ネアは言葉を失う。
少女は踵を返し、扉の方へ向かう。
「行きなさい。あなたには準備があるでしょう?」
その背中に、ネアはようやく気づく。
(この子……誰かに従ってるのではなく、選ばれてこの立場にいて、自分の意思で動いてる)
扉が叩かれると、少し遅れて開く。
大聖堂を離れたあと、情報と共に逃げ場のない緊張感がネアの胸に残った。




