82話 魔神教の本部へ
数日後。
トラヴァスの街にある魔神教の施設を出たネアは、狐の商人シャーラに導かれるまま、魔神教の本部へと足を踏み入れていた。
石造りの廊下は、外からの光を遮るように薄暗い。
壁には魔法陣や紋章らしき模様が描かれ、歩くたびに足音が吸い込まれるように響く。
後ろには、顔を覆う布と外套を身につけた二人──荷物運びの使用人を装ったユニスとリュナが続いていた。
「数日前、こちらの二人も行きたいと申し出た時は驚きましたが、やはり人が多い方が自慢できますものね。ふふふふ」
「ええと、シャーラさん。受け入れてありがとう」
「商人は見栄を張らないといけませんの。特に、こういう使用人がいるといないとでは大違い」
正体は徹底して隠されているが、潜入しているため失敗は許されない。
ネアは一歩進むたびに、数日前にナランから言われた言葉を思い返す。
「魔神教の本部では敵意よりも興味を恐れなさい。権力者の目に留まることが、一番危険です」
それは経験から来るものなのか、どこか説得力があった。
(……興味、か。確かに、避けた方がいいのかもしれない)
そんな思考を遮るように、目の前の扉が開かれた。
「さあさあ、ここからが“お楽しみ”ですわよ~」
シャーラの尻尾が弾むように揺れ、大部屋へと案内される。
中は広い受付のようになっていた。
信徒や警備の者、使い走りと思われる若者たちに、商人風の人々まで混ざり合い、全体で数百人はいるだろう。
視線と声が飛び交い、地下なのもあって騒がしい。
「ここで手続きをしてから大広間の方へ。名のある信徒も、これから信仰を深める者も、同じく列に並ぶんですのよ」
シャーラは慣れた足取りで進むと、受付の者に向かって言い放った。
「こちら、新人のお嬢さんですわ。ベルフ王国における狩猟祭の優勝者にして、王都で魔剣を堂々と明かした実力者。わたくし、シャーラが直接ご案内いたしましたの」
その瞬間、辺りの雰囲気が変わった。
「狩猟祭? いくらか前のあれか」
「あの子どもが使い手なのか?」
「それっぽい偽物を持たせただけだったりして」
人々の視線が一斉にネアへと集まる。
好奇、期待、羨望、警戒──とにかくあらゆる色を帯びた目。
(……興味が集まってる。こういうのが危ない、って言われたのに)
ネアの背筋は、ほんの少しだけ強張る。
しかし当のシャーラは、どこまでも誇らしげだった。
狐の耳と尻尾を揺らしながら、小声でネアにささやく。
「本部に来れる者たち相手に、上から自慢できるだなんて、気分が良くて最高ですわね? あなたと知り合えて、本当に得しましたわ」
(……これ褒められてるのかな)
ネアは曖昧に笑いながらも、受付の書類にペンを走らせた。
こうしてブランシュ隊の潜入、その本番が静かに始まろうとしていた。
「広い……」
受付を通り抜けると、扉の先には灯火がきらめく大広間が広がっていた。
天井はかなり高く、壁には黒金の幕。
中央には巨大な祭壇が据えられ、その奥には禍々しい石像が。
角を持つ、黒い瘴気をまとった魔神らしき像が鎮座していた。
(……この像、本物に似せてるのかな?)
ネアがちらりと視線を送ると、レセルの声が鞘の中から響く。
『本物を知ってる者なんてほとんどいないでしょうし、“それっぽさ”さえあれば事足りるわ』
「なるほど」
そんな会話をしている間に、シャーラは係の信徒と話し、堂々とした態度で席へ案内させていた。
そしてネアたちは、前方から少し離れてるが、かなり良い席に通される。
「この位置、偉い人の顔もよく見えますし、新人としては十分すぎる待遇ですのよ」
シャーラは鼻を鳴らし、近くの信徒にネアを紹介しながら、魔神教の一員にしてここへ連れてきたのが、さも自分の功績であるかのように振る舞う。
その流れで、布で顔を隠すユニスとリュナについても説明する。
「こちらのお二人は雑用ですの。顔を隠してるのは荷物持ちだから。余計な注目はいりませんでしょう?」
これだけで信徒たちは納得し、視線を逸らしていく。
(……それだけで通るの?)
ネアが驚いていると、シャーラは小声で笑った。
「ここではね、“立場で意見が変わる”んですの。わたくしに口答えできる人、そう多くありませんわ」
「だいぶ、偉いんですね」
「こうして本部で立場を振りかざす楽しさときたら……くふふふ」
お披露目まで少し時間がある。
席に座る三人と一振りは、周囲にならって、ひそひそと声を交わした。
「……ここ、あまり落ち着かないけれど」
「そりゃ、悪趣味な像があるし、信徒の人たちに取り囲まれてるしねぇ」
ユニスの言葉にリュナは嫌そうにぼそりと返す。
ネアも小声で同意しながら、周囲を見渡す。
(みんな小声で話してる……。緊張してるのか、それとも……観察されてるのか)
緊張感はそれなりにあるが、ただ黙って座っているだけよりは、ひそひそと話をしていた方が自然なようだ。
そんな中、リュナだけは別の意味で楽しげだった。
「けどこのあと、飲み放題でしょ? 食べ放題でもあるんでしょ?」
『わたしは甘い物がいいわね。各地からいろいろ用意されてるだろうし』
地味にレセルも期待していた。
「剣が何言ってんの。ここじゃ人になれないから食べれないでしょ」
ネアが小声で突っ込むと、シャーラが振り返る。
「もちろん飲み放題、食べ放題ですわよ? ただし、魔神への忠誠を祝う儀式に限ってという条件付きですけれどね。でも、タダ飯はタダ飯!」
リュナの目が輝き、シャーラは尻尾で嬉しさを表現する。
その愉快なやり取りに、ユニスがぼそりとつぶやく。
「緊張感が感じられないのだけど」
「いや、まあ、その……余裕を見せておくのも大事なんだと思う、たぶん」
ネアは自分に言い聞かせつつも、遠くで用意されてるスープの匂いに目を細めた。
やがて、暗く染まった大広間に鳴り響いた鐘の音が、雑談を飲み込むように広がっていく。
次の瞬間、祭壇の灯りが強く輝いた。
「さあ、始まりますわ」
ささやくシャーラの声は、どこか期待に満ちていた。
鐘の音が静まり、それに替わるように大広間を照らす松明の光がゆらめいた。
祭壇の中央へ、白い布をかぶった若い少女がゆっくりと連れてこられる。
年齢は──ネアと同じくらい。
まだ幼さの残る顔立ち。
痩せてはいるが、決して弱々しくはない。
(……この子が、器?)
ざわめきはごく小さく、しかし濁っていた。
驚きではなく、落胆だ。
「若すぎますわね……」
シャーラの口元が引きつっていた。
「魔神の力に耐えられるとは思えませんわ」
ユニスも息を呑み、リュナは首をかしげた。
「本気で憑依させるつもりなの?」
「パッと見た感じでは荒事の経験はなさそう」
「普通、もっと大人が──」
『ネア。今は黙っておきなさい』
少女の周りに、黒い煙のような魔力が集まっていく。
祭壇に描かれた紋章が赤黒く光り、空気がひと息ごとに重たく、湿り気を帯びる。
やがて少女の体がぴくりと跳ねた。
「…………ッ」
その瞬間、ざわめきは消え、大広間全体が息を止めた。
少女は目を見開くと、声の質がまるで変わっていた。
「ここに告げる」
幼い声でも高くも低くもない。
多層の声が重なったような、不自然な響き。
「女神との戦は近い。備えよ。歩みを止めるな。争いを恐れるな。求めしものは手に入れ、奪えぬなら壊せ」
大広間の者たちの目が一斉に輝く。
歓喜ではなく、緊張と陶酔の混ざった光。
しかし叫びは起きない。
こういう宣言はいつもの形式なのだ。
シャーラがネアに耳打ちする。
「だいたい、いつもこんな感じですの。数十年前は勢力拡大と紛争介入が宣言されましたわ。おかげで、あちこちで暗殺や混乱が起きて……ふふ、良いお金になりましたけど」
ユニスの肩がわずかに揺れ、リュナは表情を引き締めた。
器たる少女に憑依した存在は、最後に短く告げた。
「すべては、目覚めのため」
そして糸が切れたように彼女は倒れるため、周囲に控えていた信徒たちが慌てて抱え込む。
大広間には静寂だけが残る。
(あの子は……大丈夫なのかな)
ネアが固唾を飲むと、レセルの声が静かに落ちてきた。
『少なくとも、あの子は憑依に耐えた。耐えられない者は、その場で死ぬわ』
その言葉は、恐ろしいほど淡々としていて、この場における現実を突きつけた。
倒れた少女が別室へ運ばれると、司祭のような立場の者が壇上に立った。
「これにて、我らが使命は明確となった。女神に従う者を許すな。道を塞ぐ者を許すな。神の敵は、すべて討つべし!」
歓声はなかったが、息を呑むような静かな熱気が満ちていく。
ネアは気づいた。
(……ここにいるほとんどの人が、本気で戦いに備えるつもりだ)
魔神教はただの地下宗教ではない。
大陸全体を揺るがす勢力であることを、否が応でも感じさせた。




