77話 魔神の眷属となった者
盗人たちとの遭遇は、一瞬だった。
「来たわね。……雑魚ども」
ジェーンが歩み出た瞬間、空気の温度が変わる。
動いた、と思った時には、すでに何人かが砂上に倒れている。
特別な魔法を使っているようには見えない。
魔力を圧縮してぶつけるだけ。それなのに、圧倒的すぎる速度と精度。
(これが幹部の実力……)
ネアは見物以外にすることがない。
戦う必要すらない。彼女がすべて片付けてしまうから。
やがて、最後の一人だけが残った。
ジェーンはその男性の襟首を掴み、片腕で軽々と持ち上げる。
「さあ、吐きなさい。盗んだものはどこ?」
男性は怯えた顔をしながらも、妙に静かだった。
次の瞬間、男性の喉から泡のように黒い煙が立ち上った。
レセルが即座に叫ぶ。
『まずい……ネア、下がって!』
ネアは言われるがまま後退する。
ジェーンの目は、ほんの一瞬だけ細まった。
「まさか……あなたたち、盗みは陽動で幹部を仕留めに」
最後まで言い終える前に、男性の体が爆ぜた。
轟音と灼熱が一気に広がり、黒い火でできた花、と表現できる代物が現れる。
砂地が一面、海における波のように跳ね上がり、直撃の中心にいた者の体は──どちらも完全に飲み込まれた。
「!!」
砂煙が風に流れていく。
そこに肉体はなかった。
ただ、黒い霧だけが、ふわりと揺れていた。
霧は揺れ、ねじれ、一つの形を作り出す。
人の輪郭を模した影のような存在が、そこに立っていた。
(……人、なの……?)
すると聞き覚えのある声が響いた。
「落ち着きなさい、ネア。私は死んでいないわ」
霧の姿のジェーン。それはゆらりと振り向く。
「そ、その姿はいったい……?」
人の輪郭をしたそれは、目に相当する部分だけが赤く光る。
「昔、名を捨てた。肉体も捨てた。それゆえに、私は力を得たの。魔神の眷属となることで、不老と擬似的な不死を。こつこつと作り上げた入れ物が壊されたのは、今回予想外だったけど」
ネアの背筋がぞわりと震えた。
今まで見てきた彼女の肉体は、入れ物として作られていたということに。
「どうして……どうして眷属になんて……?」
その質問に対し、肩をすくめるように揺れた。
「理由なんて、くだらないものよ。強さが欲しかった。いろいろな意味の強さが」
そして、声色が急に鋭くなる。
「……お喋りはあとにしましょう。今は盗まれたものを取り返すのが先」
影の姿でも、ジェーンは迷いがなかった。
そのまま破壊された跡を辿り、地面の足跡を探す。
「……あれね」
砂に半ば埋もれた木箱があった。
焦げた跡が残り、中からはわずかに禍々しい気配が漏れている。
ネアは思わずビクッと反応する。
「これが……そんなに重要なもの……?」
黒い霧が木箱の蓋に触れ、かすかに震える。
「ええ。奪われたら面倒だったから、取り返せてよかった」
レセルが低い声でささやく。
『……ネア、近づきすぎないで。あれ、嫌な気配がする』
ネアは頷き、剣の柄を改めて強く握る。
人の輪郭をした霧は、木箱をゆっくりと持ち上げた。
その動作はまるで──これだけは絶対に渡せない。
そう告げているようだった。
「ふぅ……」
木箱を回収したあと、
追跡隊はすでに散り散りになって周囲を確認していた。
ネアはドレイクの背に戻り、息を整えつつジェーンを振り返った。
「あとは他の人たちが来れば、追跡は終わり?」
しかしジェーンは、ドレイクには近づかなかった。
黒い霧の姿のまま、ただじっとネアを見つめている。
目に相当する赤い部分が、わずかに揺れた。
「ネア。大事なことを教えてあげる」
ゆっくりと、砂を踏む音を立てずに寄ってくる。
「こういう──“人ならざる身”となった者には、器が必要なのよ」
ネアは無意識にあとずさる。
「……器?」
「ええ。肉体を失えば、曖昧なまま世界に存在し続けるのが、とても難しい。だから、強くて若い器があれば、どれほど楽かしらね?」
黒い霧がかすかに笑った、ように見えた
次の瞬間、その影が弾けるように襲いかかってきた。
「っ!」
耳元を黒い魔力が通り抜け、砂地が焦げる。それは火の属性を持たせた闇。
怯んだ隙に、ジェーンは霧の腕を伸ばし、ネアの胸に手を触れようとする。
『ネア、避けて!』
レセルの声を受けてネアは跳び退くと、すぐさま反撃に転じ、剣を振るう。
刃は霧をすり抜けていく。だが、まったく無意味でもなかった。
シュッ……
剣が通り抜けた霧が一瞬だけ裂け、ジェーンが腹立たしそうに舌打ちする。
「ちっ……魔剣の使い手には、簡単には干渉できないか」
「まさか、私を同行させた理由って……!」
ネアの声が震える。
「若くて実力ある肉体。いざという時の、予備の器としてそばに置いておきたいに決まっているでしょう?」
(……器。つまり、私を入れ物にするつもりで……?)
全身にぞわっと寒気が走る。
「それは……これであなたも魔神に祝福された者の一人、って言ってたのと繋がってる?」
ネアが問うと、霧は愉快そうに形を揺らした。
「あの時、あなたが加護を貰ったことに私が喜んでたように見えた? 当然、演技よ。だって、魔神教ではほいほいと力が貰えるということを、抜けたあとも広めてもらわないといけないのだから」
砂の上に響く、黒い笑い声。
その冷たさに背筋が締め付けられるような恐怖を覚える。
そして、霧のジェーンは近づいてきながら、ささやく。
「さっきの爆発を見たでしょ? あれで皆が集まって混乱が起きる前に……私はあなたを確保しておきたかったの。手遅れになる前にね」
黒い霧で形作られた指先がネアの頬へ伸びる。
レセルの鋭い声が響いた。
『ネア! 決して触れさせないで!!』
「わかってる……!」
ネアは剣を握り直し、呼吸を整える。
ジェーンは微笑み、ゆらりと手を伸ばした。
「さあ、来なさい。あなたという器は……とても魅力的だもの」
「……はぁっ!」
ネアの体が限界を超えて動く。
瞬きの間に、砂を踏みしめ、斬撃を放つ。
これはネア自身の力ではない。
魂の結びつきによって、レセルが体の制御を上書きしている。
『動くわよ、ネア! あと少し持たせて!』
「わ、わかってる……けど……痛い……!」
全身が痛みによる悲鳴を上げる。
骨がきしむ感覚すらあった。
それでも、剣は振るわれる。
黒い霧のジェーンを切り裂くたび、霧はわずかに薄く、小さくなっていった。
「っ……あなたが……! 魔剣の力で……ここまで……!」
霧の影がふらつき、怒りをあらわにする。
だが、それを断ち切るように最後の一太刀が振るわれ、決着はついた。
「舐めてかかりすぎた……か」
目の位置にある赤い光が揺らぎ、悔しげに震える。
「残念ね……若い魔剣使いは……貴重。あなたを器にすれば……私の野望を……果たせたかもしれなかったのに……」
「……野望?」
ネアは息を切らしながら問う。
人の形の霧であるジェーンは薄れながら、それでも答えようとした。
「魔神を……復活させ……その力を……私の……もの、に」
声は途切れ、溶けるように散っていった。
最後には、風に吹かれて消えるだけの霧となり──完全に消滅した。
ネアは剣を支えに、膝をつく。
「っ……痛っ……!」
全身が焼けるように痛む。
『ごめんなさいね、無理をさせてしまって。でも、あのままだと本当に危なかった』
「うん……ありがとう……レセル……」
そんな会話の最中、周囲で捜索していた魔神教の信徒たちが、遅ればせながらやって来た。
「何があった!?」
「ジェーン様は!? 姿が……!」
ネアは短く息を整え、冷静に答える。
「……盗人たちと戦って……相討ちになりました。ここから先は……私にもよく……」
レセルが静かにささやく。
『正直すぎると疑われる。曖昧が一番よ』
ネアはその言葉に従い、それ以上は言わなかった。
信徒たちは動揺しつつも、すぐに木箱の確認へ移る。
「中身は……宝石が五つあるはずだが……」
「一つ……ないな」
ネアは木箱を覗き込み、眉をひそめる。
「どんな宝石が?」
「魔神の復活に必要な、大量の魔力が詰まった宝石だ。数十年分の魔力を凝縮した特別製で、五つ入ってた。減れば、それだけ復活は遠のく」
レセルは嫌そうに剣である身を震わせる。
『あれは……持ち歩くものじゃないわ……』
信徒たちの間で意見が飛び交う。
「盗人がどこかに隠したか……」
「もしくは、別の者に渡ったか……」
「……これ以上探しても、痕跡は残っていない。失われたのは、数百、数千あるうちの一つだけだ」
最終的に導きだされる結論は一つ。
「追跡はここで終わりだ」
ネアは静かに頷いた。
しかし胸には、消えない不安があった。
(……宝石は、どこへ……? 誰かが持っていった……?)
砂を巻き込みながら風が吹き抜け、ジェーンがいた場所の黒い痕跡を完全に消し去った。
ネアの胸には、痛みと、疑念と、“魔神復活の火種が別の誰かに渡った”という重い事実だけが残った。




