85話 聖教国へ向かう前の準備
翌朝、全員がトラヴァスの街にある騎士団本部の会議室へ呼び出される。
「リセラ聖教国に入る前に、必ず覚えておくべきことがあります」
ナランは地図を広げると、淡々と説明を始めた。
ネアたちは、椅子に腰かけている。
シャーラだけは、いつもの調子で尻尾を揺らしながら立ったまま聞いていた。
「聖教国の国境は、検問所が複数あります。表向きは女神教の信仰を守るための警備。しかし実際には、商人の流通を監視し、献金を徴収する場でもある」
献金、と言われた瞬間にシャーラが嬉しそうな声を漏らした。
「つまり交渉の余地がある、ということですわね」
「交渉が通じる相手ばかりではありません」
ナランは真顔で冷や水を浴びせる。
耳も尻尾も、気持ちがぴりぴりと緊張しているように揺れた。
「聖教国の国境には、二種類の者が立っています。我が物顔で賄賂を受け取る者と、生真面目に正義を守る者。どちらに当たるかは、運です」
ユニスが小さく頷きながら口を開く。
「つまり、賄賂が通じる相手に当たれば問題ないが、正義の側に当たれば、通報される可能性がある」
「その通りです」
ナランは続ける。
「賄賂は“少しだけ”にすべきです。少額ならかろうじて見逃される。だが多額を渡せば、悪人に目を付けられ、たかられる。逆に賄賂を一切しないと、善人に惚れ込まれて余計な監視が付くこともある」
レセルがネアに対してささやいた。
『要するに、目立っちゃいけないってことね』
「結構、面倒くさいかも」
だがナランはそれを聞いて微笑む。
「信心深い国は、賄賂の使い方も信心深いのですよ」
シャーラが肩をすくめた。
「まあまあ、わたくしの腕に任せておきなさいませ。何度か商売しに行ったことがありますので、雰囲気は掴んでおりますのよ。ほほほ」
ナランはじっと見たあと、話を先に進めた。
「偽装の設定は、あなた方は商人の護衛。商人はシャーラ。聖教国での通行には“積み荷の信用”が何より大切です。ここに宰相閣下が準備した偽造書類があります」
机に置かれたのは数冊分の帳簿と、印章入りの通行証。
ページをめくると、依頼主の署名、売買契約、輸送予定地、積み荷の内訳──その他様々な内容が記されている。
中身を確認したユニスが感嘆の吐息を漏らした。
「よくも短期間でここまで準備を……」
「どのみち魔神教の本部に潜入させた以上、最後まで利用する気でしょうね」
ナランの声は、冷めた皮肉を含む。
ネアは苦笑したが、確かにそうだとも思った。
「この書類があれば、一般人では入れない倉庫や集積所にも入れるはずです」
「つまり、怪しまれずに金庫にも近づきやすい」
シャーラはにやりと笑う。
ナランは最後に釘を刺す。
「聖教国は信仰の国です。あなたたちは余計な信仰心も余計な否定も見せてはいけません。ただの商人と護衛でいること。それが最も安全です」
ネアやユニス、リュナは真面目に頷く。
シャーラは、どこ吹く風といった顔で尻尾をふる。
(これ一番危ないのは多分シャーラさんじゃ……)
そんな予感を抱きながらも、聖教国潜入の準備が本格的に動き始めた。
荷造りが始まったのは、書類の確認が終わってすぐだった。
シャーラが主導し、ネアたちは“護衛を兼ねた雑用”として積み荷に布を掛けたり、印章の確認を手伝ったりする。
「まずは、商人らしく見せる仕草が大事ですわ!」
意気揚々と胸を張る狐の商人は、積み荷の木箱の上に立ちながら宣言した。
「さあさあ護衛の皆さま。荷物を持つときは、こう……丁寧に、しかし乱暴に! 丁寧に! 乱暴に!」
「どっち?」
リュナが困惑すると、シャーラは得意げに指を振った。
「高い物も安い物も一緒くたに扱う慣れた商人らしさ、ですわ。傷つけないけれど、いちいち愛情は注がない──つまり雑に丁寧!」
レセルが小声で突っ込む。
『言ってることが矛盾してるのか、矛盾してないのか微妙なところね……』
とはいえ、ネアとユニスは真面目にそれを実践する。
箱を乱暴に置かず、かといって抱くようにも扱わない。
仕事としての丁寧さだけを込めて運ぶ。
「結構難しい……」
だがそれ以上に難しいのは、シャーラの指導だった。
「次は商人の笑顔の練習ですわぁ。お金の匂いに気づいたときの笑顔をするのです!」
「こんな感じ?」
ユニスがぎこちなく笑う。
「それは貴族様の社交スマイル。もっと貪欲に!」
「じゃあ、こう……?」
次はリュナがにやりと笑う。
「それは傭兵が金をふんだくる前の顔ですわ。違います、もっと愛想よく! でも腹黒く!」
ネアは額を押さえる。
「うーん、笑顔かあ」
『つまりシャーラみたいになれってことよ』
「それはちょっと……」
だが商人としての笑い方や、値段を揺さぶる返答のコツなど、シャーラの教えは実践的だった。
そんな練習の最中、ネアはふっとレセルを置いて離れた。
護衛役としての動線を確認するという名目で、積み荷の位置や片隅にある道具を確認するためだ。
レセルは剣の姿で、他の武具と一緒に壁に立てかけられていた。
「意外と荷物、多いな……これ全部持って行くの?」
独り言を口にしながら、ネアは少し離れて十数歩ほど距離を取った。
「……っ」
その瞬間、視界がぐらりと歪む。
胸の奥にぞわぞわとした、冷たい嫌な感触が走り、息がひっかかる。
(なに、これ……苦しい……?)
足に力が入らず、棚に片手をつく。
あまり離れていないはずなのに、体の奥から力が吸われていくみたいだった。
「っは……っ……」
呼吸が浅くなる。
心臓が締め付けられ、体温がじわじわと奪われる。
ほどなくして、背後から刺すような声が響いた。
『何してるの、戻りなさい』
それはレセルの声。
叱責というよりは、苛立ちが混ざったもの。
ネアはふらつきながら戻り、剣に触れた。
その途端、血が一気に巡り、呼吸が楽になる。
体温も戻り、頭の霞が晴れていった。
(うそ……ただ離れただけであんなに苦しく?)
レセルがささやいた。
嘲りでも、慰めでもない。
ただ、当然のことを淡々と告げる声。
『言ったでしょう? あなたが死ねば、わたしが壊れる。わたしが壊れれば、あなたは死ぬ。──そして離れれば、お互い衰弱するようになるって』
ネアは一度深呼吸する。
「……ここまで、とは……思わなかった」
『当然よ。まだ馴染んでいる途中なんだから。完全に馴染めば、もう少し離れても大丈夫なようになるわ』
「……馴染むって……何と?」
『魂に決まっているでしょう、ネア』
重要なことが、さらりと言われた。
(私とレセルの魂が……結びついて……)
今までは肌身離さず持っていたため、症状が出ることはなかった。
でも、こうして距離を取れば、即座に不調になる。
まるで鎖のように。
逃げられないように。
互いを離さないための、縛り。
『忘れないで。あなたは、もうどこにも行けないし──わたしも手放すつもりはないの』
耳元に落ちる声は、とても甘くて優しかった。
◇◇◇
レセルとの距離に制限があると身をもって知ったあと、ネアはなるべく手放さないまま準備を続けた。
その姿にシャーラは気づいていないらしく、相変わらず巻物と帳簿を片手に、積み荷の確認と値札の書き直しに夢中になっている。
「さてさて、次は商品の並び方の確認ですわ。商品は見栄えが命。値段よりも“らしい品物”という演出が大事なんですのよ。はいこちら、慈悲の象徴、慈善価格! でも実際は殿様商売!」
シャーラは盛り上がり、狐の尻尾をぴょんぴょん揺らす。
ユニスは、巻物の山を整理しながら、静かにネアへ視線を寄せた。
「……体調、大丈夫?」
「う、うん……少し疲れただけ」
隠すように笑うと、リュナが声をかけてくる。
「顔が白いし……貧血? いや、恋煩い?」
「いやいやいや、恋煩いはないから」
ネアが小声で突っ込むと、ユニスは一瞬だけ腰にあるレセルを見て、ほんの小さく眉を寄せた。
だが何も言わない。
代わりに、現実的な言葉だけを落とす。
「……なら、無茶はしないこと」
レセルの封じ込められない執着も、ネアの体の異変も、ここで騒ぐには危険すぎる。
そんな緊張感をよそに、シャーラは勝手に宣言を始めた。
「では皆さま! 準備は整ってまいりましたわ。いざ、リセラ聖教国へ、資金強奪大作戦を! 商売は戦場、利益は正義、儲けは祈り、財布は信仰!」
「いやそれ、女神と魔神どっちの信仰的にもダメなんじゃ……」
ネアが呆れ声を漏らすも、シャーラは堂々と胸を張る。
「信仰は自由ですわ! わたくしの信仰対象はただ一つ……お金でございます!」
狐の尻尾が誇らしげに揺れる。
レセルは冷ややかに呟いた。
『この女、信条が一貫してるから、ムカつくけど嫌いになれないのが腹立つわね』
ユニスとリュナは同時にため息をついた。
「ある意味、頼りにはなる。身近にはいてほしくないけど」
「まあ、有能ではあるよね、うん。雇い主にはなってほしくないかな。報酬、値切られそうだし」
そしてネアは、そっと剣を握り直す。
レセルから離れれば一気に衰弱してしまう。
それでも自分の意思で、聖教国へ潜入するのだ。
覚悟を固めた瞬間、レセルの声が、ほんの少しだけ優しく響く。
『必ず側にいるわ。あなたを離さない。あなたが望もうと望むまいと』
それは守りなのか、束縛なのか。
ただ一つだけ確かなのは。
魔剣との道は、もう後戻りできないということ。
聖教国へ向けた準備は、静かに、しかし着実に進んでいった。




